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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第四部 終戦後

歳月は流水のごとし

 同盟交通開業十五年余。昭和四十九年(1974)十二月、二つの営業所が合併する事になる。練馬営業所は解散、従業員は移転又は退職して他の会社に勤務した人もあり。私の場合若し通勤するとしたら三時間余。年は六十才、其のため定年退職にしてもらった。しかし、白内障手術の関係で五十年(1975)一月迄で延長勤務。お蔭で目の方も現在コンタクトを使用だが車の運転も続けられている。
 昭和五十年(1975)五月十九日、外孫の正寿誕生。有子は働いていた。しかし少しでも早く家を作る可く、我が家の方でも最大の援助をしてやろうと思った時だが金銭がある訳でなし、そこで正寿は我が家で見て有子も働く事にした。出勤前連れて来て退勤時迎えに来る。このような毎日が繰り返されていた。五十年はたまたま私が退職していた関係で子守も出来た。夏の甲子園など私が抱いてテレビ観戦した事など、いい思い出の一つ。正寿は内孫同様である。
 この年九月に入ってと記憶する。和子がパートで働いていた時、伊藤さんから女子高の話をしてもらい早速伺ってみた。仕事の内容は鍵の開閉で、朝八時迄に開錠し又鍵を返して夕刻再度出勤、全員退勤後鍵を閉めて帰宅。こうして幾日か過ぎた或る日、古橋校長先生から毎日勤務してくれないかとの話になった所で、実はこれこれの事情で家の中は保育所同様の件をお話したところ、それではといってとりあえず育子を保育園に入れるよう取り計らって戴き、お蔭様で育子は即入園する事が出来ました。私は五十年十月一日から正式に勤務する事になる。勤務する以上頑張ろう。そして他から喜ばれる人になろう。又、この人間は絶対必要である。そう知ってもらう可く行動に心掛けた。勤務して間もなく生徒募集時、教頭先生の車を運転し各方面の中学校を訪問した事もあった。私にとって世間の様子を知る事も出来て誠にいい勉強になった。嵐山町に住んで恥しい話だが大妻女子高校のあった事さえ知らなかった位である。結局自分の仕事に追われ通しの毎日でいたと云うのが実情である。又、私の子供も四十六年(1971)有子高卒を最後に学校関係から遠ざかった事にもある。然るに定年の年再度就職。しかも近くで女子高校であり、私にとって誠に恵まれた条件であった。それ以来毎日の仕事も楽しく働く事が出来た。五十六年(1981)には老いての勉強で国家試験にも挑戦し、お蔭様でボイラー技師免許も取得する事も出来た。資格持っての作業は無い時の事を思うと、ほんとに良かった。そう感じさせられた年でもあった。これにはと云うと、ボイラーには年に一度性能検査がある。その折、資格無しでボイラー運転は良くないとこっ酷く怒られた。五十六年(1981)夏の経験があったのでそう感じさせられたと云う訳である。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 75頁〜77頁
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