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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

越畑

「私の生きがい」——嵐山町越畑獅子舞の裏方20年の歩み——

                   小沢禄郎

 「おかげ様で助かりました」
 こんな言葉を聞くと、云いようのない快感に酔わされてしまう。
 それは恩着せがましい事をした代償ではなく、何か喜んで貰える事や、仕事がうまく出来た時などに、何ともいえない自画自賛に感動する。
 その魅力が今、私の「生きがい」なのである。
 思えばもう22年前に溯る事であるが、社会教育の畑から学校現場へ転出した折の、PTA会議の中で、地元に伝わる郷土芸能“獅子舞”が、後継者づくりに行き詰まっているとの事が話題になった。
 私は、かつて第一回埼玉県郷土芸能子ども大会を企画した経験もあったので、会議のあと早速役員から具体的な内容を聞き、地域子ども会による「社会参加」のよい機会として、獅子舞保存会関係者との話し合いを設けたのであった。
 「長男でなければ、この土地に残らない」
 会議の冒頭、保存会の古老から、開口一番の答えである。
 私は、「新しい時代は農村に限らず、そこに残るのは長男という限定はない、さらに長男が絶対に獅子舞を継承するきまりもない時です」と、こうしたやりとりの結果、長い伝統のきまりが外され、関心を持ってやれる者はすべて対象とする事になった。
 私は関係地区の中学生に呼びかけてみた。
 社会参加は集団生活の中で、役割の立場や責任の遂行を通して、連帯感が養成出来る大切さを強調した。
 私は中学校に籍を置く立場が幸いし、生徒との話し合いは随時に出来る機会があった。
 しかし「俺は遠慮します。」
 申し合わせたような返事に、私は拍子抜けをしたのであった。
 そもそも夏祭りであるから、暑い事は云うまでもない。
 時期は7月下旬、梅雨の上がりに慣れない炎天下では、汗が滝のように流れ、着ている衣装には乾いている部分がない始末である。
 それが若い世代には嫌われて、昨今は後継者に名乗り出るどころか、獅子を舞う事を家門の誇りとしたが、今はそれに耳を貸さない時代となっている。
 話によれば、いま獅子舞を踊る人の中で、一番若いと云われる者さえ、40代の半ばで、すでに父親から息子へ交代が出来ればと、望んでいる状態であると云われる。
 中学生にとっては部活があり、そして高校受験もある。
 本人だけの考えでなく、家庭の理解も欠かす事の出来ない問題である。
 当人たちとは学校で折にふれては意義を話し合い、夜は家庭訪問をして、郷土に残る伝統芸術の価値を訴えて、家族ぐるみの理解を求め歩いた。
 幸いに甲斐あって、保護者も納得され、獅子舞の練習会に出席する運びとなった。
 しかし私にとっての不安は、彼等の練習会における体験の判断である。
 一応はやって見てからと云う、仮定の条件が残されているため、諸手(もろて)を挙げた喜びではない。
 何とも云えない爽やかな中学生の参加に、保存会の人たちは、隠しきれない喜びをもって迎えてくれたが、きびしい練習に堪えられるかどうか、半信半疑と云う複雑なものがあった。
 私から後継者として参加に至った経緯を話し、さっそく師匠によって、基本練習が始められた。
 20数年ぶりの後継者であり、それが中学生とあっては、息子や孫のような思いで指導に当たってくれた。
 ある古老は、もう喜びに感激し、あと釜が決定したかのように目をしばたきながら、涙さえにじませて声をかける。
 それはせっかくの後継者候補である、だから大事にしたい。
 かつての流儀で、芸を仕込んではいけないと云う、気くばりの一つである。
 私にして見れば、何としても生徒には堪えふみとどまって貰いたいのである。
 約1時間の練習が終わったあと、生徒の表情は意外なほど明るく、微笑みさえもれていた。
 「青年時代には骨を折り、汗を流してみる事、それは勉強と同じで、少しでも多くの経験を身につけて置くことに限る」。
 私は説法でなく、自分の経験をふまえた事の例で、草や木において、これらが多くの根を張れば、それだけ養分を吸収して、幹や枝が太くなる、経験のアルバムを豊富に持てば、将来における支えとなり、かけがえのない「生きがい」になると付け加えた。
 以後、定例練習会には、私も生徒と一緒に出席をすることにした。
 師匠も熱が入り、師範演技に汗だくの立回りをやって見せ、全力投球で指導された。
 加えて生徒の両親や隣近所の者までが、練習風景を見学するという盛会に、獅子舞の継承はいよいよ本格的なものとなって、位置づけられていった。
 中学生による獅子舞の後継者候補は、わずか4名で、その中の1名は横笛を習った。
 残りの子どもたち約40名については、獅子舞に関わる、万灯の花つくりを担当させた。
 「大人の人は、他に忙しい仕事がある、万灯の花つくりは、皆さんが作っても大人と同じ物が出来る、ぜひ協力して貰いたい」
 従来は、用番が長い日数をかけながら、約1500個の飾り花を作った。
 子ども会では、夏祭り7日前の日曜日、午前8時から正午にかけて、1500個の花とこれを大小の竹ひごに、くくり付けるのである。
 まず1人当たりで、約50個の花を作る、小学1年生から6年生までの異年齢グループを組分けし、高学年が良く面倒を見る。
 用番が作ると、述べ日数で10日間も掛かる仕事を、わずか半日で仕上げてしまった。
 「まったく天狗様のやる仕事のようだ」
 用番の人たちが、子どもの協力に深々と感謝をされた。
 獅子舞や花笠っ子(はながさっこ)になって演ずる者は、表舞台に立って注目されるが、舞台裏のこうした花つくりの役は、目につかない存在である。
 しかし花作くりも、郷土芸能を支える立派な役割であり仕事である。
 獅子舞の祭り行事は、年に1回である。
 この祭り用番は、全氏子を組分けして、順番に当たるのが、10年に1回の割合になっている。
 「祭り支度(したく)の手びき」があっても、なかなか要領がのみ込めない。
 花つくりの“コツ”などは、高学年の子どもになると、要領もよく、大人が逆に教わる部分もあった。
 段取り八分と云うが、「花染め」作業は、1週間前に食紅(しょくべに)で、京紙を染めて置く。昔は当日に染め、七輪で乾かしながら作ったと云われる。
 伝統行事であるため、昔流を継承する事も大切だが、合理的に改善しなければ、無駄な事もある。
 「夏祭りの万灯花は、子どもたちが作ったそうだ」
 その事だけでも地域の関心は大いに盛りあがった。
 花の芯になる“こより”作りも簡単ではない、上質な半紙を短冊に切り、これで約1500本のこよりを作る。
 仕上がりには、多少の長い短いがあっても支障はないが、7人から8人の用番では、社務所に詰めた時間内では、とても1500本の調達は出来ないので、それぞれが家庭に持ち帰って、家族にも応援を頼むのである。
 私は、子ども会の各家庭に依頼し、30本を目安として、1週間の期限つきにしたところ、不揃いはあったが、期日前に予想外の数量が届けられ、それぞれが分担をすれば、簡単に出来る事を知った。
 各家庭においても、いずれ用番の仕事は、順送りに回って来る事を考えると、この小さな協力は、むしろ歓迎される内容となったのは、実に嬉しかった。
 こより作りをとおして、家族間では話が出来たり、連帯感の尊さが養われるなど、家族相互で社会教育の場になったと聞かされ、私は思わず自分自身で顔のほころびを覚えた。
 昨今のように「ホッチキス」と云う便利な綴じる物に慣れた子どもたちが、近代文化をさかのぼって、こよりという古き時代の手法や活用が、今なお風化される事なく存在する事を、単なる知識だけでなく、体験によって身に付けた事は、大いに意味があったと思っている。
 しかも出来たこよりを両手で強く引っ張り、その強さに驚いた事も、貴重な体験として肌が覚え、いつかこの事が生かされるに違いないと思うのである。
 こうした中での2年間、私が取り組んだ獅子舞の後継者育成に関する小さな目的が、なんとかよちよち歩きをするようになった。
 勿論、地域の関係者が、郷土芸能の保存と継承について、その時代に居合(いあわ)せた一人として、責任を深く自覚させられる事もあった。
 “他人のために汗をかく”今はそうした美徳は残念ながら、うすれかけている。
 中学生の獅子舞も順調に覚えられ、2年目は生徒による「奉納舞」があると云うので、神社の庭もせましとばかり、各家庭や嫁ぎ先の者までが、なつかしさに寄せて見学にまで来てくれた。
 「動作は大きくやる、小手先だけでは踊りに見栄(みば)えがないから……」と。
 踊りは予想をはるかに超える動きを示し、見物席からもれる異口同音の声は
 「身軽な動きは、見ていて気持ちがいい」
 伝統をこよなく愛する人の安堵である。
 責任を果たし、獅子の面を脱いだ後に、にっこりと見せる白い歯が、何とも云えない顔であった。
 「御苦労様だったね」
 ねぎらうつもりの言葉が、感激の余りに私は思わず声がかれてしまった。
 あれからもう22年の歳月が流れた。
 その時、中学生であった舞い子も、30代の半ばとなり父親である。
 高校の教師ともなって、今獅子舞の後継者育成によき指導者として期待されている。
 私がこの獅子舞行事に参画してから、もう22年になる。
 毎年一回の夏祭りには、子どもたちと共に、万灯の花つくりを、休むことなく続けて来た。
 現地の中学校に勤務をしたのは、わずか2年間で転任したが、夏祭りの万灯花つくりは、子ども会と私の仕事として、忘れる事なく心にかけて今日に至った。
 誰が付けたか、私を“花つくりの先生”と呼ぶ人さえいる。
 平成7年(1995)、長い梅雨があがると、7月下旬の夏祭りは、猛暑の中である。
 炎天下、やけるような暑さの中で、獅子舞は盛大に行われた。
 子ども会約30人による、22年目の花つくりが、また楽しく実施出来たのである。
 一時期に比べて、子ども会の人数は少なくなったが、万灯花つくりの仕事量は同じである。
 しかし子どもたちは実によくやってくれる。
 「これで、いいですか」
 自分の作った飾り花を私に見せる。
 一つ二つと個数を重ねると、それぞれの手もとが軽やかに動く、上級生は下級生に手をとって教える。
 花数の少ない者には、手ほどきをやりながら、作った花をそっと積み重ねて置く、そのさりげない思いやりに、私は何とも云えない気持ちになって、ただうなずくばかりである。
 “よい子に育てる社会教育”の課題は、地域社会の有り触れた中に、取りあげれば限りなく素材はある。
 よき機会を無にする事なく、生かす工夫と情熱をもって当たれば、誰にでも出来るものである。
 平成7年(1995)10月29日(日)、越畑(おっぱた)獅子舞が、埼玉県立民俗文化センターより依頼されて、公演が出来る事になった。
 1年に1回の大きな祭の行事を終えた保存会は、ほっとする間もなく秋の公演に対し、準備と練習にとりかかる。
 1年に2回の準備と行事は、決して楽な事ではない。
 私も万灯の“花つくり先生”として、これまたあれこれ多忙になる。
 かつての教え子が、正統な獅子舞を県下に披露する。何と奇遇であり、なつかしい思い出の再現である。
 20年前、演技指導の中で、体の動かしを大きくと云ったが、今はもう熟練の人となり、何一つをとっても、非とするものがない。
 思えば長い歳月であった。物好きだと軽べつもされたが、それを甘んじて聞きながし堪えた20年余り、知らぬ間に積み重ねられた思い出のページは、ただなつかしいばかりである。
 定年をすぎて8年、いま恵まれた健康を唯一の宝として、獅子舞行事に熱中している。
 そしてあと少しで私も“古稀”を迎える。
 郷土芸能“獅子舞”と取り組み、その伝承と後継者が、今ようやく脚光を浴びる時が来たのである。
 思い出があれこれと語られるのは、何と云っても健康であったから、その場へ出られた事である。
 金銭では買えない“健康”と云う財産が、20年余りを支えた杖であった。
 この大切な“健康”を土台にして、獅子舞行事の花つくりなど、私なりに記録をさらに更新していく、それが「生きがい」であり、私の楽しい信条である。

『教育叢書40 生涯学習』埼玉県教育公務員弘済会, 1996年(平成8)
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