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第6巻【近世・近代・現代編】- 第9章:戦争

第2節:戦争の記録

帝国在郷軍人会福田村分会が出来る

明治三十五年(1902)十二月五日始て福田村軍友会を組織し、会則三十五カ条を定め郡長に上申し役員には、会長に井上慶緒、副会長に服部輝義、幹事に神山瀧松以下小久保、小山、杉田、市川の四氏を推薦せり。其後、会長に栗原嘉範を推薦せしも同氏辞任後、服部輝義会長となり神山瀧松副会長となる。
明治四十二年(1909)一月二十四日、軍友会発会式を福田学校内に挙行す。此日、熊谷聯隊区司令官陸軍歩兵少佐粟野陽二郎氏臨場し懇篤なる訓示をなす。
明治四十四年(1911)一月十七日組織を変更して帝国在郷軍人会福田村分会と称し、仝日、成安寺に於て発会式を挙行し、併せて日清日露両役戦病死者の追吊法会を行ふ。熊谷支部長、比企郡長、松山警察署長、郡会議員、村長、校長、村吏員、職員等参列し、遺族を招待し荘厳なる式を挙ぐ。会するもの学校生徒、有志無慮五百名。目下役員には分会長神山瀧松、分会副長田幡喜平、理事に小山、鈴木、高柳、堀口、下沢の五氏、監事に吉田、高柳二氏あり。会員数百三十五人。内軍曹三、伍長一、上等兵七、一等卒三八、二等卒五、輸卒八〇、助卒一人なり。

『福田村郷土誌』 1913年(大正2)9月

 栗原嘉範福田村長と神山熊蔵福田小学校長編『福田村郷土誌』第二編人文界第二章教化第七節帝国在郷軍人会福田村分会の沿革の全文である。福田村では、日露戦争前の1902年に軍友会が組織されたが、正式の発会式をしたのは日露戦争後の1909年だった。1911年に改組され在郷軍人会福田村分会となった。
 会員の階級で、二等卒の次に「輸卒(ゆそつ)」とある。これは「輜重輸卒(しちょうゆそつ)」である。「輜重」は軍需品の輸送、補給を担当する重要な兵科であったが、日本では軽視されていた。伊藤隆監修・百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本制度と実態』(1990年2月、吉川弘文館)の「輜重兵と輜重部隊」の注に次の記述がある(309頁)。

 輜重輸卒の立場からすると、輜重兵と輜重輸卒の関係は、武士と足軽ぐらいの差があり、指揮する者とされる者の違いがあった。前者は長靴に長剣で馬に乗り、後者はゲートルにゴボウ剣で馬の口をとった(斎藤芳樹「陣中ヒゲの功罪」『帝国軍隊従軍記』昭和五〇年、汐文社、二九頁)。輜重兵の二等兵が一個班一五人の輸卒を、馬に乗って指揮するのであり、歩兵の軍曹なみの指揮力を必要とした(「輜重兵かく戦えり」『増刊歴史と人物 証言太平洋戦争』昭和五九年)。輜重輸卒を軽んじた戯れ歌があったのは周知のとおりであるが、これは日露戦争当時補助輸卒隊に属する第二補充兵役から召集された武器を持たない輜重輸卒のことを指し、一般の輜重輸卒を指したのではないという(大江志乃夫『日露戦争と日本軍隊』昭和六二年、立風書房、九三頁)。

 この注の戯れ歌(ざれうた)とは、本文に引用されている「携帯口糧アルナレバ輜重ハ要ラズ三日四日」であるが、「輜重輸卒が兵隊ならば蝶々トンボも鳥のうち」もよく知られている。
 本書は書名にもあるように昭和戦前期を対象としたものであるが、在郷軍人分会が結成された明治末期の輜重輸卒の評価はどのようなものであっただろうか。

 1954年(昭和29)11月3日、埼玉県比企郡福田村(ふくだむら)は宮前村(みやまえむら)と合併した。現在は滑川町(なめがわまち)である。

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