ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

菅谷

古老にきく

津島神社縁起  根岸宇平氏

                 小林博治

 慶応二年(1866)十月、菅谷村(大字菅谷)の戸籍帳——根岸宇平氏蔵——によると、名主伊左衛門、組頭与兵衛、同一郎左衛門、同柳七等の名が見える。この組頭柳七さんが根岸宇平氏の祖父の当るが、津島神社の起源はこの柳七さんの頃だという。
 県道をはさんで、宇平氏が西側。東側が、中島元次郎氏(農業委員会長)の家であるが、中島氏の曾祖父を平兵衛さんといい、この二人が、ある夏の頃、都幾川筋で瀬干しの漁を試みた。この時、図らずも水中から拾い上げたのが、津島神社の御神体だという。然しこの神様がその後すぐに津島神社、天王様として村人の信仰を集めた訳ではなく現在の天王様の信仰が固まるまでには尚若干年月の経過があつたらしい。
 両人は御神体を両家の間の、街道の真ん中に安置し、市(いち)神様(街衢(がいく)にあつて疫神の侵入を防止する神)として、奉祀したという。新編武蔵風土記稿に「菅谷村ハ……戸数四十。江戸ヨリ秩父郡、或ハ中山道ヘ出ル脇往還ニシテ人馬継当ヲナセリ。」とあるから、往来の人馬も可成り繁かつたと思われるが、何分維新前のこととて、世の中は呑気であつた。コセつかず悠々としていた。道路の真ん中にこんなものを邪魔外道と叱る人もなかつたらしい。それのみか、この道路上の市神様は、次第に厄病除け悪魔祓いの神として村人の尊信を集めるようになつて来た。
 さて旧菅谷村内の九ケ村即ち、菅谷・川島・志賀・平沢・遠山・千手堂・鎌形・大蔵・根岸・将軍沢が統合され、菅谷村聨合戸長役場が出来たのが、明治十七年(1884)であるが、この頃になると流石に往還中央の神祠は時勢に合わず旁々村人の信仰も増して来た為であろう社祠移転の議が起り、根岸宇平氏の家で、宅地六坪を割き神地として奉納し、社殿を建てて移祀することとなつた。かくして現在祭典の際お仮屋の建てられる場所に鎮座することになつたのである。役場の土地台帳には、西側四四〇のロ、宅地六坪、八雲神社有として登載されている。現在は津島神社といつているが、土地台帳に見るように、八雲神社といつた時代もあり又、根岸さんの話によると八坂神社といつたこともあるらしい。
 八坂神社も、八雲神社も、津島神社も祭神は皆、素戔鳴命であり、天王様というのも新羅牛頭山の素戔鳴命の神靈、牛頭天王から出た名称であつて、厄除け、悪魔祓い神としての、素戔鳴命信仰には変りがないので、時により、山城の八坂神社に準じ、伊勢の八雲神社に做い、尾張の津島神社に和して、このように社名が変つたのであろう。 
 いづれにせよ、明治二十年(1887)頃になると、この神社は道路上の市神様から更に一歩進んで天王様としての、性格が明らかに固まり、厄除けの神として大字菅谷全体の崇敬をうけるようになつていたと考えられる。
 即ちこのことは、明治二十三年(1890)菅谷の大火の時、すでに神輿が出来ており、この神輿は、根岸忠与氏の邸内に安置してあつたが、この火災で焼失したと伝えられているから、天王祭りの中心神事である神輿渡御の行事がすでに存在していたことが分り、当時の天王様信仰の実態を推察することが出来る。尚現在の神輿はその後七年、明治三十年(1897)に小川の梅さん大工(米山宗吉氏家より出る)の弟子熊さん大工によつて作られたものだという。
 かくして、天王様としての神格を確立した津島神社は大字菅谷の発展と共に、その祭典も漸く華やかとなつた。京都八坂神社の祇園祭とその名も同じ七月十四・十五日の例祭に、疫神・災厄を吹きとばして、意気軒昂と市中を練り歩く神輿は菅谷祇園の呼びものとなり、近郷近在の善男善女が、団扇片手に浴衣がけの夏姿で、神輿見物に集つた。祇園祭りは、夏の農繁期を終えた村人達の憩の場所でもあつた。
 根岸さんが兵隊に行つている頃、字内の神社の統合が行なわれ、津島神社と稲荷様が、現在の菅谷神社の境内に移され、根岸忠与邸内に安置した神輿は、稲荷様の祠に納め、稲荷様には新しい社殿が建設された。約五十年前というから、明治の末、大正の初の頃と思う。然し祭典は、その後も必ず縁りの地にお仮屋を設けて執行され、神社発祥の地には、今尚脈々として、その伝統が生きているのである。
〔附記〕長い梅雨と入れ替りに、俄に訪れた猛暑の午後。ここは涼風の渡る根岸家の縁側で、土用の暑気払いと進められた心づくしの梅酒を傾け乍ら、根岸さんから聞いた数々の話の中、津島神社の分だけを摘記してその発祥と信仰の成立を辿つた。尚御神体を川から拾い上げたという件りは善光寺の本尊が本田義光の難波の堀江から拾い上げたものであり、浅草の観音様は、隅田川の下流で土師臣真中知の網に懸つたものであるという伝説と思い合わせ、地方信仰の起源を探る上から興味深いものと考えた。

『菅谷村報道』136号「古老にきく」 1962年(昭和37)8月5日
このページの先頭へ ▲