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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第5節:祭り・寺社信仰

古里

明治初年の神仏分離と古里瀧泉寺

 古里(ふるさと)の兵執神社(へとりじんじゃ)のある小高い丘の中腹に、天台宗の龍泉寺(りゅうせんじ)がある。住職は小川町中爪(なかつめ)の大師様・普光寺(ふこうじ)の住職さんが兼務しており、建物は兵執神社の社務所としても使われている。現在、檀家(だんか)は十二軒、ほとんどの檀家が寄居町鷹ノ巣(たかのす)にあり、古里には新しい檀家が一軒あるのみである。

 龍泉寺は化政年間(1804〜1830)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』等によれば、天下祭で有名な江戸山王大権現社(さんのうだいごんげんしゃ)の別当(べっとう)勧理院城琳寺(じょうりんじ)の末寺で、金剛山(こんごうざん)金州院(きんしゅういん)と言う。十四世紀中葉に開山し、1650年(慶安3)に中興した。古里村の鎮守(ちんじゅ)・微執明神(へとりみょうじん)社(現兵執神社)の別当として、神社の春秋の例祭や祭典を取り仕切り、寺の本堂を社務所として使い、獅子舞、里神楽(さとかぐら)等の祭具も寺に保管し、神社と寺院が同居し融合していた(神仏習合)。江戸時代は寺請(てらうけ)制で、すべての家がどこかの寺の檀家(だんか)となる。古里の家々は、慶長年中(1596〜1615)に村内に開山した曹洞宗の重輪寺(じゅうりんじ)の檀家であった。

 明治維新政府は王政復古を看板に祭政一致の理念をかかげ、神仏分離令と称される一連の布告を発し、神社から仏教的要素を一掃しようとした。1868年(明治元)、龍泉寺の本寺、城琳寺は廃寺となり、山王大権現社は日枝(ひえ)神社と改称した。権現は、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説で仏が衆生(しゅじょう)を救うために権(かり)(仮)に日本の神として現(あらわ)れるという意味だったからである。

 この時、龍泉寺には恭禮(きょうれい)という僧がおり、葬式を行う檀家(滅罪(めつざい)檀家)が十軒ほどあったので廃寺は免(まぬが)れたが、本寺の保護を失い、新に浅草の浅草寺(せんそうじ)の末寺となる道を探っていく。

 神仏分離により、微執明神社は舳執社(へとりしゃ)となった。仏教側から日本の神を呼ぶ場合に明神(みょうじん)の語が用いられることが多かったのでその使用を避けたものと思われる。さらに、龍泉寺の住職に替わって新に隣村板井(いたい)村鹿島(かしま)社(現熊谷市出雲乃伊波比(いずものいわい)神社)の社掌篠場(しのば)豊盛が舳執社の神職となって祭典を執行、寺の施設は使えず民家を借りて社務所等に充てた。

 1869年の版籍奉還(はんせきほうかん)に続いて1871年(明治4)には社寺領の上知(あげち)令が出され、境内地以外は没収される。檀家の少ない龍泉寺の経営は一層苦しくなり、塩村(現江南町)常安寺(じょうあんじ)が兼務住職となる。困難な条件の中で、兵執神社の氏子・重輪寺の檀徒が龍泉寺の信徒として、龍泉寺の檀徒、住職と力を合わせ、寺を維持してきた。

 下の絵は、飯島四郎次(四雲)さん(1890-1964)が1956年(昭和31)に描いた龍泉寺(左より、薬師堂、本堂、庫裡(くり))。この建物は1966年(昭和41)9月25日未明に来襲した台風26号で倒壊した。飯島さんは浪花節語り、ささらの笛の吹き手としても活躍した。

飯島四郎次(四雲)画「古里瀧泉寺」|写真

『広報嵐山』151号「博物誌だより113」2003年(平成15)12月1日 から作成

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