第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
古里
江戸時代の瀧泉寺に関する記録は極めて少ない。文化・文政期に編纂された『新編武蔵風土記稿』、明治十年代に書かれた『武蔵国郡村誌』、1896年(明治29)合綴(ごうてつ)された「村誌寺社明細帳」等によって本末寺、寺領等について勘案してみよう。
本寺の開山は1364年(貞治3)に示寂した僧侶とされているので、名前は判然としない伝説的な事柄ではあるが、江戸開府以前二百四十年、南北朝時代に創 建された古い寺ということになる。また本寺は山王社即ち日吉神社の別当(神仏習合思想により神社に設けられた神宮寺)勧理院(城琳寺)の末寺として建てら れ、金剛山金州院、光林寺と称されていた。1650年(慶安3)に中興の祖真海が出るにおよんで、寺号を瀧泉寺と改称している。本尊に「弥陀を安ぜり」と あるから、ご本尊は今も変わらぬ「阿弥陀如来」であったと思われる。1777年(安永6)には光海出でて本堂を再興した。寺域は東西二十一間・南北三十八 間、面積九〇〇坪(少々計算が合わない)であったという。
1869年(明治2)8月の書付文書を見ると寺名が「天台宗世尊院触下 万年山瀧泉寺」となっている。「勧理院」が駒込千駄木(東京・文京区)にある「世尊院」と変わり、山号も「金剛山」から「万年山」になっている。本尊が 「阿弥陀如来」というのはかわらない。除地(朱印地・見捨地以外で租税を免除された土地)が二千九百坪とあり、広大に聞こえるが舳執神社の社地が二千九百 二十五坪あり、瀧泉寺は寺領を共有した形であったのでこのよう記したのであろう。その後1871年(明治4)になって、神仏分離令(1868年の政令)の ためであろう、社地を改めて分割し、二千五百七十七坪を神社分に、三百四十八坪を寺分とした。
なお1871年(明治4)社寺の所領の上地令が出 るに及んで、時の戸長安藤貞良は県令にたいして「社寺境内外取調書」を提出している。それによれば除地は四反壱畝五歩となつているが、内訳をみると境内一 反七畝四歩、墓地一畝歩で他は畑二反三畝一歩すべて上知され、直作人へ払い下げられている。周囲は上知官林・上知畑地となつている。
また、「寺社明細帳」や『郡村誌』は一様に「維新の際浅草寺末となる」としているが、1886年(明治19)の瀧泉寺世話人安藤貞良と浅草寺執事との往復 書簡を見ていると、浅草寺を本寺とするには少々曲折があったように思う。1886年1月6日、安藤貞良は塩村の常安寺立会いの上取り調べた寺明細帳を浅草 寺へ送って奥印を願い出たところ、2月2日返事があって「然る所当寺従来末寺名帳に該瀧泉寺儀ハ相見へ不申候」と、寺明細帳四通を返戻してきた。要するに 瀧泉寺は浅草寺の末寺ではないので奥書は出来ないということであった。その後2月17日に至って浅草寺執事から「本月十二日付書簡を以云々御申越之旨正ニ 致承知候」との書簡がもたらされた。2月12日付の安藤貞良・常安寺(塩村の兼務寺)の朝倉亮全からの再度の請願に応えて、末寺として奥書したという知ら せであった。
1886年(明治19)11月の「寺属明細取調書」において
「 埼玉県武蔵国比企郡古里村外一番
本寺東京浅草寺末
等外寺 金剛山瀧泉寺 」と堂々と記載されている。この取調書によれば、
本尊 弥陀如来
本堂 間口五間×奥行五間
庫裏 間口四間三尺×奥行五間三尺
境内坪数 四百三十八坪
境外所有地 畑弐畝五歩(中内出甲七百六十五番)
檀家 拾壱軒
とあり、所々に検閲の印が押され、末尾に略絵図が付けられている。
本末寺・寺領等の関係についてその推移を見て来たが、挿入された二枚の略絵図に本堂・庫裏・墓地は示されているが「鐘楼」は見当たらない。鐘撞堂や梵鐘はあったのだろうか。
嘉 永六年(1853)丑十一月、瀧泉寺の留守居恵前房が書き写した文書がある。「右瀧泉寺釣鐘破れ候ニ付今般相払」と、即ち鐘がこわれたので廃棄した。「釣 鐘出来之節切付可申候」として、元禄四年(1691)辛未八月に作られた鐘銘が書き残されている。鐘楼はともかくも梵鐘は嘉永六年(1853)まであった ことが分かる。次に釣鐘を創る時は元禄四年の鐘銘(壊れた釣鐘に刻まれていたもの)を彫刻してくれという意味で全文を書き残した。
鐘銘は「経云若 打鐘時三悪道一切苦悩皆停止」に始まる九行百三十七文字の鐘撞の功徳を説いた名文が綴られている。銘文の作者は金剛山瀧泉寺秀源法印であり、施主は古里村 安藤長左衛門外三人、鋳物師(いもぢ)(鋳物職人、鐘の鋳造者)は江戸の人で長谷川伊勢守藤原国永となっている。
その後「釣鐘出来之節」はあったのだろうか。年不詳ながら鐘について、江戸深川の釜屋七左衛門が瀧泉寺に宛てた覚書が残されている。文面に
「一口 差渡シ壱尺八寸鐘壱本
貫目四拾五貫附
代金拾三両壱分也
右之通リ念入鋳立差上ケ可申候 」とある。
鐘は直径54.5cm、重さ168kg、大釣鐘とは云い難いが立派なもので、代金十三両一分と見積もっている。しかしこの釣鐘が出来たとか、出来なかったとい う証拠はない。ただ年不詳といったが「申六月二十日」との記載があり、鐘の破損廃棄の嘉永六丑年以降の「申」の年は「万延元申年(1860)」か「明治五 申年(1872)」が考えられるが、明治五年頃は廃仏棄釈の横行した時代であり、万延元年以降は幕末喧噪の中にあって、ともにその実現は難しかったのでは あるまいか。いづれにしても「瀧泉寺幻の鐘」として記憶にどどめる他あるまい。