ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

越畑

越畑の獅子舞

話者 強瀬喜平 明治三八年(1905)生
   福島市平 明治三八年(1905)生
   船戸治夫 明治四四年(1911)生
   田島利徳 大正七年(1918)生
   市川昭二 昭和二年(1927)生

一、名称・由来等

 名称 獅子舞のことは、通称“ササラ”という。
 由来 由来については定かではないが、地元の伝えとして伊勢山田(現三重県)から習い受けたという。数百年前のこと、旱天が続き飢饉にみまわれ、疫病も流行するに至って村人たちが相談し、伊勢から獅子舞を習い受けたのが始まりであると伝える。話者の船戸家の氏神は神明様で、昔は伊勢の恩師が歩きでお礼を配りに来たものだった。
 雨乞い 起源に雨乞いが言われるだけに、雨乞い祈願の霊験は固く信じられている。現在の伝承者の記憶にある雨乞いは二度あり大正初期行った。このときは、竹筒に水を入れて師匠が行列の先頭で持って歩き、沼(溜池)にその水をそそいだ。越畑は比企丘陵に位置しており、ヤツ(侵食谷)の水田の水源である沼に水をそそいだわけである。
 行列が越畑のクルワ(郭、村の中を分けた耕地)の一つである下郷の庚申橋まで来たときに、にわかに雨が降り出した。
 現在の師匠格の人たちも、まだ子供時分のことで、越畑の氏神である八宮神社に獅子舞を尾奉納するのを、おじいさんの肩車に乗って見たなつかしい思い出である。
 次の雨乞いは、昭和八年(1933)に行った。この年も旱天で、沼を干して田に全部の水をひいても田植ができず、越畑中の会合を開いて雨乞祈願をすることに決めた。各クルワから二人づつ出ているササラヨウバンの中から水をもらいに行く人を決め、日の出ころに自転車で上之村(現熊谷市)の雷電社に水乞いに行った。このときも獅子の行列で歩き沼に少しづつそそいだ。各戸一人が参加し、ケイドウクダリ(街道下り)の笛で越畑中の沼に水をそそぐわけである。越畑には二八箇所も沼がある。
 串引のクルワにさしかかったときに雨が降りはじめ、村人たちの喜びは大変なものだった。自分の田に水をひこうととって返す人も多く、この出来事で越畑の獅子の雨乞いに対する信用は、周辺地域にまで知れわたった。

二、所在地

 所在地 比企郡嵐山町大字菅谷字越畑

三、期日・場所

 現行 現行(1982)は、七月二五日に八宮神社で舞う。獅子をすり出す(舞い始める)ヤド(宿)は一年置きに法楽時と観音寺となっている。昭和五六年は観音寺であった。
 旧行 従来は旧暦六月十五日に中郷の浅間神社に奉納した。大正八年(1919)、同社が八宮神社に合祀されて以来八宮神社に奉納している。
 越畑には四クルワがあり、中郷には浅間神社のほか雷電様、山の神様、下郷には八幡神社、串引きには大天獏様、社宮司様、上郷には八宮神社が祀られていて、これらの神社は、八宮神社に合祀した。
 浅間神社は、上浅間と下浅間が祀られていて、祭りのときは男性は前者、女性は後者にお参りした。子供が生まれたときの初参り等は、越畑全体の氏神ということで八宮神社に行った。
 七月に祭りを行うようになったのは、この合祀のとき以来のようである。
 昭和四二年(1967)ころ、一、二年ほど四月三日に変更したこともあった。後継者養成の都合上学校がまだ春休み中で、ちょうどこの日は八宮神社「だんご祭」の日なのである。だんご祭りは祭典ヨウバンが氏子から米を集めて団子を作り饗食する祭りである。ところが従来の夏祭りとは季節も違い、やはり感じが出ないということで一、二年でまた七月に戻すことになった。
 また、獅子をすり出すヤドも、従来は宝楽寺ではなく正法院であった。宝楽寺になったのは、昭和二一年(1946)からである。正法院は、宝楽寺の別当の関係である。
 出向 明治のころ、小川町の八幡神社の秋祭りには一年おきに出向いて獅子舞を舞ったというが、現在は定期的に他所に出向いて舞うことはない。
 中断 日露戦争と第二次世界大戦のときは、やむを得ずに中断したことがあった。昔、獅子を休んだら疫病が流行し、再び舞うようになったと伝えられ、現在も後継者養成は熱心に行われている。
 伝承先 なし

四、役割と服装・楽器等

 獅子 獅子は、大頭・雌獅子・雄獅子の三頭。大頭は黒色で白毛、雌獅子は茶褐色で栗毛である。服装は、いずれもかすりの着物にたっつけ袴、ワラジばきである。
 現在の獅子頭の制作時代は明かではない。昔、観音寺が火災にあい、そのころ用いていた伝左甚五郎作の獅子頭を失った。このとき獅子頭のうなり声が聞こえたという。
 今の獅子頭の修理は、七十年ほど前と昭和二六年の二回行った。修理のときは「魂を抜く」といって神主に拝んでもらってから出し、出来上がってきたときも入魂のために拝んでもらう。
 笛・歌方 笛方は四〜六人で袴姿、歌方も同じく袴姿で扇子を持つ。
 花笠 花笠は、男児四人がそれぞれ頭に花笠を乗せ、簓(ささら)を奏する。かつては、将来は獅子仲間になる子が勤めるものだということで親が希望を出した。花笠を一、二年すればあとはササラッ子になれるわけである。現在は、小学校四、五年生の児童に頼んで出てもらっている。
 中立・道化 獅子を舞うときの先導役を勤める役は中立とか道化とかいう。
  各庭に先立って棒術が行われるが、この役は男性二人である。

五、曲目・歌詞等

 曲目 曲目は、初庭・二庭の二つの舞からなる。舞の内容は、他所では女獅子隠しと言っている曲の類である。
 舞の内容 花笠を花園に見立て、三頭の獅子が楽しく舞ううち大頭、雄獅子は雌獅子を恋するようになる。この楽しく三頭が舞いたわむれる部分が初庭の内容である。
 二庭に入ると、雄獅子が大頭に抜けがけし怒った大頭と雄獅子の争いのあと和解に至り兼び平和な花園に戻るという内容になっている。
 舞の構成は、笛の曲名や出だしの口調子で区別されている。練習のときなどは、これによって出や引きを覚えるのである。
 初庭の構成は、街道下り——出の笛——トーホヒャヒャー——飛岡崎——ヒンヤヒャー——寄太鼓——休みの笛——歌——神楽——岡崎——ヒンヤヒャー——岡崎終りの笛となっている。
 歌は
 ○参りきて これのお庭を眺むれば
  黄金こぐさが 足にからまる
 の一曲である。
 二庭の構成は、街道下り——出の笛——神楽——寄太鼓——休みの笛——歌——御子の舞——花笠を寄せる——トーホーヒャーリホニの笛——終りの笛——富士崎となっている。
 歌は
 ○この宮は 飛騨の匠が建てたよな
  くさびひとつで 四方かためる
 の一曲である。
 地元には、大正時代に書き残した笛の口調子の記録がある。これは、日露戦争で中断して以降、低迷していた獅子舞を復興しようと馬場儀平次・市川喜蔵・青木五三郎の三氏が中心になって記録化したものである。その後度々改訂していって、現在も後継者養成等には貴重なものとなっている。

六、伝承

 氏子総代 八宮神社の氏子総代は、串引一人のほかは三クルワから各三人が選出され、任期は三年である。
 祭典ヨウバン 祭りのときの神社関係のいろいろな世話をする祭典ヨウバンも氏子総代と同人数がいる。各クルワの選出人数も同じである。
 ササラヨウバン 獅子舞関係の世話をする人をササラヨウバンといい、串引、中郷各一人、あとの二クルワから各二人が選出される。
 ヤド 獅子がすり出る正法院(現在は宝楽寺)観音寺はヤドといい、一年おきにヤドを交替するのでヤド(宿)に当たった年は「ことしは正法院がヤドバン(宿番)だ」等と表現する。
 オシ ヤドを出た獅子は八宮神社に向かうが、その途中で休憩する場所がある。この家のことをオシ(御師)という。観音寺がヤドバンの年は田島秀雄氏、宝楽寺の年は市川又一氏宅がオシを勤めている。
 道具保管 同様に獅子舞の諸道具を保管する家も一年交替である。正法院(宝学寺)の年は船戸治夫氏、観音寺の年は青木光吉氏が保管する。
 これらの家とその役の関係の由来は明かではないが、いずれも旧家である。
 師匠、ササラッコ 獅子舞の指導的立場にある人を師匠といい、師匠に教わり実際に舞ったりする人はササラッコという。
 シンナライ シンナライは、氏子の長男に限られていたが昭和四〇年代からは氏子希望者であれば誰でも良いことになった。
 ことしはシンナライを出そうという年になると候補者選びを行う。親が伝承者という場合も多く、候補に選ばれて断わる人はいなかった。
 願果たし 子供が病弱で「無事に一五の歳になりましたらササラをすらせ(獅子を舞わせ)ます」と願をかけ、その願果たしとしてシンナライになる子供も結構いた。
 練習 例年は、七月一日に氏子総代の祭りの相談があり、祭日十日ほど前から一晩置きに練習を行った。シンナライのいる年は、七月七日ころから練習をはじめた。
 練習は、昔は観音寺で行った。八宮神社社務所で行った時期もある。シンナライは、直接、師匠のところへも教わりに行ったものである。
 ササラをすれる(獅子を舞える)ようになるには、まず笛譜を暗誦しなければならなかった。だから、タナグサ(田草)をとったりジガラ(地唐臼)を踏みながら、口で「トヒォヒォヒー……」という具合に練習したものだ。
 夜の練習のときは、ロウソクや吊るしランプの明かりで行った。師匠が、シンナライの後から抱くようにして手をとって教えてくれたが、煙管をくわえたままなのでシンナライの頭の上に煙管がちょくちょくきて大変だった。獅子の太鼓の練習も、バチの真中を持って叩くので親指から血が出るようなことも度々あった。
 終わると、手拭をしぼるほどの汗だった。笛方も、腕がしびれるまで練習した。この夜は、ササラヨウバンがお茶入れの世話で来てくれた。

七、祭り

 花ごさえ 花笠の花、万灯の花つくりは、六月二二日(旧暦六月一五日のころは一二日)に行った各戸一人が出た。
 昭和四十年代中ごろからは、子供会が手伝って作っている。
 ブッツオロイ 祭り前日は、ブッツオロイでその年のヤドで初庭だけをする。
 当日 いよいよお祭りの日である。獅子舞連中は、午後一時にその年のヤドに集まる。昭和五六年(1981)のヤドは観音寺であった。その前年は宝楽寺がヤドだったのである。
 この祭りの日が、ブク(忌服)のかかっている人は近身者の場合は原則として獅子舞に参加することはできない。特に近身者ではない場合は、ブッツオロイの日にブクバライと称して神主に祓ってもらえば参加してもいいことになっている。
 午後二時から、ヤドで初庭だけを奉納する。このあと、行列で神社まで向かう。
 行列の順は、万灯——ほら貝——先払——先達——氏子総代——棒つかい——花笠——笛頭・笛吹衆——中立(道化)——獅子、となっている。
 浅間社に奉納していたころは、浅間社と八宮様は仲が悪いと伝えられていた。このため昔はわざわざ八宮神社前を通らないようにした。その後、神社前を通るようになっても、シノビドオリ(忍通)と称して笛・太鼓は奏さずに通過したものだという。
 現在は、合祀された関係から八宮神社に奉納しているのである。
 神社に着く直前の所に、オシの家があり、ここで小休止する。オシ宅では、茶菓のもてなしをする。時間にして短い年で十分程、長い年でも三〇分弱の休憩である。八宮神社には、午後四時から初庭をするよう時間を見計らってオシ宅を出るのである。
 午後四時から初庭をするが、シンナライの出る年はどんなに未熟でも初庭はシンナライが奉納するものとされている。
 初庭のあと祭典——二庭奉納と続く。そして現在は午後六時から社務所で直会を行う。直会では、シンナライは正座に尽かしてもらえることになっている。
 正法院をヤドとしていたころは、神社で二庭をすったあと正法院に戻りスリオサメと称して初庭をすったものである。このときには日もとっぷりと暮れ、祭りを無事終えた満足感にひたりながら月明かりの下で舞ったものだという。

埼玉県民俗芸能緊急調査報告書第四集『獅子舞の分布と伝承』98頁〜106頁 埼玉県教育委員会, 1982年(昭和57)3月
このページの先頭へ ▲