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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第2節:戦争の記録

村にも戦争の足音が

軍用物資の供出や愛国貯金

 馬内地区に残されている区有文書には、七郷村農会長栗原侃一から各農事実行組合長に宛てた「軍用藁納入ニ関スル件」という文書がある。これは県農務課長からの通知で、納入先は陸軍糧秣本廠となっている。日付は1937年(昭和12)9月16日である。当時日本はこの年の7月7日の盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)をきっかけに日中戦争に突入している。こうした背景の中で軍への供出が次第に増えてくる。翌38年(昭和13)には軍用馬鈴薯の供出が行われている。
 1939年(昭和14)1月25日の組合長会議では、「昭和14年度軍部供出ニ関スル件」という議題で相談が行われている。内容は次のような要請に対しての供出計画を立てることであった。

干甘藷一戸当タリ三俵  生甘藷ニテ一戸当タリ約十五俵
外ニ、大麦、馬鈴薯、白菜、小松菜、梅干、ホーレン草
以上、供出計画ヲ樹テル事
綿メリヤスシャツ(大)一枚、(小)一枚、股引(中)一枚以上割当ヲサレル

 干甘藷と生甘藷の割り当て数は一戸当たりの数であるから、馬内全体ではかなりの数になる。大麦以下のものは数が書かれていないがかなりの負担になったものと思われる。
 1939年(昭和14)2月10日の組合長会議では「兎供出ノ件」が話し合われている。兎の毛皮は大陸に出兵している兵士の防寒用に必要になったものであろう。
 同年4月20日の臨時総会では、協議事項として「愛国貯金最低一戸一円以上積立ツル事 四月三〇日迄」について、話し合われている。「一戸一円以上」という金額は、戦時下のぎりぎりの生活のなかでの貯金であることを示している。
 1941年(昭和16)3月には軍用藁の供出が全農家に課され、9月には軍用梅干の供出が、一戸80匁の割り当てで行われている。1匁は3.75グラムであるから、一戸300グラムの供出ということになる。

忠霊塔建設基金の積立

 日本は1941年(昭和16)12月8日にアジア太平洋戦争に突入し、戦線が中国だけでなくアメリカとの全面戦争になった。しかし日本軍が優勢であったのは約半年間だけで、1942年6月のミッドウエー海戦では主力の航空母艦を失い、以後アメリカ軍の反撃が始まった。日本軍の戦死者・傷病者が急速に増えていった。厳しい戦況に入った1942年度の馬内区有文書の記録を見ると、「忠霊塔建設基金積立帳 馬内部落」という文書が残されている。これは戦死者の霊を祀る塔を建てるための積立金の台帳である。馬内の全戸から毎月お金を集めて積み立てるもので、第1回目は1942年(昭和17)の5月から始まっている。金額は一戸何銭というもので、これを毎月集めて馬内地区として役場に持参したが、お金の領収印には七郷村収入役の印が捺されている。忠霊塔は七郷村として建てるためであった。この積み立ては43、44年(昭和18、19)と続けられている。

軍用機献納運動

 1945年(昭和20)には、7月20日付けの軍用機献納金領収書が残されている。「金四拾円也 但シ軍用機献納金」と書かれている。埼玉県史によると、これは大津敏男知事の名で呼びかけられた軍用機献納運動で、1942年12月太平洋戦争一周年を記念して始められた。県下の町内会・隣組が組織をあげて取り組んだ。この軍用機「埼玉隣組号」献納運動は陸海軍両省への二機分の代金16万円を目標に運動が展開された。馬内区有文書に残る領収書はそのときのものと思われる。苦しい生活のなかで金を集めて軍用機献納金をやっと7月20日に納めたが、日本は8月14日にはボツダム宣言の受諾を決定し、翌15日の放送で国民に戦争の終結が知らされた。戦争は日本の無条件降伏で終わったのである。
 これは1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年のアジア太平洋戦争と続いた長い戦争の時代、15年戦争ともいわれる時代の終わりであった。

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