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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第2節:和算

武蔵比企郡の諸算者(二)

 五、杉田久右衛門が若年より算術を好んだとは、一代誌の文にも見えて居るが、江戸の幕臣古川氏に入門する迄に何人から学んだかの記載はない。
 然るに川越市御城内在仕の杉田まさ子を訪ふて位碑を拝したところ、幸に其の前師の位碑が見出されたのである。即ち

 (表)
     文化十癸酉歳
     道光覺算庵主
      二月十三日 栗原氏

 (裏)
     道光覺算者武州福田村之姓ナリ、往古
     白木屋ニ勤仕シ者ナリ、藤吉郎始メノ
     算師ナリ、此者ノ手引ヲ以、東都古川
     和泉守エ門入ス、夫ヨリ又、至誠賛化
     流申算術修行仕候以上
            俗名 栗原辰右衛門

と記るされて居る。他に関係の書類はないが、此れだけでも、全く好箇の手掛りである。
 こゝに云える藤吉郎とは即ち杉田久右衛門の初名であり、久右衛門が算者藤吉と称せられた事は、小川町小川神社の祠畔に在住する後裔杉田たき子の談に依って之を知る。白木屋とは小川町に於て藤田氏の分家であり、廣森姓を称して居る。吉田勝品が免許の門人中に記るして居る小川村廣森藤吉と云ふのは、其家であろう。
 杉田久右衛門は前の師栗原辰右衛門の手引きで古川和泉守へ門入したと云ふが、其門入後に改めて古川の至誠賛化流と云ふ算術を修行したと云えば、栗原は此派の算者ではなかったと見える。古川は初め和泉守に叙任し、後に山城守となるのである。和泉守叙任の辞令は古川鋠子の家で之を見て写し取って居る。
 武州福田村とは、熊谷から松山又は菅谷へ通ずる道筋であり、現に栗原姓は幾軒もある。併しながら此村から算者が出たと云ふ伝えもないし、何の栗原氏でも覚えはないと云ふのである。右の道筋に面する曹洞宗成安寺の過去帳を拝するに、十三日の條に於て、杉田氏の位牌と同じ戒名並に年月を記るして、「番場庄左衛門弟」と見える。番場は今は馬場と書き、福田村小学校が其処に在る。而も馬場の栗原田夫氏の家でも、庄在衛門と云ふものも無かったし、又算者の出たと云ふ伝えもないと云ふのであるが、而も此家の墓所に参詣して奥の方の一隅に一基の小さな石塔があり、

  文化元甲子二月十三日 施主 栗原吉右衛門
  道光覺算庵主
  夏雲一了信士
  文化三丙寅六月初五日

と刻するものがあった。墓誌に拠るに、此吉右衛門は戒名を玉翁盤龍信士と云い、文政十丁亥天(1827)四月十五日、俗名吉右衛門、行年七十四とあり、其妻は徹肝妙旨信女天保三壬辰年(1832)十二月十八日、吉右衛門妻、俗名はる、行年七十二とある。位牌には文化十丁庚【ママ】稔(1813)四月十有五日とあり、妻はるは七十三歳とある。覺算庵主及び一了信士は「番場喜三郎事」とあり、玉翁は「番場吉右衛門事」とある。
 故に寺の過去帳に「庄左衛門弟」とあるのは、恐らく「吉右衛門弟」の誤記であろう。
 杉田氏位牌と成安寺過去帳には文化十癸酉歳(1813)二月十三日とあり、栗原氏墓誌には文化元甲子(1804)二月十三日とありて、二月十三日は一致するが、文化元年と十年との相違がある。一方は何うして誤りでなければならぬ。然るに成安寺過去帳は日に依って繰るようにはなって居るが、同一の日に関しては年月の順に記入されて居るから、此過去帳の記入は信ずべきように思われる。従って墓誌よりも之に拠って置きたい。
 兄吉右衛門が文政十年(1827)七十四歳で没して居るから、文化十年(1813)には六十歳であり、其弟であれば幾年か年少であろう。此れだけは推定が出来る。
 越後水原の算家山口和の道中日記に、文化末年の旅行記事があり、且つ巻末の「算者控」の中に福田村に算者一人ありと記るして居るのは、右の栗原辰右衛門を指すのであるが、其れとも此人の没した直後の頃に尚他にも算者があった事を云ふのであろうか、其判断は出来ない。
 福田村には此人が居りながら、没後百二十余年を経た今日、其村に於て此人に関する伝聞なく、生家に於てすら全く記憶されて居ないのであるから、郡村に於ける算者の世に忘れられ勝(がち)であることを示すべき一■ともなるであろう。尤も辰右衛門は前には小川白木屋に勤めて居たと云ふ一生独身であったものか、他郷に寓して居たものであるかも、亦知ることは出来ない。

 五の二、小川町の白木屋廣森氏は当主を宗吉氏と云い、東京に在住し、小川には居らぬ。廣森藤吉は当主の父で、小川千日堂の墓地に其墓があり、明治初年の吉田源兵衛の免許を得たのは此人であろうか、別に教授などしたと云ふ伝えはないらしい。墓に光山道輝居士と刻し、左方に事蹟を誌してあるが、

信士通稱藤吉、廣森彌三郎之長男。以安政五年四月三日生、明治廿一年十月廿七日、爲浦和始審裁判所傭小川出張所詰。爾來轉任于各所。累進爲小川出張所長。明治四十二年辭職矣。官認其精勤屢賜賞與金若干。際辭職特賜金一百五十圓也。致仕後爲公衆代書。以養老。大正九年七月三日没。享年六十三歳也。

と見える。此れも和算の出身者が時勢の変遷に依って進出した一つの経歴である。

寛山法性信士、杉田久右衞門次男俗名廣森□、明治九丙子年一月十一日、行年七十九歳死亡。
發心文相信士、入間郡葛貫村小久保佐七妹、俗名□、慶應二丙寅十一月十六日、五十六歳死没。
施主廣森藤吉

とあるのは、藤吉の祖父であろう。其前に

皈山紅林信士、弘化四丁未年九月廿二日、俗名廣森藤太郎、施主同彌三郎

があり、更に其前に

雪崖了心信士、享和元辛酉年十二月五日、俗名廣森喜代三郎、行年四十一歳、施主杉田久右衞門

と云ふのがあり、又

金岩休提信士、明和七庚寅天四月初八日、俗名廣森彌兵衞、建主同彌之助

と云ふもあり。此等数基からして世代が完全には続かぬが、又杉田久右衛門家の分家が何うかも判らないが、何れ杉久と密接に関係のあろう事は容易に窺い知られる。そうして杉久の近隣に其屋敷があったと云ふ。例の栗原辰右衛門が白木屋に勤仕したと云ふ時代は判然とは判らぬか、而も明和七年(1770)没の彌兵衛、其墓の施主彌之助、享和元年【12月は1802年】四十一歳没の喜代三郎あたりは其頃の人であろう。併し。其法名からは算法を学んだらしい様子は見られない。而も白木屋に算者があったか何うかは固より判らない。栗原は算者としてでなく別の用務で勤仕したかも知れない。
 白木屋墓地に

新物故圓知禪定門、天明二寅天十二月十一日、大坂嶋之内上半町木津屋伊右衞門

と云ふ墓があり、如何なる人物かは判らないが、他から来て寓したもののあった事も明らかである。

 六、比企郡柴竹村(しちくむら)(現今三保の谷村(みおのやむら)【現在・川島町】の内)に小高多聞治重卿があり、文政六年(1823)には現高坂村岩殿山正法寺観音堂へ門人の額を奉納した事がある。其事は「賽祠神算」に採録されて居る。即ち

  武州比企郡柴竹村観世音堂、坂東十番岩戸観音ト云フ、
  文政六  關流比企郡  小高多聞治重卿門人
              (十人ほど額高クシテ見へ難シ)

と記るされて居る。額面の題術は録してあるが、門人名は細字で書取り難かったと見える。此記載は固より不正確であり、坂東十番は岩殿山観音にして、現に高坂村岩殿に在り、東上線高坂駅の西方一里に位する。柴竹からは西方三里許りに当る。そうして柴竹は小高多聞の居村であった。此部落には小高姓のみ多い。
 岩殿観音は明治十一年(1878)の年末に炎上して、其算額は今はない。
 柴竹小高氏は今は数代を経て居るが、当主を明太郎氏と云ふ。昭和十三年(1938)七十一歳土地での最高齢者である。其談に拠れば、多聞治が算者であったことは、家で伝えて居るのみで、郷間には知るものもなく、門人の氏名などは全然伝えがなく、心当りだにないと云ふ事であった。
 小高氏の本家には僧侶になった人がある。権僧正永雅と称し、初め葛飾郡青砥村宝持院永盛の弟子となり、後を襲っで住職となり、天保四年(1833)埼玉郡中嶋金剛院に移り、嘉永三年(1850本所弥勒寺に転じ、四年遂に豊山探題職と為り、権僧正に任じて小池坊に住し、同坊四十八世の住持であったが、安政三年(1856)丙辰十月十八日七十五歳で入寂し、豊山菩提院に葬る。小高氏墓地に亦墓を建て墓誌を刻したのである。(其墓誌に拠る。)
 此人の前にも僧になった人があるらしいと云ふ事である。多聞治の父喜左衛門常昭は初めて分家した人であるが、矢張り坊さん然たる生涯を送ったらしい。其墓石は圓くしたもので、僧侶の墓に能く見られる形式のものである。次の墓誌がある。

      喜左衛門常昭行年八十六歳
  文政十一戊子天四月十四日
  権大僧都澄善真成法印
     柴竹村 施主 小高多聞治重郷

 多聞治は此人の子で、墓誌には次の如く刻する。

 成天保八丁酉六月十七日、俗名 多聞治重郷。
 知弘化三丙午十一月三日 俗名 同人妻 いち
  成得寶冠居士
  知發妙成大姉
 明治十二年二月廿九日建之
        柴竹村 小高茂惣治

 多聞治の子喜左衛門は明治三年(1870)に没し、其子茂惣治は明治二十八年(1895)五十八歳で没した。明太郎氏は此人の子である。
 多聞治は此の如き家柄から出たのであるが、父には妻いくがあり、天保六年(1835)七月二十一日に没して居る。猶此外にも僧侶になった人が出て居る。それは今の北埼玉郡三俣村の比丘寺に住した父子二人の僧である。明太郎氏の妹婿小高喜一氏は十年前に墓参した事もあった。そうして多聞治も其地に赴き算法を教授した事があるように語られるのであるが、判然とした事は判らない。
 其墓標に拠るに、五世即明寫義中は比企郡紫竹村小高氏の出であって、七歳にて隣邑畑中村蓮月菴の圓龍律師に就いて剃髪し、後此寺に来りて法臘二十三夏、文政五壬午(1822)三月七日、年六十九で入寂した。六世義勇、字は明彦、紫竹村の産で、即明の遺子であり、法臘二十五夏、嘉永六年(1853)癸丑十一月五日、六十二歳で入寂した。父子共に筆弟子が多かった事も記載がある。そうして義勇の墓には紫竹村小高喜左衛門、同太十郎、上州海老瀬村大谷松蔵(或は松菴か)の姓名を刻する。
此喜左衛門は多聞治の子であり、太十郎は孫茂惣治の初名であるとは、明太郎翁から之を聞く。海老瀬の松蔵と云ふのも亦親戚関係と認められる。翁の談に

 三俣へ坊さんで行たといふ話は、他の家にはない。多聞治の弟で上州へ行つて醫者をして居たのがある。上州で亡くなった。何處か判らないが、イビセとか云ふ處で、名はショウアンと云ふ。向ふで婿にでも行ったか、若くは小高を名乘つて居たかも判らない。こちらには墓もない。

とあるのは、全く符合する。大谷松蔵(或は松庵か)は多聞治の弟か、或は多分弟の子であろう。三俣比丘寺の父子の僧が多聞治と関係の深いものであろう事は、決して否まれない。五世即明と云ふのは、恐らく多聞治の父喜左衛門常昭の弟であるように、年齢の差から推測される。
 本家から出た権僧正永雅も年齢から言えば、多聞治の従弟くらいに当るであろう。何うしても多聞治は僧侶の多く輩出した家柄の出身なのであり、数学の教授も他処に居って教えた事が多かったのであろうと云われるのも、全く根拠の無い伝えではあるまい。
 小高氏遺蔵の書中に「論語合本全四十九丁」と題する写本一冊があり、奥に

 文化十癸酉季十二月十七日武州比企郡吹塚新田於稲荷山正音寺書寫之畢、澄善七十一歳

と見える。吹塚新田は紫竹から西北約一里の所で今は中山村の内となる。多聞治の父なる此澄善も亦多少は算法にも通じたものと見えて、遺蔵中に無表題の問題集一冊があり、

 文政九丙月三十八日 澄善眞成八十四老

と書いてある。澄善の名を記るした書物は多くあったと云ふが、今は他に見付からない。小高氏は明治四十一年(1908)と四十三年(1910)との洪水に浸水して、鴨居の下僅かに六寸を余すのみと云ふような惨状に逢って居るから、算法の写本類が三尺四方くらいもあったのが、後の洪水後に殆んど腐ってしまって、現存するものは乏しいのである。
 遺存の一冊には「明和五子年、覺書、小高」と三行に題せられ、開平方、開立方が見えて、先きは失われて居るが、此れは恐らく多聞治のものでない。多聞治は天保八年(1837)に没し、享年八十くらいであったろうと云われるが、父喜左衛門が文政十一年(1828)八十六歳で没して居るから、父より二十年の年少としても七十五歳に過ぎなかったであろう。然らば明和五年(1768)には六歳の筈であり、未だ算法など修めなかったとも思われる。恐らく喜左衛門が早くから幾分か算法にも心得があったと見える。
 遺存の算書には「正矩正絜術」、算法問答術記、日用算法記、算法天元記などがあり、「改算記」等の古算書に見えた如き算法を記るした所がある。
其一は

  于時享和二壬戌年正月吉祥日寫レ之終ル
        紫竹村 小高多聞治重郷書之

とあり、壮年期に於て此種のものを學んで居たらしい。又星宿の図面は、多聞治重郷の名を署して、「文政四辛巳年正月吉日書レ之」とあるから、天文の事にも心掛けて居たのである。
 承應甲午(1654)【承応3年】序の安藤有益選「長慶宣明暦算法」、宝永六年(1709)序の防州徳山亀谷和竹選「授時暦諺解」、延宝四稔(1676)丙辰刊の「慶安二年(1649)庚寅暦見行草」、享保庚戌(1730)【享保15年】序西川正休撰の「天経或問訓点」等、刊行年次の古い暦術書が残って居り、「寶暦四年(1754)甲戌爲暦元」と云ふ漢文の写本もある。此等は多聞治の遺品であるか、其れとも前に学んだ人があるのか、性格には判じ兼ねる。其れは兎も角、多聞治は万年こよみのようなものを作ったのが二回ばかり現存の筈であるが、見当らなかった。
 又、「算法記」と題して見一割、相場割等を記るし、天保十一年(1840)正月吉祥日、武州比企郡紫竹村小高房五郎と著したものがあるのは、多聞治の忰で、後つ喜左衛門弟であり、隣接の伊草村飯島持木氏へ婿入したが、孫の代に家が衰微してしまった。此人は算術の教授はしなかったと云ふ事である。
 小高多聞治に就いて知られる事は、上述の外に出でない。算額に関流はあったと云ふが、如何なる伝系に属したかも判らない。況んや父喜左衛門も幾分か心得はあったらしいが、其師伝など手掛りは得られないのであった。父の代には読み書きなど教えて、幾分十露盤をも指南したらしく、多聞治になっては十露盤指南の方が主であったと見える。

七、田邊倉治郎は今の東吉見村江和井【現・吉見町】の算者であった。元と江河新田と言った所で、現に荒川の堤防に接した部落である。此の名を署した算法の絵馬が、現に北足立郡指扇秋葉神社に残って居る。即ち二つの題術を記るし、算木を運用する人物が書かれているのも珍らしく、そうして末に

       武州横見郡
       下吉見領井河新田
     關流算學    田邊倉五郎高康
       同州足立郡大谷領向山村
     願  主    會田嘉吉廣懸
  天保十一庚子年三月吉辰

と誌るす。向山村は上尾駅から十余町の所であり遺族に会ったけれども、多くの事は知られなかった。横見郡は今の東西南北吉見の四村地方の辺であって、井河新田は江河新田である。額面には田邊倉五郎とあるが、実は倉治郎であるとは、遺族田邊理作氏の証言であり、且つ墓誌にも同様である。墓誌には正面に圓明院秋染紅葉居士、寶船院靑蓮妙惠大姉と刻し、向った左方に「横見郡東吉見村大字江和井、施主田邊綱五郎、明治廿七年(1894)七月」とあり、右方に

 圓、明治十五年十一月廿日、俗名田邊倉治郎、
   行年七十七歳三ヶ月
 寶、明治十五年八月七日、俗名田邊リノ、行年
   六十六年一ヶ月
 今般奇特ニ付自今永院第居士許容候事
      横見郡久保田村 無量寺
  明治十七年三月

と見える。
 当主理作氏の談に、倉治郎が算法を何処で習ったかは判らぬ。算木なども在ったのだけれども、子供のおもちゃになってしまって、今はない。書類等も残存して居らぬ。倉治郎は藍商並に穀商を営み、行田辺へ行っては仕入れて来て、川越辺へ売った。それで藍倉と云われて居た。藍倉が来ると相場が狂うと云われた。藍の青葉を乾して、水を掛けて、静熱を呼んで搗いて玉にして売るのであった。養子の綱五郎も藍の商売をした。二十人も寄って藍搗をしたのである。次の繁蔵の代には、しなくなった。倉五郎は天元、点竄を用い、算木とも使ったし、弟子は多かった。
 綱五郎は荒川の対岸、北足立郡下石戸上村深井寅松の三男で養子に来たのであり、矢張り算法を教えた。位牌及び墓誌に拠るに戒名靑松院光雪白浄居士、明治四十年(1907)一月二日、七十二歳で没した。其子繁蔵も多少は教えた。此人は大正九年(1920)九月五日五十七歳で没した。即ち当主の父である。
 倉治郎の門人は吉見四村の辺にも可なり有ったろうし、中には教授したものもあろう。兎も角、北足立郡の人と共同で、同郡秋葉神社へ奉額したと云ふのは、其伝系の上にあの地方の関係があるのではないかとも思われる。
 綱五郎の生れた石戸村辺にも二三の算者があって、採訪の機会をも得たが別の記述に譲って置く。(以下次号)

『埼玉史談』11巻6号 1940年(昭和15)7月
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