第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
1930年(昭和5)1月1日、広野の永嶋義次さんの博文館当用日記には、次のように書かれている。
一月一日(水曜日) 晴
「博文館当用日記」永嶋義次
一年の計は元旦にあり。十一年前出征中、多忙中■日記を休けたり。久し振りにて日記記入をはじむ。向後幾久しく日記記入を思ひ立つ。心と努力。一日の計にあり。栗原氏の村費負担に付きての話。学校増築費一万三百円との事。尚水管三十間寄付申出。恒例に依る鎮守社頭の字内一同の手打の儀は午前七時に行なはれ引続き昨年度農事組合黒i評会の賞品授与式。昨年は米五等、小麦一等、菜二等。概して好成績なるも、米の五等は残念なり。農家主要物産として本年こそ昨年の不成績の回復を元旦の計として行なはん事を思ふ(賞品瀬戸引鍋)。
午后は宮田金作君の送別会(出組)。杉田佐軍次様方宿。永島慶重君不参。可成盛大なり。費用三段別の事。上二十二銭、中十五銭、下十銭。外に四十一銭掛り。午后十時帰宅。来る七日午前九時より分会の送迎会。会費三十銭。二名出席の事を約す。
文中の「栗原氏」はおそらく栗原侃一さん(当時七郷村会議員・助役。この年の10月に村長に就任)。学校増築費とは、3月に落成する七郷尋常高等小学校の二階建新校舎の事。
「送別会」の宮田金作さんは1909年(明治42)生まれ。宮田長吉・きちさんの第六子で三男。1月7日、在郷軍人分会主催の送別会が開かれ、8日夕方、鎮守の八宮神社で健康祈願祭、10日午前8時20分発の電車で立川に発ち、飛行聯隊に入隊した。