第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ
武道
○松山の演武*1会 は既報の如く去る【一月】三十一日松山第一尋常高等小学校運動場に於て開催せられたり。会する者剣士百十余名。審判員として高野佐三郎(たかのささぶろう)、大塚奓恵八、青木七郎、中村清助【中村清介が正しい】、小久保満尊、高野茂義等の諸氏。来賓として警察本部より石橋警部長、天野警務課長、和田警部を始めとし、川越武田鴻巣小川の各警察署長、県会議員、各名誉職員等、其他参観者無慮■[三?]千余名。正午頃より開会せられて、第一に総員乱試合(そういんみだれしあい)、第二源平野仕合(しあい)、其他五十余の組合せ仕合に取かゝりしも数多き仕合の果つべきもあらざるより一、二の仕合を以て終りを告げ、五人抜き三番を始め、(吉見)藤崎利明、吉田伊助(宮前)島崎幸次郎【(菅谷)島崎里次郎?】の三氏勝を得、又二人抜は戸口幸助、内田瀧次郎、瀬山勝蔵、吉岡梅吉、勝田鐵蔵、江森梅吉、林道次郎、横川泰■、根岸善作、田中守吉、小林廣吉、藤崎利明、吉岡梅吉、椎橋近太郎、権田浅吉、松崎幸次郎の諸氏、勝を得、又次なる高点組合に一等(十人)高山常吉、二等(八人)三上喜三郎、三等(七人)中村虎蔵、四等(八人)七尾菊太郎、五等(五人)宮沢常吉の五氏勝ちを得、後ち数組の組合せありて午後六時頃全く閉会せりと云ふ。
『埼玉新報』 1906年(明治39)2月2日
*1:演武…えんぶ。武芸の稽古をすること。武芸を行なうこと。(『日本国語大辞典』)
●小川の撃剣*2会 来る十八日小川町尋常小学校校庭に於て撃剣会を開催する事は既に報せし処なるが其後発起人及び準備委員等夫々運動の結果、夜間は煙火等を有志より寄付する事となりたれば、嘸(さ)ぞ当日は意外に雑踏を極むることとならん。
『埼玉新報』 1906年(明治39)3月17日
*1:撃剣…げきけん、げっけん。刀剣、または竹刀、木刀で身を守り、敵を討つ術。また、その稽古、試合。剣術。剣道。(『日本国語大辞典』)
○小川の剣術会 は既報の如く去る十八日尋常小学校敷地に於て開かれたり。審査官は県下各警察署嘱託教師逸見武市、大塚奓恵八、高野茂義、蘭幕丑之助、比留間利象、山田啓蔵、青木七郎、岩田淳蔵。主任として高野佐三郎、小久保満尊、中村清介の諸氏あり。正午十二時より百有余名の組合に入りしも、前日調製せし組合悉皆果す能はざりしより組合を一変し、番外として沖健吉(両刀)、吉田文作(長刀)の五本勝負を初めとし、沖先生三本にて勝を得、数十番の試合を為し、松本吾六、大戸安五郎の鉢金試合をなし、一本勝負五人抜数十の勝を得、松本五六先生念流形の指南として(馬庭流)比企郡玉川村田中たけ、同うめの姉妹と形を切り、東西の選手一本勝負五人抜を試合せしも、容易に勝を制する者出来ざるより、又々待なし五人抜となり、高點試合天地人三名の勝を取り、高野佐三郎、青木七郎の両先生、武士道の形を切り終って、高野先生一般稽古を為し終りしは午後五時三十分過、観客の主なるは石橋警部長、天野、前川、朝倉の各警部、埼玉公論社長鯨井、朝日新聞通信員押田、本社の荒巻にて、当日の観覧者は無慮(むりょ)【およそ】五千なりき。同日午後八時より田中楼に慰労会を開きしが会するもの五十余名、発会総代として大友警部挨拶を為し、公論社長鯨井、新聞社員及び来賓総代として答辞を為し、了って同町の紅裙連杯盤を斡旋し、各歓を盡して散会せしは十一時過三十分頃なりき。主なる勝負は左【下】の如し。(○は勝 ▲は預り)
『埼玉新報』1906年(明治39)3月21日
(○○○沖健吉 ○○吉田文作)
(島田芳次郎▲千野孫郎)
(大戸安五郎 ○○○松本五六)
(○○島崎次郎 木元林蔵)
(○○村田宇三郎 斎藤吉太郎)
(高山常吉▲永島半蔵)
(○○荻野準平 新井源■郎)
(○青木五■郎 ○○中村虎蔵)
(○○中山太三郎 林梅次郎)
(宮崎定次郎 ○○渋谷一)
(○○吉野千太郎 原川佐一郎)
(○○沖健吉 ○大戸久蔵)
(○○森田八十治 大戸安五郎)
(落合源之助▲石川清太郎)
(瀬山鉄五郎▲矢島藤作)
(○○斎藤政二郎【政次郎?】 野口市太郎)
(河合總之助▲宮澤常吉)
(七尾菊太郎▲岩田淳蔵)
(○○三上喜三郎 三上大吉)
(蘭幕丑之助▲宮澤常吉)
(山口助太郎▲比留間利象)
(小久保満尊▲小澤仁三郎)
(中村清助【中村清介?】▲三上大吉)
(○○村田宇三郎 ○小久保啓助)
▲待なし五人抜
三上喜三郎 村田宇三郎 岩田淳蔵 渋谷一 中村虎蔵 蘭幕丑之助 三上喜三郎 安澤常吉【宮澤常吉?】 島崎金次郎【島崎里次郎?】 新井久吾 森熊次郎 小久保惣助 市川市太郎 吉田小五郎 矢島藤作 池上岩太郎 高瀬時次郎 斎藤政次郎
▲選【?】手五人抜
河合綱之助【總之助?】 斎藤政次郎 沖健吉 中村虎蔵 蘭幕丑之助 三上喜三郎 安澤常吉【宮澤常吉?】 渋谷一 三上大吉 村田宇三郎 岩田淳蔵 矢島藤作
五人抜とせしも容易に勝負を決する能はざりしかば、待なしとなし其結の果、河合、三上(大吉)外三人となり、次に高點試合に移り、宮澤常吉(五點)、梅澤真蔵(四點)、高山常吉(四點)となれり。
嵐山町域の剣士、中村清介(古里)、瀬山鉄五郎(千手堂)、島崎里次郎(川島)の名前がある。嵐山町では、甲源一刀流が盛んだった。士関演武場を開いた水野清吾年賀(志賀)の墓石の台座には同門者四百名以上の名前が刻まれている。瀬山鉄五郎は「英名録」を残している。瀬山家を訪れた剣客に名を記してもらったり、鉄五郎が参加した試合の相手、あるいは訪れた道場で手合せや面談した人などに名前を記してもらったもので、1896年から1917年まで21年間の記録である。詳細は石田貞「郷土の剣豪資料」(『嵐山町博物誌調査報告第4集』1999年3月)を参照。