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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第2節:回顧録・作文

子供の頃の思い出

 冨岡寅吉です。大蔵に住んでいます。大正十五年(1926)九月十八日生まれです。皆さんは昭和六十一年(1986)、六十二年(1987)生まれですね。私は今年七十三歳になりました。年齢でいうと、私は皆さんより丁度六十歳年上というわけです。皆さんの生まれた年は干支でいうと『寅』と『卯』ですね。干支というのは、「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」と十二年で一回りします。十二年×五は六十年ですね。ですから、私も皆さんと同じ寅年の生まれです。『寅吉』という私の名前は、寅年の生まれだということで、お祖父さんが付けてくれました。皆さんのお祖父さんやおばあさんの名前はどんな名前ですか。昔は生まれた年の干支にちなんだ名前が多かったようです。
 小学校に入る前の想い出です。子どもはよくいたずらをします。皆さんもいたずらをして叱られたことがあると思います。昔はいたずらをすると、叱られて蔵や物置に入れられました。私も四、五歳の頃いたずらをして物置にいれられました。何をして入れられたのかは覚えていませんが、物置に入れられて、物置にあった大豆と小豆を混ぜたので、家の人が元に戻すのに大変困ったそうです。それからは、いたずらをしても物置には入れられなくなりました。
 小学校二年生の時に風邪を引いて学校を休むと言ったら、休んではいけないと言われて、家で飼っていた馬に乗せられて、お祖父さんに学校まで送ってもらったことがありました。昔は農家では馬を飼っている家が多かったのだけれども、この時には、友達に珍しがられて皆に見られました。それで、お祖父さんに風邪を引いても休むなと言われたせいか、六年間無欠席でした。
 昔の小学校は、菅谷村立第一尋常高等小学校と言って、菅谷の岡松屋の前にありました。菅谷の通りに岡松屋というお菓子屋さんがあるのを知っている人もいるでしょう。道を隔ててその前にあったのです。今年そこに、昔ここに小学校がありましたという石碑が建てられました。この小学校が今の菅谷小学校の前身です。鎌形小学校は第二小学校と言っていました。昭和十年(1935)十二月二日の深夜(正確には十二月三日になってからですが)、菅谷で大火がありました。この大火で小学校の校舎はほとんど焼けてしまいました。三年生の二学期のことです。教室が焼けてしまったのですから、大変です。それで新校舎ができるまで、近くの人にお願いして民家を借りて仮の教室にして勉強していました。新しい校舎は今の菅谷小学校の場所に建てられて、六年生の二学期に入りました。
 六年生の三学期には伊勢参りに出かけました。今で言えば修学旅行です。三重県の伊勢神宮に参拝に出かけたのです。私はこの時、初めて電車に乗ったのです。東海道本線ではありません。東上線に生まれて初めて乗ったのです。知っている人もいると思うけれども、東上線は大正十三年(1924)に開通しました。その時の駅名は菅谷駅といって、昭和十年(1935)十月に武蔵嵐山駅と改名されたのです。この時初めて電車に乗ったという人は、私だけではなくて、同級生にも多かったのです。東海道線の車中で海を見たのも初めてでした。乗り合わせたおじさんが手品を見せてくれたり、なぞなぞを出して楽しませてくれました。今でも覚えているものに「畠のタヌキは何色?」と「人間の体の名前で一文字で言えるものを七つ?」というのがありました「畠のタヌキは何色?」は「畠」の字を書いてみれば判ります。「畠」は「畑」ではありません。「畠」の字から「田」を取ると「白」ですね。「人間の体の名前で一文字で言えるものを七つ?」は、上から「毛」、「目」、「歯」、「手」、「胃」、「血」とこの六つは判るのですが、あと一つは何でしょうか。判りますか。「背」がなかなか出ないのです。「背中」、「背中」と言っていますから。
 皆さんは中学校を卒業したらどうしますか。ほとんどの人が高校に進むでしょう。高校を出たらさらに大学にも行こうと考えている人もいるでしょう。皆さんは小学校の六年間と中学校の三年間が義務教育ですが、私達の頃は尋常小学校と言って小学校の六年間だけが義務教育でした。私達の学年は九十人が小学校を卒業して、九人が学校をそこでよしました。学校をよして、「奉公」、つとめに出て、家計を助けたのです。中学校や女学校に進学出来た者は少なくて松山中学、小川高等女学校に一人ずつです。現在の松山高校と、小川高校の前身ですね。残りの七十九人は二年間の高等科に進みました。菅谷尋常高等小学校の高等科です。高等科に入ると「授業料」のようなものを払はなければならなかったのですが、県立の中学や女学校に進学するとその十倍以上の授業料、月謝を払わなければならなかった。だから、子どもが進学したいと思っても、親の理解や家計にゆとりがなければ進学できなかったのです。
 これから戦争の話をします。戦争は「支那事変」が昭和十二年(1937)七月七日に始まりました。小学校四年生の時です。皆さんの教科書では「1937年日中戦争始まる」と書いてあります。太平洋戦争は昭和十六年(1941)十二月八日に始まりますが、当時は大東亜戦争と言っていました。私は小学校六年の一月、昭和十四年(1939)の正月から日記を付けています。今も付けていますから、今年で六十年間日記を書いた事になります。そのころの日記を見てみると、学校では「防空演習」を度々やっています。昭和十六年(1941)の三月二十六日に、高等科の卒業遠足で、大宮の氷川様、氷川神社に出かけました。前の年(1940)の七月に県民大会で「国民体操」の演技をするので大宮に行ったのですが、その時、直径三十センチ位の煎餅を売っていたので、今度はそれを土産にしようと思っていたらもう売っていませんでした。歴史の勉強で「配給制度」とか「統制」、「物不足」という言葉を習ったかと思いますが、そういった事で、売らなくなったのかもしれません。
 高等科を卒業してから昭和二十年(1945)七月に兵隊に行くまでは、農業や、川の工事、そして籠屋をお祖父さんから習うことをしていました。自分の家の農家の仕事を手伝いながら、工事に出てお金を稼ぎ、籠つくりの職人になる修業をしていたのです。当時、青年学校というのがあって、軍隊に入ってすぐに役に立つように、立派な兵隊になるための訓練と教育を受けました。銃の使い方や銃剣で人を突く技なども習っていました。わら人形を銃剣で刺すのです。こういう訓練を受けて、昭和二十年(1945)一月に徴兵検査を受けました。高等科をでてすぐに軍隊に志願した人もいましたが、戦争は昭和二十年(1945)八月十五日に日本の敗戦で終わっていますから、大正十五年生まれの私達が最後の徴兵検査を受けた兵隊です。私は七月に兵隊となって、千葉県で終戦を迎えました。
 今、振り返って見ると、私達の学年が最後になったものが多いのです。大正という年号は十五年で終わりました。尋常高等小学校の最後の卒業生で、私達の卒業後、昭和十六年四月から、小学校は国民学校になりました。徴兵検査で兵隊に取られたのも私達が最後です。太平洋戦争が終わって五十四年、戦争で兵隊になるのもこのまま私達が最後であってほしいと願っています。

1999年(平成11)12月8日、菅谷中学校1年B組配布資料
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