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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第2節:和算

武蔵比企郡の諸算者(一)

 一、「比企郡竹澤小川の諸算者」と題する一篇は昭和十二年(1937)刊行の明治聖徳記念学会創立二十五年記念の「日本文化史論纂」中に寄せて置いた。其内容の一班を言へば、小川下宿(今の小川町)に杉田久衛門と云ふ算者があった。江戸の旗本で五百石を頂戴し、公方様の算術指南をもしたと云ふ古川山城守氏清の門人であり、従って至誠賛化流に属したのである。家は酒造と質屋を営み、数十人の召使も居ると云ふ程に繁昌して、数学の学識もあり、蔵書も随分集めて居たけれども、さう云ふ身分であるから、別に弟子を取って教授すると云ふことはしなかった。
 小川から約一里を隔つる笠原村の栃本(現今竹澤村の内)には、同じ頃に福田重蔵が居って、算術指南に従事したものである。重蔵は他から来たとも云はれるが、老後の事しか明かでない。関流八伝と称したらしいが、上州の算家市川玉五郎行英に学んだのである。勿論、行英は重蔵よりも遥かに年下であった。重蔵の家では其孫藤太郎父子なども教授を続けて居た。
 栃本から程遠からざる勝呂村(現今竹澤村の内)に、吉田源兵衛勝品と云ふ青年があって、父の勝吉は多少は算法を教授したが、開平開立までは教へられないので、勝吉はそれが習いたいことに思ひ、父の門人等と相談して、謝礼を出し合せて、勝品が福田重蔵の伝授を受け、それを直ちに学友等へ伝へる事にした。其れは文政十年(1827)十九歳の時であったが、重蔵は六十歳ばかりであったと、勝品は言って居る。然るに重蔵も天元術までは教へて呉れないので、関流九伝の免許は受けたが、其れだけでは満足が出来ず、是に於て小川の杉田へ無理に頼んで貰って、入門する事になった。然るに勉強が過ぎた為か、天元、演段、諸約術等を学び得ながら、健康を害する事になったので、引続いて教授を受ける事は出来なかった。而も此れだけの学力は地方の算者としては、貴いものであった。少くも勝品本人は爾かく感じて居たらしい。
 併し勝品は農家であって、富祐の身の上でもないし、其領主大島氏から名主を命ぜられて、無上の光栄と喜び、土地の検見などの事に勉励したものであって、多少は算術の指南をもするけれども其方へは殆んど手がまはり兼ねたらしい。
 維新の頃に隠居の身となり、頻りに教授に従事したのは、此れからである。明治十一年(1878)には門人等が七十歳の寿を祝して碑を建てゝ呉れる。それも勝品には感激の大きいもので、同十七年(1884)には勝品自身が碑陰に感謝の碑文を記るして刻したのである。
 勝品は関流十伝の免許を與へた門人も若干人あり、其姓名も記るされて居る。中には教授に当ったものもあるらしい。
 さうして勝品は「一代誌」と云ふものを書き遺した。地方の算者の生活状態を見る為めには稀に見る貴重の史料である。
 今の竹澤村の内、木呂子には、別に松本寅右衛門精彌(きよみつ)があり、上州市川行英の門弟にして、学力も勝(す)ぐれ、門人も多かった。文政十三年(1830)庚寅三月市川門人、栗島寅右衛門精彌の名で比企郡松山稲荷神社即ち箭弓神社(やきゅうじんじゃ)へ算額を奉納したことは、江戸の大家白石長忠閲で、上州の岩井重遠編と云ふ「算法雑祖」に見えて居るが、今は同神社には此算額も残存せず、他の算額も無いのである。栗島は即ち松本と同人である。初め松本氏に生れ、隣家の栗島氏に婿入して栗島の姓を冒し、既にして川窪屋松本安兵衛が江戸へ出て居るので、木呂子に於ける其家を立てたのである。而も後までも弟子の差出した起請文には栗島氏の名前を記したものも珍しくない。
 竹澤から山越しに隣村である秩父郡大河原村安戸に寅右衛門の門人豊田喜太郎があり、明治三十四年(1901)一月、同村御堂の浄蓮寺へ算額を奉納したものは、今も現存する。
 吉田勝品の家から松元氏へは僅かに十余町に過ぎず、それに松本は学識もあった事明かである。此二人の間には別に関係を生じなかったやうに思はれる。勝品の如き感激性に富んだ人物が、松本に師事する事もあったならば、恐らく得る所も多かったであろう。松本は七年の年長者であった。而も松本も自分と年齢の伯仲する市川行英に学んだのであり、福田の如きは三十余年の年下である行英に師事したものであった。

 二、私は前言ふやうな趣旨の事を説いて置いたのである。之に依って今の比企郡の西北隅の一角に於ける諸算者の状態は略々明かになったと思う。此れは昭和十年(1935)刊の法政大学日本精神史学会編の「日本精神史論纂」第二巻に寄せた「北武蔵の数学」の続稿の一とする積りであった。又別に「小学校数学教育」の誌上に於て武州熊谷地方の数学と、及び嘗て今の大里郡吉見村小八ッ林に寓した事のある松枝誠齋関係の記事を説いた事もあった。地理的にも此等と密接に接続して居るし、今の比企郡一円の諸算者に関して、近頃稍々調査を整頓し得たので、茲に之を紹介する事にしたいと思ふ。今、ことはって置くが、小川町付近の調査は、「竹沢小川の諸算者」と同じ頃に採訪したのが主であり、其他は昭和十三年(1938)秋冬の頃採訪に掛る。
 此等の採訪に於て、小川町の郷土史家大塚仲太郎氏の援助に預った事は深く之を感謝するが、私が前の篇を昭和十一年(1936)十二月に起稿して差出して置った後に、大塚氏は「埼玉史談」第八巻第三、四、 號に「北武の古算士」を寄稿せられた。然るに私は刊行の際に之を参照し得なかった事を甚だ残念に思ふ。
 大塚氏の記述二十七ヶ條の中にて、其大部分は「北武蔵の数学」並に其補記等に拠られたものであって、所説の上に多く問題はない。第二十五節の山中右膳は「埼玉史談」の渡邊刀水氏記載に依拠されたやうで、此れも亦今言ふべきものがない。
 自余の第二十六節吉田勝品、第四節栗島寅右衛門、第二十七節杉田久右衛門に関しては、私の調査とは事実に径庭(けいてい)があるから、少しばかり弁じて置きたい。第二十二節大里郡野原文殊寺の算額に関しても、同寺は比企郡の算者にも関係があると云ふから、序に補記する事にしたい。

 三、竹沢村木呂子の松本寅右衛門が、後までも栗島とも称せられて居た事は、私も実は不思議でならない。此れには何かの理由があるのであらう。「北武の古算士」に拠れば、

 精彌は竹沢村木呂子の松本匡吉氏方に生れ、一旦栗島勝平方に婿入して栗島を称したが、間もなく離婚し、後更に栗島安兵衛の養子となって其家を襲いだ。義父安兵衛は江戸に世帯を持って、川窪屋安兵衛と唱へた。寅右衛門は木呂子の家に居り、一男子を設け、長じて妻を娶ったのに、後妻を残して嫡子は行方不明となった。依って寅右衛門は娘に婿を迎へ相続させ、今はそれから三代目で本姓に復し、松本市平といってゐる。栗島家松本家は維新の際寺を廃して神葬祭に転じたので、墓碑も位牌もないから、戒名も没年も伝はらない。従って言伝へだけで記録も残らない。

と記るされて居る。匡吉、勝平とあるのは現代の当主を云ふ。
 仏教を止めて神道に帰したのは事実であるが、併し寅右衛門は明治十五年(1882)五月一日八十一歳で没し、夫妻合葬の墓もあるし、松本匡吉氏起草の碑文稿もあって、「竹沢小川の諸算者」中に述べて置いた通りである。義父安兵衛とあるのも、亦事実とは違ふ。之に就いては川窪屋安兵衛が江戸へ出て居って木呂子での家を立てるものがないから、適当な人物の推薦を寅右衛門の父松本吉兵衛へ托した文書があるから、之を挙げて置く。

     御願申一札之事
 一我等弟文七跡式相續之儀、貴殿方御賴申置、
 我等相應之人も御見當り候節ハ私方相談に不及
 村方御役人衆御談し之上、御取斗らい可被下候
 尤是迄文七所持仕候田畑證文九通并ニ同人病死
 之節諸入用始末書付壹口差添、貴殿方御渡し申
 間、相應之相續人も有之候節ハ宜敷御取立之儀
 奉願上候。爲念入置申一札如件。
            江戸小石川金杉水道町
  文政十二年正月       川窪屋安兵衛
    松本吉兵衛殿

 寅右衛門は即ち此依願に応じたのであり、木呂子では安兵衛の弟文七が立てて居たのが病死したので、其跡式を立てたのである。川窪屋は栗島氏ではなく、松本氏であることは、松本匡吉、同市平、同氏家族、及び栗島勝平氏夫人等の等しく証言される所であり、何等の疑ひを容れぬ。それから栗島氏での夫人は間もなく離婚したとあるが、此れも亦事実でない。松本市平氏並に老母の談では、寅右衛門は一度婿に行って栗島を名乗り、次に此家へ養子に来た。此家は一度絶えて、其跡を寅右衛門が引受けた。栗島での婦人を連れて川窪屋の跡を立てたが、それから夫人が没して、後に小前田(おまえだ)から後妻が来た。松本匡吉氏の談では、栗島へは養子に行き、家付きの夫人があった。夫人は早く亡くなる。帰って来て、それから別家した。其以後にも他からは栗島で通って居たのであらう。先妻の墓は栗島の墓地にある。川窪屋安兵衛は江戸へ出て金物屋をして成功した。梵鐘を十一ヶ寺へ寄進した。其家は今も東京で繁昌して居る。栗島勝平氏夫人の談では、墓は松本匡吉氏方の墓地にある筈だけれども、匡吉氏は無いと言ふ。栗島家の墓地に其れらしいのは見当たらないし、過去帳にも記載がないが、付記の如き一枚の文書が祭壇内に納められ、一字だけ不明で是、足、忌のように見える、明治五年(1872)に墓が判るとか判らぬとか云ふので、可哀さうだと云って祭ったのである。

 年號
 八月廿七日
 栗島おはん事
 御靈神
 奉祭
 明治五壬年
 申 四月二日生日■日

 松本市平氏方から年々之を拝みに来る例であった。はん女は岡右衛門の長女であり勇吉と云ふ弟があったが、寅右衛門が入婿になったのは、必ずしも相続の為めであるまい。栗島氏で婚礼して、川越へ行って居たが、何年居ったかは判らない。今はん女の没年も判らぬ。決して離縁などしたのではなく、寅右衛門は何時までも忘れ兼ねたと云ふ。はん女は子なくして、二十四歳で没した。寅右衛門は栗島姓を称する事を望んだのである。
 栗島家の菩提寺は元と竹沢村勝呂西山の西光寺であったが、廃寺となり、同村木部の安照寺に過去帳を預って居る。此寺をも尋ねたけれども、堂守が不在で総代が捜して呉れられたが過去帳は見出されなかった。はん女の没年が判らぬので、栗島氏で没したか、其れとも川窪の跡を立ててからであったかも判断し兼ねる。
 寅右衛門の後妻やう女は、今の大里郡小前田吉野氏から入嫁したものである。初め生家の甥吉之亟の妻おひでが吉野氏の娘であり、其姉やす女が他へ縁付いて帰って居たのが、後に再縁したのである。(松本匡吉氏談)。戸籍に松本芳五郎(文化三年生)の「養父兼吉亡」とし、寅右衛門を養祖父としてあるが、此兼吉と云ふのが寅右の男であろう。芳五郎の妻かつ女(嘉永四年生)は寅右の娘で、私も会ったが昭和十二、三年頃に没し芳五郎の養子彌之助、其又養子市平氏と続いて居る。
 尚、調査の遺憾の所はあるが、「北武の古算士」の叙述に就いては略々訂正し得たと信する。
 前記川窪屋安兵衛の文書は文政十二年(1829)正月付であり、碑文稿には二十八歳で其家を立てると言ふ。生年並に享年にも多少の疑ひはあるが、凡そ同じ年に当る。墓誌には五月一日没とあるが戸籍には同月二日となる。碑文稿に一日没となるのは誤る享保三年(1718)二月生とあるのは戸籍と同じいが、それでは明治十五年(1882)には八十一歳でなく八十歳の筈とある。戸籍の享保三庚丙年生は、享和の誤記【享和三年は1803年】に違いないけれども、干支は不明である。戸籍には明治十二年(1879)一月七十七年とし、七十八歳であるが、墓誌の八十一歳と一致する。然らば其享年は正しいのであり、享和二年(1802)生と見るのが正当なように思われる。名乗を選んだ時の文書は「壬戌年、水姓、精彌(きよみつ)」とあるが、即ち享和二年壬戌(じんじゅつ、みずのえいぬ)に当る。
 此書類の包紙に「御実名御判形、栗島寅右衛門殿」とあり、版形の方に信濃上野境碓水嶺神主曽根掃部督藤原忠序謹誌、文政十三年(1830)庚寅年睦月吉日」とある。松山箭弓神社の奉額と同年であるから、其関係で実名を命ぜられたのであらう。此書類にも栗島姓である。私の披見した神文四十余通の中にて、天保三年(1832)の二通も、弘化三年(1846)の二通も、安政七年(1860)のものも明治十五年(1882)午一月即ち病没の年のものも、其他多数と共に何れも栗島姓宛であり、松本姓宛のものは至って少ない。之に反して松本姓宛になって居るのは、明治二年(1869)、六年(1873)、九年(1876)、十四年(1881)等の数通だけに過ぎない。
 此等神文の中にて、天保三年(1832)辰正月六日西澤和助、同年六月に藤元次郎の差出したものには、市川玉五郎殿代栗島寅右衛門殿と宛てられて居る。此れで、其師上州人市川行英に代って教授した事も知られるのであり、川越へ行って居たと云ふのも市川が川越藩に関係があったと云ふから、矢張り市川に関係して何かの事情があったやうにも思はれる。
 松本匡吉氏の談に、旗本小野長右衛門(山岡鉄舟の父)の知行で松本吉兵衛はその名主をして居り、寅右衛門は次男であったが、吉兵衛は江戸へ出て小野の為めに暮の買物などしてやる例であり、さう云ふ機会に小野から尋ねられて、寅右衛門は十露盤(そろばん)が一番好きであることを答へ、それでは良い先生を紹介しようと云ふので、上州の先生を紹介して呉れられた。小野とは懇意であったと見える。余程えらい先生であったと云ふ事である。寅右衛門には弟子は方々にあった。八十になっても、教へて書いた。他村から習ひに来たものもあるが、教へに行ったのが多い。弟子の中にも出来た人が大分あったと云ふ。地租改正の時には寅右衛門は出なかったが、弟子が関係した。一こくな人で、思う事を押通すと云ふ風であった。若い時には宮大工をして、居村吉野神社の建築をもした。木の曲ったのは真直に直して使ふと云ふ風なので、木が小さくなるのを人に嫌はれた。併し教へるのは余り厳しくないで、弟子から嫌はれえるやうな事はなかった。
 松本市平氏並に老母の談にも、いつとして、いい加減の事が嫌ひで堅い人であり、よく調べて来るのが好きであった。御上手を言ふなどは嫌ひであった。神文に記載の弟子の居村を言へば、富田村、小前田村、御堂村、青山村、角山村、安戸村、小川村、、奥澤村、笠原村、大塚村、風布村、泉井村、玉川郷等があり、比企、大里、秩父の三郡に亘っては居るが、遠くも二三里を隔つるに過ぎない。郷村の記るしてないのもある。中に就いて明治十五年(1882)一月、東京愛宕町三丁目一番地平野文吾娘、同奈美、奥州安達郡二本松三ノ町、岸東崗母、同登利と云ふのがある。此れは東京へ出た時に教へたものか。吉田勝品の門人に小川の町田千代女があるなどと共に、珍しいものである。
 此等諸門人に就いて具さに彩訪したならば、中には教授に当った人々も恐らく数多く見出されるのではないかと思はれる。

 四、杉田久右衛門に関して「北武の諸算士」には、吉田勝品の條に勝品の碑文及び一代誌を参照すると辞(こと)はって、

 杉田久右衛門といふ人が小川出身で幕府に仕えたので、其の人の紹介で岡陣屋の川田彌一右衛門に就いて算数を学んだとある。

と言い、杉田の條に於ては、

 江戸へ出て幕府へ仕えたと伝えているけれども、それは誤伝で某旗本に出入したらしい。

と見える。然るに前にも参照して置いた通り、「吉田勝品一代誌」には、文政十年(1827)正月に福田重蔵から学んだ後に、

 夫より算術奥儀只管覺度、朝暮念願スル處ニ、小川下宿杉田久右衛門ト云者、若年ヨリ算術ヲ好、江戸表公方様ニ算法御指南、五百石頂戴黒川山城守門弟ニシテ、武藏國田舎ニハ岡陣屋川田彌一右衛門两人ト被稱程ノ達人ト聞、此人其頃質酒造、家内上下三十人餘、大家富繁ニシテ、算法敎ルコトナシ、然共、予朝暮欣幕ノ餘リ、同年正月二十五日小川村名主笠間庄左衛門ヲ依賴シテ申入、門弟トナル……

と書いて居る。之に関して勝品碑文には別に参照すへき事は見えないから、此一代誌の文から解釈されたものに違いないのであるが、其解釈は余りにも無理である。
 黒川山城守とあるのは、言ふまでもなく、古川山城守の誤りであり、諱は氏清、幕府の勘定奉行をも勤め、禄は恰も五百石にして至誠賛化流一名三和一致流の算学を創めた人である。一代誌の記事は、杉田が此の古川の門弟であったと云ふのであり、杉田が幕府に仕えたと云ふ意味のものではない。
 又一代誌に於ては杉田が武蔵国の田舎では、上総久留里藩の武州岡の陣屋に勤仕せる川田彌一右衛門と両人と言われる程の腕前であったと云ふのであり、そうして斯程の杉田に勝品が頼み込んだ事を述べたててある。決して勝品が川田に学んだとは言ってない。
 吉田勝品の遺品の中には、一代誌以外に杉田久右衛門の事を記るした文書も見出されないし、杉田氏遺族其他にも旧記等は伝はって居ないので、一代誌に依る外には、杉田の算学上の事蹟を窺い見る事は出来ないのである。
 「埼玉縣史」第六巻(昭和十二年五月発行、頁四一五六)に、

 男食郡竹沢村(現今比企郡竹沢村)には岡陣屋の川田保則に学んだ吉田勝品が居った。通称は源兵衛で、其村の名主を勤めたことがあり、旅行を好んで屡々(しばしば)出遊したが門弟も少なからず、明治二十三年(1890)八月八十二歳で没した。

と見える。此れは「北武の古算士」に拠ったものと思はれるが、前言ふ如く、吉田は川田に学んだことはないのであり、誤解に過ぎない。

 付記。尚、同書には越谷在大相模村出身の石川彌次右衛門富則と、同村の後進算者の事が略記されて居るが、「北武藏の數學」に拠ったと思はれるけれど、稍々正確を缼く。序ながら記るして置く。

『埼玉史談』11巻5号 1940年(昭和15)5月
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