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第6巻【近世・近代・現代編】- 第7章:文芸・学術・スポーツ

第1節:俳句・短歌

俳句

俳句を始めた頃の思い出

 もう遠い昔のことなので記憶もはっきりしないが八和田(やわた)【現・小川町】の旧郵便局の側に倉庫だか作業所だかのようなものがあった。其処に昭和の初めだったか俳句会があった。その時出席して柳という題で天賞になり扇面に先生が書いたのを頂いた。
   終日の風和らかき柳かな
 選者は中爪の文令舎可及先生であったが、形式は旧いなから今でも悪い句ではないと思う。文令舎とは地方に於ける俳句の先生で私の先妻の祖父である。
 矢張り同じ頃か余り違いはない時分の事だと思うが小川に句会があって私と奥村喜四郎さん二人だけで行った。十二月だったか一月だったか時季はよく覚えてないが、夜の寒い中を行った。成績は劣等であったが矢張り文令舎の選で
   若竹に光る朝日の雫(しづく)かな
が天賞になった。その外
   沈む陽に染まる川瀬や夕霞
 昔は俳句が盛んで、俳句を知らないのは一人前ではないように思われた。昔は学校がなかったから小学校を終れば、それからの勉強は独学でやらなければならなかった。
 それが俳句であったようである。歳時記によれば世の中の一切のことが題になっているのである。
 天文、地理、時候、人事、宗教、動物、植物に亘(わた)っている。だから私は俳句を庶民大学だと言っているのである。こんな訳で昔の人は俳句が学問であったり趣味であったのである。こんな状況下であったから、村に一人や二人の先生も居るしそれに次ぐ熱心な人も居たのである。
 私が俳句を始めた頃、勝田に夜秋庵如昇と号した先生が居た。本名は田中太藏とか聞いている。
 中爪の文令舎と、勝田の夜秋庵如昇は地方の先生だったからどこの句会でもこの二人のどちらかは見えて居た。その当時流派として蕉風と雪門とがあった。蕉風とは芭蕉の系統で言葉も意味もやさしいのを特徴とした。
 それに対する雪門は夜雪庵の系統で漢学者かぶれの傾向があったから言葉もごつごつしていて漢詩調で内容も漢詩的なものを好んだ。中爪の文令舎は蕉風で、勝田の夜秋庵は雪門であった。
 吉田に句会があったので出して置いたら、暫くたってから連絡があって天になっているから賞品を取りに来いというので貰いに行ったことがある。
 その時の句が今で考えれば馬鹿げたような拵(こしら)えもので、初心とは言い拙(つたな)いものであるが参考迄に挙げておく。
   夕風や柳眉の美人欄に倚る
   一路右曲陽炎もえて牛遅し
 雪門に当て込んだ句であるが紛れ当りによかったのである。
 句の良悪(よしあし)は別として、当時を回顧して無上の懐(なつか)しさを感づる。
 当時吉田は俳句をやる人が多くどこの句会へも見えた。私のやり始めた頃もそれ等の人が仲間であったが、私より八、九歳上の人であった。私が最年少であった。それ等の人は今一人も居ない。時代が変われば人も変わるのか。高度成長によって銭取りの方が面白いのか俳句をやる人は一人も居なくなった。
 齢(よわい)八十八を迎えて俳句ばかりではなく一般の同輩も殆ど居なくなった。世間では丈夫でいいねいとか、達者だと言って呉れるが、本人は冗談じゃない。間違って百まで生きられたとしても僅か十二年しかない。考えて見れば寂寥(せきりょう)の感に堪えない。折角この世に生れて来て何をしたか。食うことが精一杯で何にもしてない。寔(まこと)にお恥ずかしい次第である。それにしても私は恵まれて十八の頃から俳句や短歌が好きで以来七十年に亘る長い歳月をやり通して来た。別に偉いとも思わぬが兎に角稀有(けう)なことだと思う。因(ちなみ)に私の祖父は吉田から婿に来たのだが、仕事ばかりやらせられて好きな俳句も出来なかった由(よし)、その哀(あわ)れな遺志を引き継いで私は俳句が好きなのかも知れぬ。
       平成五年 五月十七日
            八十八歳 久保茂男

久保茂男『峡のともしび』 1993年(平成5)5月

 筆者は軒星(けんせい)と号し、1989年1月埼玉県文化ともしび賞を受賞、嵐山町町一番にも認定された。『峡のともしび』「はじめに)には、「平成元年(1989)だったか町の企画課で町一番の名目で町内で珍しいものや勝れたものを募集した。私も八十年町に在住した記念に何か出したいと思って、それほどの物ではないが十八、九の頃からやり通して来た短歌や俳句、川柳など千を越すものがあるので良悪は別として兎に角一寸珍らしいと思ったので勇気を奮って応募した。幸に認定されたのでその喜びを後世に残す意味でこの冊をまとめた。」とある。
 ほかに、『俳句自叙伝』(1983年5月)、『寂光』(1986年4月)等が出されている。

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