第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
前線慰問誌『比企』第1号 (1944)
御国の為に出兵の皆様方に御便りを私も乱文乍ら御仲間入させていただきます。決戦の新しき年を迎へまして銃は執らなくとも我が菅谷村民は職域奉公に邁進しつゝ朝な夕なに皆様方の武運長久を祈り毎日を送って居ります。多事なりし昭和十八年も夢の如く過ぎ去り戦局は日を遂うて凄愴苛烈を加へつゝあるこの秋、私達村民は皆様方の御苦労を感謝し食糧増産貯蓄増強等に驀進しております。
前線慰問誌『比企』第1号「町村だより」 1944年(昭和19)5月
ものゝふの大和心をより合せ
ただ一筋の大綱にせよ
銃後の誉れの家の方々も大和心を更に更により合せて一本の大綱(おおづな)にして米英に最後のとゞめさす迄はと頑張り抜く意気です。
村民各位始め吾々はこの君国に生れてこの大戦争を戦ひ乍ら安らかな毎日を送ることの出来ると言ふことはなんと言ふ有難いことでせう。常に感謝に生き感謝の毎日を送り「聖戦へ民一億の体当り」此の意気で精出して居ります。国民学校の生徒も「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです」と歌ひながら木枯吹き荒ぶ昨今元気で通学して居ります。
来る二月七日には玉川に分会査閲があります。兵役法の改正で仲間が多数となり、皆々様の仲間入が出来ると期待しつつ戦力増強に努めて居ります。
本日役場の掲示板にも米供出完了の書出し報告を貼りました村民各位の粒々辛苦を御報告申上ます。
うき事の猶此の上に積れかし
力ある身の力ためさん
一月一日 役場内 根立生
第一線に日夜御活躍の兵隊さん明けましておめでとう御座居います。
前線慰問誌『比企』第1号「町村だより」 1944年(昭和19)5月
聖戦第三年の新春を迎へ皆さんますます張り切って居ることゝ存じます。こちら菅谷村民一同も皆様に負けぬ心持で増産に励んで居ります、御安心下さい。今日は本村の最近の景を片言集と題しお知せ致します。
旧臘十二月十日、農業推進隊員に選ばれた松本利次(大字鎌形陸軍兵長)氏は本村の農家を代表し内原の訓練所に入所十九年の一月下旬まで全国より選ばれた若人と共に農業魂を養って来る。
一月八日大詔奉戴してこゝに二度目【ママ】の日を迎へた。本村に於ては、聖戦達成、皇軍将兵の武運長久祈念其の他の記念行事を行ふ。この日、在郷軍人分会、壮年団青少年団青年学校(男女)国民学校等々各種団体は暁天動員を字神社で行ひ、次いで八時より郷社八幡神社に各団体集合荘厳な式を行ふ。一〇時に忠魂碑前に集合殉国の英霊に対し感謝の報告を行ひ一層敵米英撃滅、撃ちてし止まんの決意を新に致しました。
決戦に休暇なし多忙を極めてゐる役場其の他諸官庁公所等々休暇返上し三十一日まで職務励行、次に役場内の景を、大東亜戦下人的資源の確保は絶対に必要なり、されば結婚適齢者を登録し之が確保に万全を期するやう係りの助役さん其の他一同大童で活躍してゐます。一ケ年の決算調査に目もまはる程忙しい収入役さんは、ソロバンと猛烈にとつくんでゐる。パチパチと気持よい音を立てゝ之又ソロバン玉が動いてゐる税務係りの机上。藁工品増産に関する件云々などの文字が墨痕鮮やかに残されてゆく農会技術員の机上。或は次の時代を背負ふ子供−出生届書には「征雄」などと命名されてある。戸籍係の机上電話のリンはうるさく鳴つて来た。調書らしきものを持ち県庁へ報告の統計係の姿等々、決戦下の有様が僅か○坪の役場内ではつきりわかる。
一夜明ければ元日−昭和十九年の新春は明け離れた家毎に立てられてある国旗、言ひ知れぬ感が身体全体にみなぎるやうだ。
青年学校新年式場−冷風に吹かれつゝ助役殿の祝詞を聴く、「徴兵年齢が本年は一年低下した。諸君の内上級生はことごとく本年内に晴の徴兵検査を受け第一線に馳るのである。諸君思ひを新にせよ」と力強い言葉が響いてゐる。農士学校検校の筆、菅谷青年学校の門札が厳としてゐる独立校として最初に向へるお正月だ。
ヨイショ、ヨイショと元気一ぱいな声が聞へる。こゝは菅谷国民学校の校庭だ。一年生より高学年二年生まで全員、上半身裸体になつて乾布摩擦をしてゐる。可愛い一年生の身体、チヽがポツンとゴマ粒程だ、ニコニコしながら上級生に負けるものかとやつてゐる、実にたのもしい景だ。(関根記)
前線慰問誌 比企 (非売品)
前線慰問誌『比企』第1号「町村だより」 1944年(昭和19)5月
昭和十九年五月一日印刷納本
昭和十九年五月五日発行
編輯責任者 埼玉県比企郡松山町日吉町 大木友造
印刷者 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森清一
印刷所 東京都小石川区指ヶ谷町一四六 大森印刷所