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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

権田本市『吾が「人生の想い出」』

第一部 幼年時代

幼年時代

 埼玉県比企郡七郷村(ななさとむら)(現・嵐山町)大字広野千百十二番地、父権田久右衛門、母ハナの三男として大正三年(1914)生れる。妹二人。一人は亡く覚えていない。とにかく四人兄妹で育つ。不幸にして父親は私が六才の時他界他界。現在と違ってあまえる一時もなかった。「貧しさ故」、そう思ったが、今でも親の事は何に一つとして記憶に残っている事はない。私達兄妹は、長男が私より四つ上、其の下が三つ上、妹は五つ下(一才、六才、九才、十才)。どう見ても女親一人で生活出来るはずがない。実は父親の兄さん分に子供が無く私の父親が継いだ訳であるが、他界したため、兄さん分冨五郎おじいさんと、おたみおばあさんに育てられる事になる。母親も兄さん分と共に働く。当時一応農家であったが田んぼ六反余、畑が五反位、山林は僅か七、八畝。だから他の仕事にもたよらねばならなかった。他界した父は篭屋職人で他人の家など出張しては仕事をしたとか。家に居ない方が多かったようである。私達子供の頃は「かごやんち」と呼ばれた事も覚えている。
 そして私達を見てくれるおじいさんに依って、愈々私達の日々の生活が始まったのである。先ずおじいさんの性格から紹介する。几帳面で総てに厳しい人だが、反面昔の人とは思えぬほど何事にも先端を行く所があったと思う。後に出る話だが自転車にも乗った。その頃父は篭屋職人だったがおじいさんは子供も無く、おばあさん相手に別棟で絹織り業をしていた。そして数人の機(はた)を織る娘さんも雇い入れてである。今で言う企業のようでかなり巾広くやっていたのを子供ながら覚えている。
 原料は蚕の繭(まゆ)である。農家の養蚕期に繭(まゆ)を買い、それを乾燥して格納して置く。家には乾燥機があったのも覚えている。練炭など使ったように思う。
 大正の初期、外交には早くも自転車を利用した。近所でも自転車は珍しかった位。八吋(インチ)と云って随分高く、我々子供ではとても乗れない。大きくなってからはちゃんと乗ったが、脇から足を入れて、要するに三角乗りした当時が懐しくも思い出される。
 では、私達が学校終る迄の様子を思い出してみる事にする。六才だった私の生い立ちは兄妹四人で始まったのである。先ず母は妹一才を見ながら織り物の手伝いと農作業だったと今想像する次第である。とにかくあばれ盛りの男三人だが、今と違って幼稚園がある訳でも無く、仮にあったとしても幼稚園に出して貰える状態ではなかったと思う。後で色々述べるが総ての事に対して厳格此の上なしのおじいさん。近所は勿論、近郷近在の人迄知らない者は居らなかった程とか。絹織り業で外交した事もあったからであろう。

権田本市『吾が「人生の思い出」』 1989年(平成1)8月発行 1頁〜2頁
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