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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第2節:新編武蔵風土記稿

比企郡 (九)

平沢村(比企郡菅谷村大字平沢)*1

 平沢村(ひらさわむら)ハ江戸ヨリノ行程(こうてい)十七里ニシテ玉川郷(たまがわごう)玉川領(たまがわりょう)ニ属(ぞく)セリ。此地(このち)昔ハ平沢寺領(へいたくじりょう)ノ内ナリト云フ。按(おもふ)ニ郡中志賀村(しがむら)ノ民、内田氏某ガ所蔵ノ天正(てんしょう)十三年(1585)霜月*2十九日、内田佐渡守広重(うちださどのかみひろしげ)ヨリ同三郎左衛門広次(さぶろうさえもんひろつぐ)ヘ与ヘシ文書ニ武州平沢云々トアルハコヽノコトナルベシ。東ハ菅谷村ニ隣リ、南ハ千手堂村(せんじゅどうむら)、西ハ下里(しもさと)・遠山(とおやま)ノ二村ニテ、北ハ志賀村ニ界(さか)ヘリ。東西ノ径(さしわた)リ十八町*3余南北ヘ九町許(ばか)リ。家数三十余。正保(1644-1648)ノ頃モ御料所*4ニテ寛文八年(1668)坪井次右衛門*5検地シ、延宝八年(1680)中川八郎左衛門*6新田ヲ糺セシ*7ト云フ*8。其後元祿十一年(1698)金田周防守*9ニ賜リシヨリ今子孫主殿ニ至レリ。

*1:現・埼玉県比企郡嵐山町大字平沢。
*2:霜月(しもつき)…陰暦(いんれき)十一月の別称。
*3:町(ちょう)…1町は約109メートル。
*4:御料所(ごりょうしょ)…幕府の直轄地(ちょっかつち)。
*5:坪井次右衛門(つぼいじえもん)…代官坪井治右衛門とも書かれている。
*6:中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)…『吉見町史 下』によると、武田の旧臣で家康に従った今井九右衛門忠昌の長男であったが、同じ武田の旧臣で家康に従った中川昌勝の養子になり、やがて代官になった。中川八郎右衛門の支配地は八王子の代官所と横見郡(現吉見町全域)で、御所村(ごしょむら)に陣屋(じんや)を置いていた。彼は1668年(寛文8)に横見郡内の検地に着手し、1680年(延宝8)に郡内の検地を完了している。
*7:新田ヲ糺(ただ)セシ…新田の検地をした。
*8:中川八郎左衛門は横見郡の検地終了後、平沢村の新田検地を行なったことになる。しかし、その2年後の1682年(天和2)に年貢の滞納と行状(ぎょうじょう)よろしからずということで切腹を命じられ、家も断絶になったという。『新編武蔵風土記稿』御所村の「陣屋蹟」の項には、「当郡ノ御代官中川八郎左衛門ガ居シ所ナリ。八郎左衛門ハ天和ノ頃家絶エタリ。今其蹟(あと)スベテ畑トナレリ。」とある。
*9:金田周防守(かねだすおうのかみ)…旗本。

高札場*1

村ノ中程ニアリ。
小名 赤井谷 デジョウ坊 タカン坊

*1:高札場(こうさつば)…掟(おきて)などを書いてかかげた立て札の場所。

平沢寺(へいたくじ)

天台宗*1、入間郡仙波中院*2ノ門徒成覚山実相院ト号ス。相伝フ往昔*3ハ大ナル仏刹*4ニシテ此地モトヨリ寺領(じりょう)ノ内ナリシト。今村内ノ不動堂ノ不動*5ハ古ノ本尊(ほんぞん)ニテ、又白山ノ社(はくさんのやしろ)モ其頃ヨリノ鎮守(ちんじゅ)ナリト云フ。此堂社ノコトハ下ニ辨(べん)ゼリ。『東鑑*6』ニ文治四年(1188)七月十三日丁未(ひのとひつじ)*7、武蔵国平沢寺(へいたくじ)院主被付僧求寛訖(おわんぬ)*8トアルハ当寺ノコトナルベシ。サレド今ハ開山モ伝ヘズ。イツノ頃ニヤ一度廃寺(はいじ)トナリシヲ郡中平村(たいらむら)慈光寺*9ノ住職重永ト云フ僧、カヽル名刹ノ絶タルヲ歎(なげ)キテ天正ノ頃(1573−1592)ニヤ中興(ちゅうこう)セシトイヘリ。宗長ガ『東路土産*10』ニ鉢形ヲ立テ須賀谷ト云フ所ニ至リ、小泉掃部介(こいずみかもんのすけ)ノ宿所ニ逗留(とうりゅう)シ、其ホトリノ平沢寺ニシテ連歌(れんが)アリ。此寺ノ本尊ハ不動尊、池ニフリタル松アルヨシノセタリ。是(これ)ニヨレバ永正(1504−1521)ノ頃マデハ存セシ寺ニシテ、廃(はい)シタルハ夫(それ)ヨリ後ノコトナルベシ。中興開山重永、寛永九年(1632)十二月廿九日示寂(じじゃく)ス。本尊ハ弥陀*11ヲ安セリ*12
経筒内容 *13
○天神社 ○寺宝 経筒(きょうづつ) 一口 享保(きょうほう)ノ頃ナリシ境内ニツヅケル地ニ、土人*14長者塚(ちょうじゃつか)トイヘル古キ塚ヲ掘シニ、古木ノ根ヨリ出シト云フ。銅ニテ尤モ古色ナルモノナリ。久安(きゅうあん)ハ今ヨリ六百七十年ノ余ニ及ベリ。其図右ノ如シ。

*1:天台宗(てんだいしゅう)…平安時代に唐に渡って学んだ最澄(さいちょう)が帰国後開いた宗派。
*2:仙波中院(せんばなかいん)…川越市小仙波町にある中院は、1301年には関東天台宗580余寺の本山となり、関東天台教学の中心であった。江戸時代に天海大僧正が家康の信頼を得て活躍するようになると、関東天台宗の中心は同じ小仙波町にある喜多院(きたいん)に移った。現在は「天台宗別格本山特別寺」の称号を持っている。
*3:往昔(おうせき)…昔(むかし)。
*4:仏刹(ぶっさつ)…寺院。
*5:不動(ふどう)…不動明王。
*6:東鑑(あづまかがみ)…吾妻鏡(あづまかがみ)のこと。治承4年(1180)4月9日、源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵から文永3年(1266)7月20日、第6代将軍宗尊親王(むねたかしんのう)が解任されて京都に帰るまでの事歴を編年体に記した史書。編著者は不明であるが鎌倉幕府の公式記録とする説が有力。
*7:文治四年は丁未ではなく戊申(つちのえさる)が正しい。
*8:訖(きつ)。動詞の連用形について動作が完了したことを示す。……してしまった。「武藏國平澤寺院主職事。被付僧永寛訖。」(むさしのくにへいたくじのいんじゅしきのこと。そうえいかんにつけられをはんぬ。)は「武蔵国平沢寺の寺主職を僧の永寛に与えられた」という意味。
*9:慈光寺(じこうじ)…ときがわ町にある天台宗寺院、開山は鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟釈道忠(しゃくどうちゅう)といわれ、奈良時代以来の教えを伝える関東を代表する山岳寺院(さんがくじいん)。国宝、国重要文化財、県・町指定文化財が多数保存されている。
*10:東路土産(あづまじのつと)…東路の津登(あづまじのつと)。連歌師宗祇(そうぎ)の門人宗長(そうちょう)(1448−1532)が永正(えいしょう)6年(1509)東国を訪れた時の紀行文。「つと」というのはわらで作った包みのことで転じてみやげもののことも指す。「東路の津登」は「東国のお土産話」という意味。
*11:弥陀(みだ)…阿弥陀如来。
*12:安置する。
*13:文意は、「沙門実与を勧進(かんじん)とし、久安(きゅうあん)4年(1148)2月29日に当国大主平茲縄とゆかりのものが施主となり、経筒を納めた。この志は、施主及びすべての者の平等利益の為に行なうものである。経筒の製作者は藤原守道、安部末恒、藤原助員である。」(嵐山博物誌第5巻)。平沢寺と経筒、持正院については、嵐山博物誌第5巻ほか、林宏一「藤原守道の経筒」(『埼玉県立博物館紀要 1』、埼玉県立博物館、1974年)『嵐山町史』、吉田稔「嵐山町平沢の旧修験持正院と平沢寺」(『研究紀要 17』、埼玉県立歴史資料館、1995年)などを参照。
*14:その土地に住んでいる人。土地の人。

不動堂(ふどうどう)

堂領六石五斗ハ慶安二年(1649)先規(せんき)ノゴトク御朱印(ごしゅいん)ヲ賜フ所ナリ。不動ハ伝教大師*1ノ作、コノ像古ハ平沢寺ノ本尊ト云ヘバ、当時コノ地モカノ寺の境内ナルベシ。僧万里(ばんり)ガ『梅花無尽蔵*2』長享二年(1488)八月ノ条(じょう)ニ云フ、十七日入須賀谷之北平沢山間太田源六資康之軍営於明王堂畔ニ三十騎突出迎余今亦深泥之中解鞍各拝其面賀資康無恙余己暫寓云
 明王堂畔間君軍 雨後深泥似度雲
 馬足未臨草吹血 細看要作戦場文
自註(じちゅう)ニ云フ六月十八日須賀谷有両上杉戦死者七百余員馬亦数百疋。是ニヨレバ此辺太田資康ノ軍営トモナリシコト知ルベシ。 ○七社権現社(ごんげんしゃ) 村ノ鎮守ニテ境内ニアリ。祭神ハ白山及ビ熊野三社三嶋ノ三社ヲ合殿シテ七社ト号ス。サレド古ハ白山ノミノ社ニヤ『梅花無尽蔵』ノ詩社頭ノ月ノ自註ニ云フ、九月廿五日太田源六於平沢寺鎮守白山ノ廟*3詩歌会与敵塁相対講風雅叶西俗無此様トソノ詩ニ
 一戦乗勝勢尚加 白山古廟沢南涯
 皆知次第有神助 九月如春月自花
依テ按(かんがえ)ルニ古ヘ平沢寺ノ鎮守白山ハ、当社ノコトニテ熊野・三嶋ヲ合セ、今七社ト号スルハ長享(ちょうきょう)(1487-1489)ヨリ後ナルコト知ルベシ。 ○別当*4 持正院(じしょういん) 本山修験*5、(葛飾郡小渕村*6不動院*7配下、顕蜜山不動寺ト号ス。当院本尊ニ神変大菩薩*8ヲ安ズ。寺伝ニ開山ハ栄源(えいげん)延宝(えんぽう)二年(1674)五月廿三日示寂*9ト云フ。サレド、世代(せだい)ノ内ニ覚長(かくちょう)ト云ヘル僧アリテ永禄八年(えいろく)(1565)八月寂(じゃく)トアレバ、別当トナリシモ古キコトナルベケレバ、栄源ハ中興開山*10ナルベシ。 ○稲荷社

*1:不動ハ伝教大師(でんぎょうだいし)…日本の天台宗を開いた最澄(さいちょう)のこと。
*2:梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)…室町末期の五山禅僧万里集九(1428−)が、その晩年、永正3年(1506)に自作の詩文を自ら編し注をつけた漢詩文集7巻(詩1451首、文111編)。万里集九が美濃鵜沼に構えた庵室を梅花無尽蔵(後年江戸城中にも同名の庵を設ける)と名づけ、また自称としても用いたことから家集の名としたもの。
*3:廟(びょう)…白山神社のやしろ。
*4:別当(べっとう)…寺の管理者。
*5:本山修験(ほんざんしゅげん)…京都の聖護院(しょうごいん)を本山とする修験の派。明治政府の神仏分離政策(しんぶつぶんりせいさく)によって、1872年(明治5)に修験道は廃止になり、本山派は事実上解体された。
*6:葛飾郡小渕村(かつしかぐん こぶちむら)…現・春日部市小渕(こぶち)。葛飾郡幸手領に属した。
*7:不動院(ふどういん)…関東を代表する本山派修験の大先達で配下の本山派修験寺院を支配した。参照:「春日部地史 近世−信仰−春日部市の寺社 近世の不動院」
*8:神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)…役小角(えんのおづの、えんのおづぬ)。7世紀末頃、大和の葛城山にいた呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。神変大菩薩は1799年(寛政2)に光格天皇から送られた諡号(しごう、おくりな)。
*9:示寂(じじゃく)…僧侶の死のこと。
*10:中興開山(ちゅうこうかいざん)…寺を再興した人。

『新編武蔵風土記稿第16巻』「比企郡(九)」 新編武蔵風土記稿刊行会, 1957(昭和32)1月15日
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