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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第5節:菅谷村の沿革

武蔵国比企郡大蔵村

沿革

名称 往昔大倉トアリ。年代未詳今大蔵村ト書ス。
所属 玉川領大蔵郷ニ属シ明治五壬申年(1872)二月大小區ヲ置キ六大區四小区ト呼フ。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ノ管理ニ属シ、同十七年(1884)七月本村外八ヶ村ヲシテ菅谷村聯合戸長役場ヲ置ク。
分合 旧一村タリシモ元禄十一寅年(1698)三給ニ分レ一御料所其ノ余ハ知行所トナリ。宝暦十三年未年(1763)清水領及知行所ノ二分ニナル。寛政八辰年(1796)ニ至リテ又一村トナル。
管轄 古時未詳。徳川氏関東総領以後元禄十一寅年(1698)御代官伊奈半左衛門支配所タリ。下ッテ宝暦十三年(1763)清水殿領地ニ転シ残高石黒喜一郎知行所トナル。寛政八辰年(1796)清水家御世嗣ナク御代官野田文蔵支配トナリ。此ノ時ニ給ヲ合テ一給トナル。文政七申年(1824)清水家再興シテ領地ニ復ス。天保十四卯年(1843)川越城主松平大和守領知ニ代ル。明治五壬申年(1872)二月入間縣管轄ニ転シ同六年(1873)六月熊谷縣ノ所轄ニ移ル。同九年(1876)九月埼玉縣ノ管轄タリ。同十二年(1879)四月比企横見郡役所ノ管理ニ属シ同十七年(1884)七月本村外八ヶ村ヲシテ菅谷村聯合戸長役場ノ所轄ニ属ス。

位置疆域

位置 比企郡西ノ方
東 根岸村上唐子村ノ畑ノ耕地
西 鎌形村田耕地
南 将軍沢村ノ山林
北 菅谷村都幾川ノ中央

幅員

東西 九丁
南北 六丁
周囲 三十四丁三十間
面積 廿五萬貳千九百八十八坪

地味

色 村ノ中央ヨリ南方黒赤混ス北方白赤混ス
質 壚土(ろど=黒土)三ト真土砂交リ七分
適種 稲梁ニ克ク適ス。大麦、楮、桑茶ニ應セリ

地勢

山脈 西南漸ク高シ。原野等踰(こ)エテ平林
水脈 西北部ニ都幾川ヲ沿ヒ、東流シテ根岸村ニ入。舟通セス筏ニ便ナリ
東部 耕地
西部 耕地
南部 山林
北部 耕地
全地形勢 西北ニ方ハ耕地ヲ隔テテ都幾川ヲ帯ビ、村ノ中央、北方菅谷村ヨリ来リ南ノ方将軍沢ニ至ル八王子往還ノ里道アリ。両端村民併住ス。少シク宿並ヲナセリ。東ハ畑耕地ニ、南ハ本村ノ原野ヲ超エテ平林アリ。又東方枩山町ヨリ西方ヲ経テ秩父郡中行ク里道ハ、根岸村界ヨリ来ツテ村ノ中央八王子道ニ會シテ南ヘ稍二十間許延キ、又右ニ分レ西ノ方鎌形村界ニ入。全村高燥ノ地ナレドモ田地隣村鎌形村地内ヨリ発ル都キ川ノ流水ヲ用水ニ充ツヲ以テ足リトス。但シ村ノ中央ニ木曽帯刀先生義賢ノ館址アリ。今皆陸田ナレドモ構塘壁ハ今尚存セリ。

地種

 官有地

第一段別 八畝拾壱歩 筆数 二筆
第二段別 ナシ
第三段別 拾貳町三反拾四歩 筆数 十四筆
第四段別 三反六畝七歩 筆数 二筆
小計段別 拾貳町八反貳歩 筆数 十八筆

 民有地

第一段別 七拾壱町九反二畝一歩 筆数 千二百四拾壱筆
第二段別 五反壱畝廿三歩 筆数 十筆
小計段別 七拾貳町四反三畝廿四歩 筆数 千二百五拾壹筆
總計段別 八拾五町貳反参畝廿四歩 筆数 千二百六拾九筆

里程

元標所在 本村中央字御所ヶ谷戸
本縣庁ヘ 十里廿三町
本郡役所ヘ 一里廿四町
近驛 東 松山町ヘ一里廿四丁三十七間
   西 小川村ヘ二里十二丁
   南 越生村ヘ二里三十二丁
   北 熊谷驛ヘ四里十八丁
 東京 日本橋ヘ 十六里廿三丁

耕宅地及鹽田

 民有地

田  段別 拾参町貳畝廿六歩
   筆数 三百六拾一筆
   地価 七千四拾一円二十七銭五厘
畑  段別 三拾三町七反拾壱歩
   筆数 五百四十二筆
   地価 五千六百円四拾五銭貳厘
宅地 段別 五町貳反貳歩
   筆数 七拾二筆
   地価 千三百六拾八円三銭
總計 段別 五拾壱町九反五畝九歩
   筆数 九百七十五筆
   地価 壱万四千九円八十五銭七厘

字地

大東(おおひがし)
 舊字(旧字=きゅうあざ) 大東
 段別 四町五反五畝十六歩
 筆数 七十一筆
地尻(ぢじり)
 舊字 地尻
 段別 五町壱反五畝拾歩
 筆数 九拾筆
入加(にゅうか)
 舊字 入加
 段別 五町五畝七歩
 筆数 六十二筆
小谷(こやつ)
 舊字 小谷
 段別 四町九反九畝十九歩
 筆数 六十四筆
坊ノ上(ぼうのうえ)
 舊字 坊ノ上
 段別 五町五反六畝十四歩
 筆数 七十九筆
大谷(おおやつ)
 舊字 大谷
 段別 四町七反四畝廿壱歩
 筆数 四十一筆
西原(にしはら)
 舊字 西原
 段別 五町四反八畝十三歩
 筆数 七十一筆
御所ヶ谷戸(ごしょがやと)
 舊字 御所ヶ谷戸
 段別 六町二反八畝七歩
 筆数 百四筆
堀ノ内(ほろのうち)
 舊字 堀ノ内
 段別 四町貳反七畝十九歩
 筆数 六十九筆
下河原(しもがわら)
 舊字 下河原
 段別 五町九反五畝七歩
 筆数 百四十六筆
柏田(かしわだ)
 舊字 柏田
 段別 四町九反八畝二十八歩
 筆数 【記載ナシ】
宮ノ裡(みやのうち)
 舊字 宮ノ裡
 段別 三町三反壱畝十五歩
 筆数 六十三筆
行司免(ぎょうじめん)
 舊字 行司免
 段別 四町九反三畝二歩
 筆数 七十七筆
木ノ宮(きのみや)
 舊字 木ノ宮
 段別 四町三反三歩
 筆数 六十九筆
上河原(かみかわら)
 舊字 上河原
 段別 壱町貳反四畝二歩
 筆数 七十五筆

戸籍

 平民

  本籍 五拾八戸
   内現住 五十八戸
   入寄留管外 壱戸
   小計 五十九戸
 合計   五十九戸
  本籍 戸主 男五十六人 女二人 計五十八人
   家族 男百三十人 女百八十二人 計三百十二人
     合三百七十人 現住三百七十人
  入寄留管外 戸主 男壱人 女   計壱人
        家族 男   女貳人 計二人
合三人 繳合(きょうごう) 三人

本籍年令

五年未満   男二十一人 女二十二人 合四十三人
五年以上   男廿五人  女廿人   合四十五人
十年以上   男十四人  女十八人  合三十二人
十五年以上  男十七人  女十九人  合三十六人
二十年以上  男十六人  女十一人  合二十七人
二十五年以上 男十四人  女十一人  合廿五人
三十年以上  男十二人  女十人   合廿二人
三十五年以上 男十二人  女十人   合廿二人
四十年以上  男六人   女十七人  合廿三人
四十五年以上 男十一人  女八人   合拾九人
五十年以上  男十一人  女七人   合十八人
五十五年以上 男七人   女八人   合十五人
六十年以上  男九人   女九人   合十八人
六十五以上  男六人   女五人   合十一人
七十年以上  男二人   女六人   合八人
七十五年以上 男三人   女二人   合五人
八十年以上  男     女一人   合壹人
總計 男百八十六人 女百八十四人 合三百七十人

生死及就籍除籍

出生 男七人 女六人 合拾三人
就籍男二人 女三人 合五人
計 男九人 女九人 合拾八人
死亡 男五人 女三人 合八人
除籍 男一人 女三人 合四人
計 男六人 女六人 合拾二人

牛馬

内種 牡 廿六頭 小計廿六頭 合計廿六頭

荷車 大六以上 十六輌 合計十六頭【輛】

神社

 ○日枝神社

所在 村ノ西方字宮ノ裡 坪数 百七十四坪
祭神 大山咋命(おおやまぐいのみこと)
社格 村社
創建年月 応永年中(1394-1428)
祭日 十月十日
氏子 五拾八戸
末社 諏訪社 八幡愛宕社 三峯社 神明社 雷電社 八坂社 菅原社 木ノ宮社
現任宮司若クハ祠官ノ名 斉藤周養
 社領十石慶安年中賜リ其ノ項安養寺別當セシヨシ。御一新ノ際上知トナル

 ○稲荷社

所在 村ノ中央字御所ヶ谷戸 坪数 四拾五坪
祭神 蒼魂命【倉稲魂命(うかのみたまのみこと)・保食神】
社格 雑社
創建年月 仁平年中(1151-1154)
祭日 毎年二月初午ノ日
氏子 五拾八戸
末社 神明社
現任宮司若クハ祠官ノ名 齋藤周養
 俚語ニ木曽義賢ノ守護神ナリト云ヘリ。事詳ナラズト雖モ其ノ旧キコト知ラル。

 ○菅原社

所在 東方字大東 坪数 三十二坪
祭神 菅原道真
社格 雑社
創建年月 末詳
祭日 一月二十五日
氏子 五十八戸
現任ノ宮司若クハ祠官ノ名 斉藤周養

寺院

 ○大福山 向徳寺

所在 村ノ北方字堀ノ内 坪数 千八十七坪
宗派 時宗
寺格 相模国鎌倉郡藤澤驛清浄寺ノ末流
開基人名 清阿上人
開基年月 宝治年中【1284年=弘安七年】
現住ノ姓名 永井諦住
 無量院ト号ス。慶安二年(1649)寺領十石賜リ。其ノ后年暦末詳廃寺トナリシヲ*1天和年中ノ頃(1681-1683)向阿徳音ト云フル僧中興開基セシトナリ。本尊阿弥陀ヲ安ス恵心僧都ノ作ナリト云フ。鐘ハ元文五年(1740)ノ鋳造ノ銘アリ。

*1:「其ノ后年暦末詳廃寺トナリシヲ」の前に「開山清阿宝治(ほうじ)二年(1248)四月八日寂(じゃく)セリ。」(『新編武蔵風土記稿』大蔵村)にあたる文が入る。

 ○大乘山 安養寺

所在 村ノ南方字坊ノ上 坪数 貳百八十五坪
宗派 天台宗
寺格 比企郡下青鳥村浄光寺末派
開基人名 廣覺法印
開基年月 応永元甲戊年(1394)五月
現住ノ姓名 小嶋乘寛
 寂光院ト号ス。本尊阿弥陀ヲ安置ス。境内薬師堂建設アリ。村社日枝神社ヲ管理セシニ御一新ニ際シテ止ム。

道路

 ○秩父道

等級 里道
 貳間
 東ノ方根岸村界ヨリ西ノ方鎌形村界ニ至ル七丁四拾七間
形状 東方根岸村界ヨリ入西ニ向イテ壱丁二十貳間来リ村ノ中央八王子道ニ會シテ又南ヘ折レ三十九間来リテ又西二分レテ五丁三十六間ニシテ鎌形村界ニ入リ之ハ東方松山甼ヨリ西平ヲ経テ秩父郡大宮郷ニ至ル大通リ二テ最モ平素人馬ノ往来茂シ

 ○八王子道

等級 里道
 北ノ方菅谷村ヨリ来リ都幾川ヲ渉リ川原ヲ過キ本村標杭ヨリ南ノ方将軍沢界ニ至ル八丁五十七間三尺
 貳間
形状 北ノ方都幾川ノ南岸ヨリ発リ村ノ中央ヲ南ニ向イ直道シテ三丁七間来リ秩父道ト會同シテ三十九間ニ三筋橋爰ニ秩父道ト分レ尚南ヘ直道シテ二丁二十九間来リ縁截橋アリ廿五間ニシテ不逢ヶ原ノ坂道ニ上リ将軍澤村不添ヶ森ニ入ル
雑項 舊記ニ曰ク此ノ道ハ昔シ木曽帯刀先生義賢此ノ地ニ在住セシトキノ町方ニシテ今モ両端ニ村民併住ヲナセリ

地所 明治九年(1876)十二月廿二日調査ノ分

 官有地

村社 段別 五畝廿四歩
社地 段別 貳畝十七歩
林 段別 三反五畝廿壱歩
原野 反別 貳反七畝四歩
都幾川 反別 四町六反八畝拾歩
溜池 反別 五畝五歩
溝渠 段別 壱町壱反七畝拾歩
堤籔 段別 五反壱反七畝拾歩
道路 段別 五町貳反五畝拾壱歩
掲示場 段別 三歩
寺院境内反別 三反六畝七歩
合計 反別 拾貳町八反貳歩

 民有地

田 反別 拾参町貳畝廿六歩
畑 反別 三拾三町七反貳畝拾壱歩
郡村宅地 反別 五町貳反貳歩
山林 反別 拾四町七反八畝五歩
林 反別 貳町八反七畝六歩
萱生地 反別 壹反九畝廿四歩
芝地 反別 四反八畝廿二歩
用水路 反別 九反廿八歩
畦畔敷 反別七反一畝廿七歩
墓地 反別 四段五畝歩
斃馬捨場 反別 六畝廿三歩
合計 段別 七拾弐町四段三畝廿四歩
總計 反別 八十五町貳反参畝廿六歩

林藪(りんそう)

所有 民有地 字大東  段別 三反七歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字地尻  段別 壱町八反七畝十四歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字入加  段別 四反五畝十七歩 主用 用材
所有 民有地 字入加  段別 三町七反十二歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字小谷  段別 三反八畝四歩 主用 用材
所有 民有地 字小谷  段別 三町壹反八畝一歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字坊ノ上 段別 九畝二十八歩 主用 用材
所有 民有地 字坊ノ上 段別 四段貳畝十二歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字大谷  段別 三段七畝三歩 主用 用材
所有 民有地 字大谷  段別 四町壱反壱畝拾貳歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字西ノ原 段別 二反五畝十五歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字御所ヶ谷戸 段別 五反八畝廿一歩 主用 用材
所有 民有地 字堀ノ内 段別 八反弐畝十八歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字下河原 段別 壱反六畝八歩 主用 薪炭材
所有 民有地 字下河原 段別 八反四畝十九歩 主用 用材
合計 拾七町五反八畝拾壱歩

原野

不逢ヵ原
所在 村ノ南ノ方ニアリ
所属 民有地
段別 八町壱反貳畝歩
形状 中央以北ハ少シク北東ヘ斜面ス中央ニ一条ノ谷アリ平素ハ小泉湧出ス。以南ハ平林ニシテ将軍沢村不添ヶ森ニ属セリ。
生産 中央以北ハ秣野ニシテ以テ南ハ雑木繁生ス。

河渠

 ○都幾川

発源 秩父郡大野村ヨリ発ス
流状 東方ニ直流シテ水勢緩慢
所属ノ長 八丁廿間 最広百間 最狭八十間
 最深八尺 最浅二尺
水質 澄清
潅漑 用水ニ便ヲ得ル
運輸 筏ヲ通ス
物産 鮎魚ヲ生ス
 水源ハ秩父郡大野村字鳶巣山ヨリ発水シ所々ニ山間小流ヲ合セテ西方鎌形村地内ニ於テ槻川ト会流シテ本村ニ至リ東流シテ東方根岸村界ニ入ル。

【橋梁】

 ○縁截橋(えんきりばし)

所在 村ノ南方里道八王子道字入加堀ニ架設ス。
 八尺  七尺 構造 石製
架設年月 明治九年(1876)九月
雑項 本村南ノ方不逢原ノ北端字小谷ノ渓間ヨリ湧出スル小泉ノ末流ニ架スル橋ニシテ縁截橋ニ唱フ。之モ坂上利仁将軍ノ由縁アリトカヤ。里民ノ口碑ニ此ノ橋ニ祈念セバ縁ヲ截ル事奇ナリト云ヒ伝フ。

 ○蛇坂橋(へびざかばし)

所在 村ノ北方里道八王子道都幾川ニ架設ス。
 拾余間  三尺 構造 木製
架設年月 其ノ年十一月上旬ニ架シテ翌年三月末旬ニシテ事足レリトス。馬車ノ通行アルハ僅カ川下ニ降リテ枩山甼ニ通スル馬橋アルヲ以テ之ヲ兼ヌル故ナリ。

【堤塘】

 ○都幾川堤

 四百四十七間。西方鎌形村ヨリ発セリ本村字下河原ニ至ル。
 九尺 馬踏 八尺 堤脚 五六間ニ過ズ
 北岸高ク自然山ヲ以テ堤防ヲ兼ヌル故ナリ。本村ノ地内ニ漲流セルヲ防グ爲メ建築セル堤ナレバ暴漲防トシテ悉ク数千本ノ杭木ヲ以テ防グ。其ノ費用ハ官民ニ途ニ分ツ。

湖沼

 ○小谷池

所在 村ノ南部  東西拾五間 南北拾八間
面積 百五十五坪
水利 田五段三畝十四歩ノ用水ニ供フ。
雑項 不逢ヶ原ノ谷間ヨリ湧出セシ水泉ヲ溜メテ以テ用水ニ充ルコトトス。

古跡

 ○古城蹟 大蔵ノ館

所在 村ノ中央字御所ヶ谷ニアリ。
現状 東西一丁五十五間南北一丁三十間周回六丁三十間面積九千六百九十三坪ニシテ皆陸田ナリ。西隅ニ稲荷社アリ。社中廿間四方。杉大樹アリ。義賢ノ守護神ノヨシ。東西ニ方ハ胸壁今尚存ス。南一方ハ秩父郡道ヲ以テ界シ、北ノ一方モ村道ニテ界ス。按ニ南北ニ方ハ道ヲシテ舊構ノ跡ナリト見ユ。館中悉ク民地トナル。
雑項 伝ニ曰ク。仁平年中ノ頃ヨリ木曽帯刀先生義賢ノ居館ナリト。久寿二年(1155)八月十六日鎌倉悪源太義平ノ為ニ絶ルト云フ。事實詳ナルコトハ末瞭ナリト雖モ義賢ノ旧跡ナルコト疑ヲ容レス。今ヲ去ルコト凡ソ六百十余年ナリ。

古墳

 ○木曽帯刀先生義賢ノ墓

所在 村ノ東方字大東ノ畑中ニアリ。
坪数 壹坪
形状 唯一石ノ塔ニシテ其ノ回リニ小石ヲ積ミ梵字等欠損シ不明ナリ。
雑項 村民新藤氏ノ所有ノ畑中ニアリ。元ハ五輪ノ塔ノヨシナレドモ欠テ土中ニ埋リテ今ハ見エズ。

租税

 国税

地税金 三百六拾壱円六拾銭五厘
車税金 八円
合計金 百六拾九円六拾銭五厘

 地方税

地租割金 六拾四円四拾四銭六厘
戸数割金 三拾八円四拾九銭貳厘
営業税金 拾壱円三拾六銭
雑種税金 九円七拾五銭
合計金 百廿四円四銭八厘

 舊租

田高   米 三拾壹石七斗五升 石盛十三、十一、九免
畑高   永 三拾壱メ八百五拾貳文壱ト五厘 石盛 十、八、六、四免
屋敷高  永 二メ五百八十四文六ト五厘 石盛 十免
合計地租 米 三十一石七斗五升 永 三十四メ四百三十六文八ト

 舊雑税

野手米(のてまい) 八斗
柴草冥加 永 貳百五十貳文弐ト
紙売出  永 百四十九文
綿目売出 永 貳百拾文
合計   米 八斗 永 六百十一文弐ト

舊検地帳表書合計

寛文八年 案内 長左エ門 市郎兵エ門 理兵エ 孫右エ門 伊兵エ 七郎左エ門 作左エ門 庄左エ門
表書 武州比企郡玉川領大蔵村申御縄打水帳
    五冊ノ中 深谷喜右エ門
合計 上田  壱町弐反七畝九歩
   中田  壱町七反壹畝廿五歩
   下田  八段壱畝廿七歩
   下々田 壹段八畝壹歩
   上畑  六町七段六畝十一歩
   中畑  八町壱段七畝廿七歩
   下畑  九町五段四畝十歩
   下々畑 六町五段七畝廿九歩
   屋敷  壱町七段五畝十二歩

舊検地帳所載ノ字

寛文八年戊申七月廿九日 五冊ノ内検地役人 深谷喜右エ門
堀ノ内 宮浦 行地免【行司免】 木ノ宮 川原 坊ノ上 地尻 坂口 谷 柏田 御所ヶ谷戸 窪口(くぼぐち) 西ノ原 小林 入加 田縁 遠山ヶ谷戸【行司免遺跡の井戸のあたり】 清水 西海道
以上拾九

物産

米  生産高 百二十六石八斗 輸出地方 比企郡小川村
糯米 生産高 三十一石
大麦 生産高 百六十四石四斗五升
小麦 生産高 百五十五石五斗
粟  生産高 十四石四斗
大豆 生産高 六十二石五斗五升
蕎麦 生産高 十一石二斗五升
甘薯 生産高 六百七十五メ目
実綿 生産高 二百四十八メ目
まゆ 生産高 三十六石
製茶 生産高 十二メ目
楮皮 生産高 七十五メ目

民業

農業  五十七戸
商業    一戸
農商兼業 拾壱戸
農工兼業  三戸
雑項 平素男女共農事ヲ専トスト雖モ男子ハ重ニ馬車ヲ牽キ婦女等ハ紡績ヲ業トス。但シ養蚕飼育ヲ最モ克ク勤ム。

菅谷村の沿革
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