第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争
芳魂殿仏像安置に就いて 大乗民主会
芳魂殿に英霊を祀りて以来芳魂を御守りする仏像を安置したいと云う意見が春の山野に萌出(もえいず)る蕨(わらび)の如く抬頭して来たので昨年(1951)の秋本会に於て理事会を開いて相談した処議が一決したので会員の意向を取纏(とりまと)め本年(1952)三月再び理事会で協議した結果、意見の一致を見、来る十月九日慰霊の式典当日安置する事に決定致しました。其の費用は額は少くもなるべく多数の方から尊い御芳志(ごほうし)を結集し又作者も信仰の上に立ち、全身全霊を打ち込んで彫刻する人に御願いすることに致しました。七月中旬頃理事の方々が会員の皆様宅へ御伺いして御喜捨(ごきしゃ)を御願いすることになりました。家中揃って煙草代の内から或は冗費節約の内より御小遣銭の中からでも其の立場は変っても其の方法は違っても芳魂を慰むる気持ちは一筋に聚(あつ)めて御報謝を御願い致します。
『七郷村報道』1952年(昭和27)6月1日
占領政策で公式慰霊祭が出来なかったけれど本村に於ては大乗民主会が発足以来七ヶ年春秋の二期会員の拠出により慰霊祭を挙行し続けて来たのであります。他村の如く遺族会自体で行うことに対比して隔世の感が致すのであります。
国で顧みられなかった行事も本村に限り芳魂に対する感謝の気持は勇敢に発揚し得た事を遺族の方々には御了解して頂けると思います。是の美挙ありて昭和二十五年(1950)秋芳魂殿祀り込の盛儀が挙げられ今又芳魂を守護する観世音菩薩安置の議が纏(まとま)ったのは当然の事と云わねばなりません。
抑々(そもそも)観世音菩薩とは凡夫(ぼんぷ)の苦悩を御救い下されて覚(さと)りの世界に化導し下さる大慈悲心の菩薩で御座います。其の名の如く苦難の音声を観でて解脱して下さる佛様であります。然も弥陀の浄土たる西方極楽世界に住せらるるけれども大慈大悲の心已(や)み難く一切衆生の苦を救い楽を与えんと佛の修行は終ったけれど佛の位極楽浄土に安座することを好まず一段下って菩薩となり迷の世界より悟りの世界に衆生済度(しゅじょうさいど)を計って御座るのであります。こうして大慈悲心の心深い菩薩を芳魂殿に祀ることは永遠に芳魂を御守り下さることになるのでありまして、芳魂殿が観音堂に化する杞憂(きゆう)は少しもないのであります。寺の本堂にも諸佛の像が安置せられ、我々の先祖を守護してござるのであります。又家庭の佛壇にも其の家の守本尊が安置されて先祖を御守りすると同時に先祖と共に其の家を守護して下さるのです。佛教の上から見れば芳魂殿に観世音が祀り始めて完成されたのであります。霊魂もさぞかし永遠に冥福出来ると思います。五月十一日常任理事会を開いて金泉寺塚本智導師の斡旋により信仰の厚い彫刻師高山市の都升峰仙師に高さ尺八寸観世音の立像を依頼しました。師は昨年秋中部日本の美術展に入選された大家だそうです。六月一日より水垢離(みずごり)取って原型の作にかかり八月八日に観世音様が御生れなさるそうです。
秋には会員の皆様と御迎えして立派に入佛の式典を挙げたいものです。
以上佛像安置の趣意を簡単に述べて会員皆様の御賛意願う次第であります。文責会長慈徳
七郷村では小学校の校庭にあった奉安殿を中学校の裏山に移転して芳魂殿と名付け、大乗民主会主催で春・秋の年二回戦没者慰霊祭を行っていた。完成した観音像の「祀込式」は1952年(昭和27)10月9日の慰霊祭で行われ、大沢埼玉県知事も参列した。
芳魂殿での戦没者慰霊祭