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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

立身出世のモデルとなった紺屋軍次郎

 「徳義(とくぎ)(社会生活上、互いに守るべき義務)ヲ涵養(かんよう)シ知識ヲ研磨シ身材ヲ発育シ、以テ人類ノ完全ヲ謀(はか)ル者ハ唯(ただ)教育ヲ然(しか)リトナス」として1883年(明治16)に結成された埼玉私立教育会が発行した雑誌に『埼玉教育雑誌』がある。

 その第7号(明治17年4月発行)に「紺屋(こんや)軍次郎の話」が掲載されている。軍次郎は1815年(文化12)古里(ふるさと)村に生まれた。生まれつき剛毅(ごうき)で常に独り立ちの志があり、十七歳の時に家を出て、所々の紺屋(こうや)(染め物屋)で修業すること五、六年。家に帰り身内の助けを借りて紺屋を始めたがうまくいかず、再び家を出て諸国を巡り難行苦行の末、本庄に家を構え魚屋を始めたが子供は飢えて膝に泣き、妻は疲れて床に臥(ふ)すというようなありさま。

 幸い人の助けがあって紺屋を開業したが、1846年(弘化3)の大火で家財残らず焼けてしまい丸裸となってしまった。しかし、「我、歳すでに三十に余れり。而(しか)して、その過ぐるところ、おおむね他人に使われたり。今にして立つ能(あた)わずば、また生涯息(やす)む時なかるべし」と初心貫徹。身内から再度金を借り紺屋を再開するが、二、三年は却(かえ)って借金を作ってしまう始末。それでも屈せず昼夜働いて、しだいに利益も大きくなり商売繁昌。家産は数十万、八人の使用人を使い、家族にも恵まれ、「今の身代に至りたるは、ただ正直を守りて働きたるのみなり」と語っているというサクセス・ストーリーである。軍次郎は時流に乗った商売を始めて大当たりした訳ではないし、たまたまチャンスに恵まれて富を築いたという訳でもない。「独立」の初志を忘れず逆境に立ち向かい、運命を切り開いて成功したのである。

 この話は、教師が子どもたちを説諭する修身口授(ギョウギノサトシ)の時間の教材として、全文ひらがなで書かれている。そのテーマは、「勉強忍耐の人能(よ)く身を起す」である。近代日本が幕を開け、学校教育が始まって十年ほどのこの時期には、「勉強」は学習という意味で使われることはまだ少なく、ここで使用されているように、努力して困難に立ち向かうこと、熱心に物事を行うこと、励むこと、勤勉という意味を指すことが多かった。

 当時、嵐山町域には、吉田学校、杉山学校、菅谷学校、鎌形学校、大蔵学校があった。江戸から明治へ、大きな社会変革の時代の子どもたちは、努力、勤勉により初志を貫(つらぬ)いて成功した紺屋軍次郎を、「立身出世(りっしんしゅっせ)」の夢を叶(かな)えたモデルとして学んだのである。

 因(ちな)みに、この話の主人公紺屋軍次郎の実家は、今も紺屋の屋号を持つ古里の中村常男家であり、作者は、杉山村出身で当時、児玉郡立中学の教員をしていた杉山文悟である。

博物誌だより110(『広報嵐山』148号 2003(平成15)9月1日)から作成

※『埼玉教育雑誌』の原文は、「こんやぐんじろおのはなし[杉山文悟]」に掲載。

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