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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第二部 少年時代

少年時代

関東大震災

 話は前後するが大正十二年(1923)九月一日、関東大震災時の様子を述べてみる事にする。前文で話したが私の家は二棟になって居り、母屋(おもや)の方には蚕が台に広げられて居り、別棟(以前絹織りした所)にいた。暑い日だったので戸、障子は全部はずされていた。昼食時でおかずは粕漬けのナス。おじいさん自慢の漬け物で特に美味しかった。折りも折り突然ゆれだしたので外に出ようと思ったが歩けない。やむを得ずひきいにしゃがんでしまった。ながーいゆれである。早く納まってくれないかと思いながら辺りを見た。家の前にある青田は波を打って居り、電線はなわ飛びで廻すなわのように、家の中に吊るされた絹糸のわくはぶらんこのように、屋根は瓦(かわら)で重く、ぐらりぐらり、今にも倒れんばかり。飛び出ようかどうしようかと子供心ながら考えた。とにかく家の倒れようによって行動しよう。今でも忘れない恐いながらの教訓であった。
 夜になって誰云うとなく何処か火事だ。私の家から見て東南に当る東松山、川越方面であった。真赤と云うより異様な雲のようにも見えた。そして翌朝初めて東京が火事だと知った。こうなると又大さわぎが起きた。近所から東京に行って居る家族の安否である。交通機関は熊谷まで行かないと汽車がない。大人がむすびとか色々の食糧を持って出かけた話を聞かされた事、今も記憶にある。
 これ等の火災は地震に依るものだが、こんな時誰云うとなく朝鮮人が火をつけたとか、井戸に毒物を入れるとか、地震後二、三日して此の辺りは又大さわぎとなる。なぜならば当時東上線敷設(ふせつ)工事で、嵐山町附近はその真最中。たまたまこれらの人夫として多くの朝鮮の人が働いていた。宿泊所は今の中島旅館の土蔵の中だったとか子供心に聞かされたのを覚えている。この騒ぎで朝鮮の人はみんな何処かへ連れ去られたとの事?…【在郷軍人分会・消防組により松山警察署に保護された】。こうした中で職人支度して歩こうものなら朝鮮人と間違えられ、中には袋たたきにされた人も居た。
 とにかく消防団、在郷軍人は制服姿で刀、竹槍など持って警戒に当たり正に戦々恐々としていた。子供心に恐いとも思ったが、又制服姿が勇ましくも見えた。軍国主義絶頂時、日本男子として心を引かれたのかも。いや奪われたのでもある。
 その後フィルム(「活動写真」と云った)で、東京の災害の様子も知った。今のように鮮明に写し出された訳で無いが、東京は焼けのが原と化し、多くの犠牲者が出たり、親兄弟別れ別れなど、こうした悲劇を目の当り知らされたのである。嵐山町でも古い土蔵が倒れたり道路にひび割れした所もあったと聞く。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 7頁〜8頁
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