第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
生活
嵐山町広野出身の宮田金作さん(1909年生まれ)の自分史『軌跡』(1995年刊)から、大正時代の正月の行事を回想している部分を紹介する(同書8頁〜10頁)。嵐山町広野に初めて電燈が灯ったのは多分1928年か29年(昭和3、4)12月の下旬。
正月に天井から吊るす神棚は「年神棚」(としがみだな)。小正月のモノツクリで宮田さんがオッカドと言っているのは、ウルシ科のヌルデではなく、ハナ木とよばれるスイカズラ科のニワトコ。
正月は風にのって来る
三、四歳頃の私は、ラジオも電燈もなかったから、家族揃って除夜の鐘を聞くこともなく、今のように、元旦に賑やかなお詣りに行くこともなかった。二日の朝、雑煮を食べ終わった頃、したの家の角を曲がって、「広正寺のご年始、広正寺のご年始」と露払いの声が風に乗ってくる。間をおいて和尚さんが綺麗な法衣を着て、右手に扇をもっていた。父が式台のある縁側で座って待っていると、年始の挨拶を述べ、広正寺名入りの手拭を差出していった。近所に私とおない年の「はるちゃん」がいてその兄さんが、広正寺年始廻りの露払いだった。鎌倉時代の旅装か江戸時代の飛脚のような出立ちで、金ぴかの鷹の羽の紋章のついた挟筥(はさみばこ)を担いできた。挟筥には手拭が一杯詰まっていた。その頃の私は、お正月は、和尚さんが風に乗せて連れてきてくれるものだと思っていた。
思いでに残る正月行事
官衛・学校の行事は当時から太陽暦によっていたが、農家の年中行事は総て旧暦に従っていた。旧暦は太陽暦に比べ一ヶ月程遅れていた。
正月行事は、元旦前後の大正月と、十五日前後の小正月に分かれ、大正月は公的儀式や挨拶行事が目立ち、十五日前後の「小正月」は農耕と結びついた儀礼が集中していた。大正月の年男
暮れの三十日大掃除が終ると、表廊下に面した八疊の二間に疊を敷き、あがりはなを隔てた土間に近いほうの八疊間の中央天井に神棚を吊した。神棚は新しく伐採した木の香の匂う小楢(コナラ)を八十cm位に切断したものを小割にする。普通の薪より細く割られたこの楢材を正方形に並べて、切り口に近いところに同材の副木を当てる。
その年に収穫した新しい藁の縄で、副木に小割の棚材をしっかりと締めつけて、四ツ角から吊り下げ縄は角錐状に固定される。この棚を作る仕事と、それを吊り下げて、既設の神棚から神様を遷座することは、当主である父の仕事だった。年男はわが家では、数え十五才になった男の子が勤めることに決っていた。この年男は次の男の子が十五才になるまで同じ男が毎年年男を勧める。その男の子がいなくなると、当主がこれに代る定であった。
年男の仕事は元旦の早暁から始まる。家族の誰よりも早く起きて顔を洗い身を清める。新しい神棚に燈明をあげて、三ヶ日は毎日年男一人で雑煮を作って供へる。四日の朝から七草粥までは家族の整えた朝食を供へる。
年男の行事は七日で終るのであるが、私は一年勤めただけだった。早朝の寒さをこらえながら、慣れない雑煮作りに閉口したことを、今でも時折り思出し郷愁に誘われることがある。小正月のモノツクリ
小正月は、農作物の豊作を祈って行う、予め祝う儀礼で、色々の作り物や所作で豊作の様子を模擬的に表現するのである。ツクリモノには十二繭玉・十六繭玉・削り花などその種類は沢山あるが、私の父の作る自慢の作り花は、近所のどの家のものより大きくそれは綺麗だった。畑の畔や境界に植えてあるオツカドは多年生で、楮(コウゾ)と同じように毎年刈り取るが、楮は年内であるのに、オツカドの刈り取りは小正月の十四日である。
自分史『軌跡』宮田金作, 1995年
オツカドは根もとで三、四cm真直に二メートル位に伸びている。夏の間、葉のついていたところが節になっていて、先に行く程節の間隔が短くなっている。父は刈り取ってきたオツカドを、作品の、三階バナ・十二バナ・
十六バナと種類毎に選び分ける。削る花は、ひと節に一個で、表皮をまず剥ぎ先の方から花弁が細長く縮れるように削る。左手許で、右手のハナカキ道具の動作と交互に廻して、花をふっくらと丸く仕上げる。ハナカキは、鎌の形で先に曲がりがあって頑丈な柄のついた鍛造刃物で、この曲がり部分を手際よく利用するのである。三階バナでは花の茎が二十cm以上にもなる見事なものもあった。三階バナを台所の煤ぼけた大黒様に飾ると黒光りのしている天井や鴨居などとコントラストがよく、一段と美しく見えるのであった。
十二バナは歳神様に、十六バナは蚕の神様へ供へ、アボ・ヘボは蔵や堆肥場に立てた。アボは削り花のついたもの、ヘボはこれのないものを云う。アボとは粟穂のこと、ヘボとは稗穂のことである。門松は一般に、七草粥までが松のうちのようだったが、その頃のわがふる里では、小正月に取り払いその後穴に、十六バナを二本並べて立てておくのであった。
当時からオツカドを植えてない家と、無器用でアボ・ヘボを飾らない家もあった。そんな風にツクリバナは、根気と技術を必要とする仕事だった。父は器用な上、律儀な人だったから、昭和五年(1930)に六十三才で亡くなるまで、正月のツクリバナの伝統を守り続けた。まさに骨董のような人であった。