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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第3節:スポーツ

武道

嵐山町の柔道(埼玉県柔道史より)

昭和二十五年(1950)四月、菅谷中学校の教頭として内田家寿(六段・故人)が赴任したことによって中学生の間に柔道熱が高まってきた。

しかし学校に講堂もなく、道場として適切な場所もないので、当時非常に荒れていた興農研修所の道場を借りて、昭和二十六年(1951)の夏休みから中学生二十数人の希望者を集め、柔道の初歩から指導を始めた。その当時指導を受けた生徒の中に長島崇(現五段)・奥平力三(現五段)などがいる。

その後、昭和三十年四月に大久保祐次三段が赴任し、菅谷中学クラブ活動の中に柔道部が誕生した。各種大会にも出場し好成績をおさめるようになり、優れた選手が生まれた。昭和四十五年(1970)和歌山で開催された全国高校柔道大会に、菅谷中学出身の木村一夫が中量級で出場し活躍した。

また、一般の青年も、小川・東松山の道場で修行している者が多く、嵐山町における柔道人口は年々上昇し、昭和四十五年(1970)の比企郡民体育大会においては、長年の念願であった柔道団体戦で優勝を飾ることができた。

昭和四十五年(1970)十二月一日、菅谷中学校体育館で嵐山町柔道会が発足し、会長に内田家寿(六段・故人)が就任し、副会長に長島崇(現五段)、大久保祐次(現三段)がなり、各役員の協力のもと、青少年の健全育成をモットーに柔道の指導に取り組んだ。

柔道愛好者は、中学生から高校生へ、そして青年層へと町全域に広がっていった。昭和五十二年(1977)の青森国体には、山下隆司が出場し活躍するなど、嵐山町出身の選手の活躍も目立ってきており、指導者の層も年々厚くなってきた。

現在は、菅谷地区の役員は菅谷中学校内の町立柔道場で、七郷地区は七郷小學校の体育館で練習が続けられている。そして、町内柔道大会を毎年開催し、平成元年度の大会で第十八回目を数えることになるが、最近は女子の選手も増加し盛況をきわめている。

嵐山町柔道会役員

会長  長島崇
副会長 山田米造、大塚基氏
顧問  細谷弘、奥平力三
理事 根岸澄夫、木村一夫、杉田知久、三枝孝司、金子茂、横瀬秀男、野村周司、中島一之、新井勝一、山川光昭、安斉勝己、大沢国夫

埼玉県柔道連盟編『埼玉県柔道史』1(1990年5月発行)272頁〜273頁

嵐山柔道会

平成5年(1993)5月に嵐山町町議等の要職についていた第2代会長長島崇(五段)がこれからという矢先逝去された。長島没後、第3代会長に山田米造(四段)が選任され、副会長杉田知久(五段)、大塚基氏(五段)、事務局長木村一夫(五段)、指導部長横瀬秀男(五段)、顧問奥平力三、指導者三枝孝司(三段)、加藤弘昭(四段)、安斉勝己(四段)、大沢國夫(四段)、中島一之(四段)、新井勝一(四段)、山川光昭(四段)、河田正吾(四段)、清水信男(三段)らが中心になり現在、菅谷道場、七郷道場(平成6年に新築の玉ノ岡中学武道館)の2つの道場において、会員60数名の指導が週3日熱心に行われている。

埼玉県柔道連盟編『埼玉県柔道史』2(1999年11月発行)140頁
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