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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第一部 幼年時代

子守り奉公に出される

 大正九年(1920)三月だったと思う。私は子守り奉公に出される事になった。入学一年前の事、今の滑川町に出された。後で知ったのだが人間は他人の飯を喰わないと立派な人にはなれない。要するに冨五郎さんの教育はこれが正に鉄則的な方針であったのかも知れない。子守りに出される時の条件等、あの時の言葉は今も忘れていない。小学校に入る時、カバン、靴、そして自転車まで買ってくれる約束だった。おばあさんに連れられて他人の家に行った。早速赤んぼを背に乗せられる。その時は「重たい、重たい」と云った。子守りを止めさせてくれるかと思った幼な心の、要するに「デモンストレーション」でもあったが、雇い入れる方では「じきに馴れますから」と云って相手にしてくれなかった。
 一方私を見送った母親はどの位心配して涙を流した事だったか。今は遠い昔のドラマに終っている。しかしNHKドラマ「おしん」を見て再度自分でも涙をいや出してしまった。
 やがて一年は彼のフィルムに映じられるがままの如く過ぎて、私にも春が訪れたのである。七郷尋常高等小学校一年入学。約束のカバンと靴。自転車は買って貰えなかった。でも登校の気分は奉公に出た時とは想像に余りあるものがあった。
 話は前後するが奉公中の一端を思い出し紹介してみる事にしよう。私の仕事は勿論子守りだが、たまたま中学校に通っている兄貴分が居た。日中は子守り。夕刻その兄貴分が帰ると赤んぼは彼に見させ、私は風呂焚き。薪で焚くので暫くすると炭火が出来る。そこで焼きいもなど始める。しかし幼い自分には焼け具合が解からなかったのか、生焼けを食べて遂に胃痙攣(いけいれん)の病になってしまった。一時我が家にもどされた。当時鍼(はり)の治療が良いと云うので松山まで通った。交通機関は自動車。菅谷の中島旅館前〜松山に初めて乗る自動車である。治療は辛かったが車に乗るのは楽しみであった。病のお蔭で大正時代、車に乗る事が出来たと云う訳である。幾日位か記憶にないが良くなって再度子守りにもどった。でも、あばれ盛りの私も、幼な心に、時折トイレの中や夜の蒲団の中で涙のこぼれた事も幾度か。夢中に過した一年でもあった。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 2頁〜3頁
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