第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
郷土の今昔[安藤専一]
十八、郷土の剣豪中村清介翁とその奉納額
七郷村長船戸熊吉(越畑)は、第四代村長として明治二十八年七月より同二十九年十月まで就任し、更に第五代田中浪吉村長(勝田)の後を受けて明治三十二年七月再び第六代村長に就任したが、僅か三ヶ月で退任となった。当時村議として頭巾を現していた中村清介が、議会の推薦を得て第七代村長に就任したのは同三十二年十月で、議会の親任と村民の信望を得て三十六年四月まで三年六ヶ月勤続して、着実なる村政を執行することを得た。
中村家は嵐山町大字古里七六六番地に在り、近世年間に名主を勤めた旧家で、地元では「後り中村」の通称で通っている。先年火災に遭い家財一切を消失したため、往時所蔵の諸資料を見ることができず誠に残念であるが、幸わい「小川地方武道史」の小誌を保管してあったので、これにより森吉・清介二代にわたる剣道一家の当時を忍ぶことができる。
小川地方武道史のはしがきには、小川警察管内にあげる武道発表の歴史を永く後世に伝えるため編集する云々と記され、小川武道振興会田口勘造・同編集委員長山口麟三郎の銘があり、編集昭和四十六年(1971)九月十五日と記録されている。○演武場長養館における指導歴
明治二十年より昭和二年に至る四十一年間前後五七〇名に及ぶ門人の稽古に精魂を打ちこまれた。流派は甲源一刀流で、逸見武一らと同流である。
○小川警察署歴代嘱託教師
初代 明治三十六年一月より 師範 小久保満尊 念流
二代 同 三十八年十一月より 五段 中村 清介 甲源一刀流
三代 昭和六年八月より 六段 小久保 麟 念流
四代 同 三十年六月より 六段 千野 寿助 小野派一刀流
五代 同 四十年八月より 七段 黒沢 利輔 〃
○剣道顕彰碑
(1)中村清介翁顕彰碑
所在地 嵐山町古里八二五
碑名 軍神の碑
建立年月 明治二十九年十一月
注 長養館有志の建立するもの
(2)野口起翁寿蔵碑
所在地 小川町青山八二七
碑名 野口愛之助先生碑
建立年月 大正三年四月
注 碑裏面に中村清介・小久保満尊の名あり
○剣道年表
嘉永五年九月十五日 剣士中村森吉長男として古里に生れる。
明治三十八年十一日 小川警察嘱託教師となる。
昭和二年十二月十二日 七十五歳にて歿す
○奉納額
小川地方武道史には、奉納年月日・掲額場所・所在地・願主(中村清介)流派甲源一刀流と簡単に記されているのみであるが、その詳細について次に記すこととする。○額の大きさ 横九尺三寸(2.8m)
安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月
縦七尺(2.1m)
○木刀の大きさ 長さ二尺五寸(0.75m)
額中央部にあり 二振
○本文は九行となっているが、文字不鮮明のため読み取れない。
○奉納者と逸見家・中村家の代表者
奉納者中村清介は大書して平面図の箇所を占め、その右下に逸見男として逸見武一、左下に中村男として、中村良資(長男)・中村文武 中村美明と記されている。
○額面には上段から師範・同代・目録・平席の順に書かれ、これらの氏名が八段に分けて記名されているが、年数が経過しているためその大部分が視読できない状態である。師範で読み取れた氏名は次の人達である。
蛭川一、瀬川太郎左衛門、飯田源三郎、大塚ъb八、岡田義太郎、鈴木勝四郎、青木進、江黒磯七、森田吹輝、外二十人余。
○同代は師範代理の人達で、榊原鎮吉を筆頭に四十人余連記されている。
○目録欄には文字薄れて不明であるが約二百人の氏名が書き連ねられている
○目録欄に続いて平席の氏名が約二百四十名登載され、地元古里を始めとして本畠・男衾・八和田・小川・菅谷・宮前・福田・小原等近隣より青荘年層の同好者計数百名が相前後してこの門を訪ずれ。日夜剣の道に精魂をこめた稽古が行われたと伝えられる。
○下欄に長養館幹事として、富岡賢三郎(板井)外五名が記され、続いて名誉員として倉内覚之亟を筆頭に地元有志等三十九名が連記され最終に幹事安藤貞良、中村国吉、千野房吉、飯島貴寿、神官篠場豊盛五名の名が連ねられている。
○奉納年月日
左側端上部から明治二十七年(1984)一月十三日。橘堂客史謹書と記してある。
○道場
道場は当家の裏手にあったが、現在は取り壊されて往時の面影は全滅してしまった。道場は長養館と称し門人一同のあこがれの道場であった。
以上で稿を終わるが、この頃は明治二十七・八年戦役の直前で国を挙げて自国意識旺盛の時期であり、従って柔剣道熱も挙がり、何れの町村を問わず士道精神の溢れ満ちた時代であった。