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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

 再度、学校時代にもどって話を続ける事にする。家庭での厳格教育は読み、書き、そろばんだけでない。精神訓話もある。始まると長い。特に一パイ入った時など大いに困った。又仕事では自分で絹織りもしたほどの人、なんでもやらせる。前に縄ないの話も出たが、他にぞうり、わらじ、みの、俵あみ等なんでも出来ないと人間は役に立たないとの話である。私は勝ち気。要するに意地張りの所があり。だからお前は寅年生れ【大正3年(1914)は五黄(ごおう)の寅年。九星(きゅうせい)の五黄土星と干支(えと)の寅年が重なった年。】とで強情だとよく云われた。しかしやる事も人に敗けたくない。だから仕事の上でも実行したつもりである。例をあげれば俵あみの時普通では一日幾らも出来るものでない。しかし私は高等科一、二年生(現在の中学校一、二年生)の頃、人の数倍も俵をあんで鼻を高くし気分を良くした事、今も記憶にある。
 又夏は朝食前に草刈り、冬は山の落ち葉掃き等、力仕事も随分とさせられ、これ等の仕事は堆肥(たいひ)を作る準備作業と燃料の薪(まき)用などの仕事である。
 次に養蚕の話が前に出たが、此々で飼育時の様子を述べてみる事にする。私達の手伝いは蚕が大きくなってからだが、掃立て数日後には、蚕は大きくなり愈々忙しくなる。桑の摘み取りから、その桑を蚕に与える仕事。夜も必ず一回は起きて蚕に桑くれ。欲のない子供には誠にねむい作業で非常に苦痛を感じたものだったが、此の頃の陽気も良く、蚕を台に広げる関係で家の中は開け放しにされている。だからホタルは家の内まで飛んで来るようになる。そして私達の苦痛を忘れさせてもくれた。今思うと自然環境の美、只々懐しくも思い出されるのである。
 さて学校には夏休みもあるが。何処かへ出かけるなんて今と違ってとんでもない話。田の草取りなど重労働の毎日。だからお盆休みの楽しかった事、忘れられない思い出も記憶の一つである。
 忙しい夏が終ると次は秋の収穫期に入る。此の辺りは二毛作と云って稲を刈り取った後の田へ、麦を蒔く仕事があり、一時も息を抜く暇もないのである。
 冬の夜は長い。前に述べたが夜なべ仕事が始まる。此の頃の作業は今と違って原始的だったから如何に大変だったか。一例を述べれば、稲を刈るのも鎌、籾摺(もみす)りは「カラウス」と云って樫(かし)の木を薄くした板を歯とし、粘土で固めたものでする。カラウス職人が居て作ったもの。そして上から吊したサオ竹を廻転させ籾を米にするのだが実に重く数人の人でないと廻せない。今思うと昔の人はどうして進歩がなかったのだろうか。疑いたくも感じられる。機械が出来て居たならなあ? 私達子供時代は随分変った生い立ちではなかったろうか? こうした作業のくり返しで幾年かが過ぎ、愈々「高等小学校」二学年の卒業期が訪れたのである。兄貴達は卒業後、実業補修学校(青年学校)などへ、昼間の仕事済ませた夕刻、今の十八時頃から二時間位だったと思うが通ったのを覚えている。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 8頁〜9頁
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