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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第3節:スポーツ

武道

郷土の剣豪 中村清介

剣の名手中村家三代

 古里村に生まれた中村清介の家は、祖父の代から続く剣術の名家であった。
 初代の中村熊蔵義正(なかむらくまぞうよしまさ)は、忍藩(おしはん)の剣道指南役を勤めていた三田三五郎暉房(みたさんごろうてるふさ)について神道無念流(しんとうむねんりゅう)を学んだ。しかし、中村熊蔵の嫡男(ちゃくなん)として生まれた二代目の中村森吉義行(しんきちよしゆき)は、近くの上横田村(かみよこたむら)(現小川町上横田)に道場を持つ松本半平(まつもとはんぺい)のもとに通って甲源一刀流(こうげんいっとうりゅう)を学んだ。比企郡に甲源一刀流をもたらしたのは志賀の水野清吾年賀(みずのせいごねんが)で、士関道場(しかんどうじょう)を開いて門弟(もんてい)の指導に当たっていた。その高弟(こうてい)であった松本半平は、独立して上横田に道場を開いていた。やがて松本半平は病床に臥(ふ)すようになったとき、森吉の力量をみて、さらに磨きをかけさせるために、江戸四谷に道場を持つ甲源一刀流の強矢良輔武行(すねやよしすけたけゆき)に師事することを勧めた。強矢良輔武行は、秩父郡の小鹿野町(おがのまち)の出身で剣名が高く、紀州藩江戸詰(えどづめ)家老水野家の剣道指南役であった。森吉は強矢良輔武行の道場で修業し、甲源一刀流と戸田武甲流(とだぶこうりゅう)薙刀(なぎなた)の技を究めた。やがて古里村に帰って門弟の指導を行なっていたが、1852年(嘉永5)に,古里村の領主,旗本長井筑前守又五郎(ながいちくぜんのかみまたごろう)に召し出されて家臣となり、江戸の長井邸で家臣の剣術指導にあたった。森吉の長男清介は、父が長井筑前守に召し出されたとき、4歳で父に同行して江戸に上った。しかし明治維新で江戸幕府の時代が終わると、森吉は古里村に帰り晴耕雨読(せいこううどく)の生活を送ったという。
 三代目の中村清介は、江戸の強矢良輔武行の道場で学び、1867年(慶応3)、19歳の時に父と同じように長井家に召抱(めしかか)えられ、家臣に剣道の指導を始めた。しかし翌年の明治維新で父と同様に古里村に帰り、農業に従事するようになった。
 1876年(明治9)に政府から廃刀令(士族の帯刀を禁じた)が出されると、剣術の前途が危ぶまれた。その頃、1876年(明治9)の萩の乱、神風連の乱(しんぷうれんのらん)、77年(明治10)の西南戦争などが続いて起こったが、抑圧されて武力による士族の抵抗はおさまった。やがて民間では剣術や柔術などで新しい動きが始まった。1882年(明治15)には嘉納治五郎(かのうじごろう)による講道館が創設され、近代的な柔道への動きが始まった。剣術では明治10年代から20年代に入ると、埼玉県内でも各地に道場が開かれるようになった。古里村では中村清介が長養館(ちょうようかん)を開き門弟の指導を開始した。

軍神の碑と長養館

 古里の中村家の庭には、中村清介の立てた軍神(ぐんしん)の碑がある。碑の表面には次のように刻まれている。
軍神  経津主命(ふつぬしのみこと)   鎮座(ちんざ)  
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)
  従二位(じゅにい)子爵(ししゃく)北小路随光(きたこうじずいこう) 敬書(けいしょ)
 裏面には、「明治二十九年十一月 中邨(なかむら)清介建之」と記されている。経津主命と武甕槌命は日本書紀に出てくる神で、武勇の神として崇拝されている。碑の台座の正面には、長養館幹事一三名の名前が刻まれている。台座に記されている長養館は中村清介の主宰する道場である。道場の創立年代ははっきりしないが、門弟はそれ幹事以外に多数いたと思われる。
 千手堂村の瀬山鉄五郎(せやまてつごろう)は甲源一刀流の名手で、彼は自分の行なった試合、稽古、面談、そして会見した剣士の名前と流派を記した『英名録(えいめいろく)』を残しているが、その中で1896年(明治29)5月8日比企郡大谷村秋葉(あきば)神社境内で行われた撃剣会(げきけんかい)参加剣士に、長養館主中村清介と門下の剣士30名の名前が記されている。多数の門弟を持っていたことがわかる。

現行体操課目中剣道編入請願書

 1894年(明治27)12月3日、長野県の関重治郎、清水太一郎、埼玉県宮前村の大塚奓恵八、七郷村の中村清介、男衾村(おぶすまむら)の吉田伝次郎、東京市の新井朝定の六名による請願書が、文部大臣侯爵(こうしゃく)西園寺公望(さいおんじきんもち)に提出された。これは学校の体操課目に剣道を入れることを求める請願であった。同趣旨のものは1893年(明治26)12月19日と94年3月30日にも建白(けんぱく)していたが何の返事もえられず、同年8月1日に日清戦争の勃発を見て、12月に三度目の請願をしたものである。学校の生徒に剣道を導入すれば、やがて徴兵入営となった際には義勇忠節(ぎゆうちゅうせつ)の兵士となるであろうと述べている。しかしこの請願も取り上げられなかった。それから10年後、同様の請願が他からも国会に提出されて本格化するのは、日露戦争の始まる1904年(明治37)からであった。
 なお中村清介は、1905年(明治38)から小川警察署の剣道の嘱託(しょくたく)教師も担当していた。

村政でも活躍

 1889年(明治22)4月1日に杉山、太郎丸、広野、勝田、越畑、吉田、古里の七ヶ村が合併して七郷村が成立すると、中村清介はその村会議員に選ばれた。1896年(明治29)には七郷(ななさと)村の助役に就任、1899年(明治32)10月24日に七郷村の七代目の村長に選ばれた。1903年(明治36)3月10日に村長を辞任するが、その後も村会議員に選ばれ、議員を最終的に辞任したのは1921年(大正10)4月4日であった。
 中村清介は1848年(嘉永元年)に生まれ、1923年(大正12)に他界。七十五歳の人生であった。人生の後半は、若き日に剣道で鍛えた行動力で村政の中心で活躍した。

古里兵執(へとり)神社甲源一刀派の奉納額

奉納年月日   明治二十七年一月十三日
掲額(けいがく)場所    兵執神社
所在地     嵐山町古里766
願 主     中村清介
流 派     甲源一刀派

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