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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

津島神社の御輿渡御とその前の暴れ揉みのあった時代

津島神社祭礼の神輿渡御風景|写真

 毎年、7月13日、14日の2日間行われた菅谷神社内津島神社祭礼の神輿渡御風景である。この写真は『嵐山20年のあゆみ』(1977年発行)の1960年(昭和35)の頁に掲載されている。この年代は既に午後1回だけの担ぎで2回目(午後9時頃から)の暴れ揉みは無かったと思われる。農協は未だ旧い建物で建て替えられていない。向かって右端の農協の左奥に見える二階建ての建物は辻沢肉店である。未だ新築間もない感じである。辻沢肉店が二階建に新築されたのは、1962年、63年(昭和38)頃のことであるという証言があるので、『あゆみ』との齟齬がある。
 神輿の行く駅通りは未だ舗装されていない。左側手前に見える建物は農協の精米所である。神輿は駅通りを駅方向に向って進んでいる。
 1956年(昭和31)以降、土、日や休暇の日の昼間、神輿をトラックの荷台に乗せて菅谷の大通りを巡回したのを数回見たことはあるが、1975年(昭和50)頃、勤めを終えて帰宅して飛び入りで神輿を担ぐまで、御輿を担いだのを見た記憶はない。
 ここで注意するのは神輿の担ぎ棒の取付け方と長さで、現在とは異なる。昔は神輿の正・背面の担ぎ棒とそれと交叉する横方向の担ぎ棒の長さがほぼ同じで、担ぐと道路一杯となり、担ぐ人の向は横向きになり、蟹歩きになって担いだものである。担ぎ手の力関係で神輿がよく回転したことを憶えている。掛け声も現在と異なり、ワッショイ、ワッショイであった。
 当時の神輿を担ぐ人達は背は低かったが、力と持続力(スタミナ)の点では2009年(平成21)現在の人をはるかに上回っていた。それは現在の人の神輿の担ぎ方を見れば分かる。担ぎ棒が全員前向きになって担げるように組まれ、担ぎ方も穏やかである。そして、一番の問題は持続力の問題で、肉体労働の少ない現代の人は昔の人とは比較にならない。
 写真でも分かる様に神輿の担ぎ棒が井桁に組んである。そしてこの担ぎは夕刻の第1回目の巡回である。それは神輿にまだ鳳凰などの装飾がついている。夜遅くの担ぎは神輿が激しく揉む(暴れ揉みと言った)ため、あらゆる装飾を外し、注連縄のような縄でがんじがらめに神輿を縛り、壊れないようにして、一般の人が寄り付けないほど激しく担いだ。
 次に神輿の休憩について記憶を辿ってみると、神輿の夕刻と夜と2度担いだ。担ぐ順序は根岸豊氏宅前の御旅所の前を出発し、まず上(かみ)に行く。大通りを平沢境辺りまで行きUターンして大通り(県道・鴻巣小川線【昭和38年4月より国道254号線】)を菅谷下(しも)の東松山市境まで行き、また同じ道をUターンして駅通りに入り、武蔵嵐山駅前でUターンして御旅所前に戻る。行程は約2q強であろうか。その担ぎの途中でところどころで休憩を入れる。休憩を取る場合は商店の前が多かった。上(かみ)の方は余り記憶に無いが、魚時、桐屋、足袋屋、島本薬局、小島屋、美松、松浦自転車店、福島商店、岡松屋、中島屋。駅通りでは高山商店、佐野屋商店、東雲亭、内田屋、凸坊、花井商店などがあったと思われるがすべては思い出せない。神輿の休憩所となる家は予め、その家の前に縁台、テーブル、椅子などと振る舞いの茶碗酒、キュウリの切ったのに塩をまぶしたものや、季節の野菜、果物など、また、するめを焼いたのを裂いたのとか、氷のぶっかき、氷水などを用意して、担ぎ手、その他の人を持て成した。また、この持て成しを行う家は毎年でなく、輪番の様になっていて、それが予め祭礼の役員に伝えてあったものと思われる。神輿には、担ぎ手の他に幣束(御幣)持ち(神輿を先導し、神輿の行く先を払い清めてゆく人)、神輿の置き台(2脚必要)担ぎ2人、法螺貝吹き、介添え役、それに、羽織・袴で正装し提灯を持った氏子総代などが居た。この持て成しは、1回目の担ぎの時も、2回目の担ぎの時も家を代えて行われていたと記憶する。
 担ぎが一巡するのに休憩時間を入れると2時間前後はかかったと思われる。1回目の担ぎ始めは午後5時頃、2回目は、午後8時頃からではなかったかと記憶する。また、この形が採られたのは東松山市のヤクザとのトラブルの起きる1955年(昭和30)(自分はトラブルの起きたのはこの年と記憶している)までの形式である。それ以後のことは、どの様に行われたのか分からない。
(2009年3月、菅谷・権田文男)

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