第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
内田講『想』
全体的のものや、何学年にも互るものもあるので順を逐て追加します。
1 服装
いわゆる着物だ。パンツの呼称は無く、猿股と呼び白キャラコの前合わせ、紐で締めた。女性は腰巻だけ。はきものは手作りの、暮履、下駄は余り用いなかった。要するに現金を出すのは非常に惜しんだわけ、体操の時は、跣、結付草履、もした人がある。着物の裾を上にたくし上げて三尺で結んで脚部を出して軽くした。運動会の時は、猿股とシャツ姿だったろう。女性は着流しで走ったと思ふ。学帽は男子半分位だったか、夏は単衣、夏は袷と股引、踝の上を紐で締める。足袋と間があくので皹、皴、に苦しんだもの、私は母がしゃれ気があったのか東京に居た叔母のためか、高等科の時は、白襦袢にユカタを着せられてたった。
2 子供の遊び
(い)輪廻し
醤油樽や、四斗樽の箍を、竹を一米位に切って下の枝を二本共十糎位にしてその間に箍を入れて押して走るもの、入学前からよくこれはやった。隣の小父さんから「よく廻して大人になったら、自転車を家って貰いな」といわれたのを思出す。運動会の種目にもあった様な気もする。
(ろ)野球
これはよくやった。私は捕手、勿論全員素手、ボールもバットも手作り、ボールは大体私が作った。労働着を作る地縞布を家で織ったのでその小切れで作る芯を作り、亜鈴型を二枚作って縫い合わせる。或る日大沼へ釣りに行った時指頭大の鉛玉を拾ったので、それを芯に入れた、何回かすると、鉛玉が表面下に来て、とてもとても痛かった。その外には鬼ごっこが多く、拳跳び、等々、夏は皆して沼で水浴び、悪ふざけや、いぢめ等更に無し、皆其処で一応水に浮きられる様になった。唯他町村の子供とは石の投げ合をした様だ。越畑―奈良梨、杉山―中爪又は志賀、勝田―伊古、吉田―和泉、私は根性弱し一度もやった事は無いが皆の話しの中から推察してだ。3 新聞購読
東上線開通までは、熊谷駅に夜着いたものを夜通しで小川へ手車で運び、小川で仕譯して夫々細かく配る。紙名は「国民新聞」呼び物は「徳富蘇峯」の論説、村でも軒並ではなく配る人も徒歩なので然るべき家に、まとめて置き、そこまで読者が取りに行く仕組。学校の子供を使ふのが最良。下の店に置いてあるのを兄姉私皆運んだ。休日には下の店までとりに行く。何時でも家人が読むのは、前日のか、夕食後だった。熊谷―小川間の箱車による逓送は、大沼で魚釣りしてると、上の県道を一定の時間に熊谷へ行くの見て、家人に尋ねて、分った。これには悲劇があったが書かない事にする。
4 部落発表会
大正四年(1915)と五年(1916)の冬に二回だけだったと思ふ。夜部落毎に大きい家へ、父兄共々集って当字の子供が学芸を披露する仕組。私は兄に連れられて、杉山は初雁家に行った憶がある。又五年の時、金泉寺で修身を読んだ事も記憶してるが、それ以外は記憶に無い。
5 自習会
夏休みになると始めの一週間位、大字毎に自習会をした。重に寺を使ったと思ふ。越畑では金泉寺の本堂の西側、学校から板等を運んで、先生は巡視の形、上級生が下級生に教える仕組。私は山の中で育ってた故か?気が弱いのか、四年頃一夏出ただけで、殆どを自宅の裏山で独り自習をした。
6 蓴菜と、アカンペタ釣り
大正六年(1917)頃のこと、佐賀県の、山下孝二郎、といふ一寸風変りの人、即親からの遺産、拾万円を本にして、一寸八分の金の御釋迦像とかを、上座に飾り立派な祭壇を作り、朝夕修證義を唱え、後は読書したり、琵琶歌を歌ったりの人を、西の離れに住わせたのだが、その人が小沼の蓴菜(じゅんさい)を見て、素晴らしいものを見つけた、あれを採るといふので、五月末か、六月始めまだ水に入るには冷いと思われた頃だった。盥舟で採るといふので、男衆に盥を持たせ颯爽と出で立った水着姿(当時の水着は海で岸辺に行くまでのもので白木綿を、太目の糸で縫い目を僅か空けた。特殊の綴縫、着丈は膝の辺位、大正十一(1922)、十三年(1924)鎌倉に行った時もこれ)で盥に乗ったと思ったら、ドンブリコ、一週間位風邪気。水中に出なくも竿に逆木をつけて、グルグル廻して相当採った。あの幼葉を巻いた儘で水中で特殊の、ヌルヌルをつけたのが珍味と教わった。後年旅行して時に夕膳に載る事もあるが仲々上等の品として御馳走だとのこと。この蓴菜始め殆どの水草が今は見当らない。それは昭和始め頃食用蛙がアメリカから輸入され、その肉がアメリカへ輸出されてた。その蛙の餌として多分、ロブスター、と言ったと思ふが、アメリカザリガニ、此の辺では、エビガニ、が最初に飼われた横浜の方から上って来て、昭和三十年(1955)頃、沼にまで入り、水草が水底の地面に芽を出すのを食ってしまうので、大体の沼に水草類が見えなくなったのだ。
もう一つ小沼で忘れられないのは、私達兄弟の言っていた(アカンペタ、又はチンケロッコ)八糎位の小魚で、紅、、白、時に黄金色、青味を基調にした色彩豊かな体の薄い、今いふ――タナゴだらうか、兎に角美しい小魚、釣るのは「馬の尾毛」餌は飯粒でもよい、而も陸から一米以内、三十糎位の深さ、浮きは餌を吊すためのもので見釣り、口に入ったと見たら上げればよい。竿も一米位、時期は日向が恋しい時だったから、早春か、十月頃よくやったと思ふ。この小魚は他の沼には居なかった。三ツ沼にも十三間や大沼に居たが色合は全然別。今も果しているや否や。昭和三十年(1955)頃鯉釣りに二度程行ったが居なかったと思ふ。【以下の項目は省略】
内田講『想』 1987年(昭和62)9月記
7 軽気球と、飛行機遊び
8 盆踊り
9 夜鍋仕事
10 若衆相撲
11 新旧暦のこと
12 迷信
13 本田谷に無かったもの
14 蛋白資源
15 雨乞い
16 落第の子も出たこと
17 修学旅行
18 螟虫の卵取り
19 八年間で一番頭に残ってる学業
唱歌遊戯、度量衡換算
20 自給自足のこと
21 通貨のこと
22 交通手段
23 独楽廻わし
24 百人一首
25 買食の件
26 人魂のこと
付 沿革史より