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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

人物・家

多田家に保存されている医学書

太平聖恵方

太平聖恵方|写真
『太平聖恵方』(多田家所蔵)
 志賀の多田家に保存されている医学書の最も代表的なものは、『太平聖恵方』(たいへいせいけいほう)である。
 この医学書は、中国の宋時代(960年〜1279年)の初期992年に、宋の皇帝の命令で編纂された医学書である。本文は100巻で、目録が1巻、合計101巻の大著である。内容的には中国の後漢時代、西暦200年頃に活躍した医師張仲景(張機)が編纂したといわれる『傷寒論』を受け継ぐもので、これに宋政府の所蔵する医学書も利用して編纂したものと言われている。張仲景の『傷寒論』は中国医学の基本となったと言われるもので、後世に大きな影響を与えた書である。したがって『太平聖恵方』は、中国医学を集大成したものである。朝鮮にも伝わり高麗時代(918年―1392年)の朝鮮医学の中心になった。日本へは鎌倉時代に伝えられたと考えられている。なお『太平聖恵方』の完本は中国では失われ、明治になって日本から写本が逆に中国に伝えられたと言われている。
 多田家に所蔵されているのは、『太平聖恵方』(全100巻、別冊総目次1巻)のうち、9、73、74、83巻が欠落しているが、それ以外の97冊が現存している。
 これだけの医学書がなぜ多田家にあるのだろうか。江戸時代の多田家についての詳細は、「領主岡部家と陣屋の多田家」にゆずるが、ここでは簡単に述べる。多田家は江戸時代に陣屋として、江戸に住む旗本岡部家の領地支配を担当していたが、宝暦年間に領主が岡部氏から松平氏にかわり、多田家三代目の多田一角英貞(いっかくひでさだ)は領主を失い、やむなく江戸に出て御典医(ごてんい)の久志本左京常一の門に入り、ここで修行して医者の道に進んだ。
 多田家所蔵の『太平聖恵方』第100巻目、つまり最後の巻の最終頁に、次のように記されている。

元本典薬頭(げんぽんてんやくのかみ)*1久志本家秘蔵(くしもとけひぞう)
日東安永(あんえい)七戊戌(つちのえいぬ)年皐月(さつき)*2
武州比企郡菅谷散人多田一角氏源英貞謹写(きんしゃ)

*1:幕府で医薬に携わった者の長官
*2:陰暦五月の異称

 これによると、久志本家秘蔵の『太平聖恵方』を、門弟となった多田一角英貞が安永七年(1778)に筆写(ひっしゃ)したことが分かる。漢文で書かれた『太平聖恵方』の全巻を筆写することは大変なことであったと思われる。そこには医学の道にかける多田一角英貞の熱い思いがうかがえる。欠落している第9巻は、総目次の8巻から14巻までの傷寒論関係の2巻目、73巻74巻は69巻から81巻までの婦人関係の巻の中の2巻、83巻は82巻から93巻までの小児関係の2巻目の巻である。一連の内容のものをそこだけ筆写しなかったとは思われない。長年の間に失われたのではなかろうか。
 なお筆写の完成した安永7年の前年に、岡部家8代目の徳五郎が死亡している。徳五郎は家の廃絶によって遠山村の遠山寺に入門していたが、そこで死亡した。遠山寺にある徳五郎の供養塔には「願主 多田姓」と刻まれている。供養塔の建てられたのは安永6年である。そのときの多田家は、医師になっていた多田一角英貞とその養子元佐貞休の時代であった。願主の多田姓の人物は、徳五郎を知っている英貞であったと思われる。その翌年に多田一角は『太平聖恵方』の筆写を完了したことになる。

その他の医学書

医方聚要(いほうじゅよう) 巻一  著者 奈須玄竹(なすげんちく)
 奈須玄竹は、医者として徳川家康に使えた奈須重貞の子で、当時の名医の一人。病気の症状とそれに対する薬物の与え方が記されている。全12巻のうち第1巻を所蔵。 
新医貫奇方(しんいかんきほう) 刻医無りょ子 医貫卷之三  刻医無りょ子 医貫卷之四 著者 趙献可
 生没年不明であるが、中国の康熙帝(こうきてい)時代、17世紀後半の医学書。
張機方証義 巻二 吉田一幽謹撰 医学書
痘科鍵(とうかけん) 朱慎人先生纂(さん) 東都書肆(とうとしょし) 生日堂繍梓(しゅうし) 安永6年須原屋他板。
新刻幼科諸方總録 巻之下 五条橋通高倉西江入町 書林 川勝五郎右衛門。
表紙欠落【傷寒尚論編次原文】 序 仲景傷寒書。
聖済總録|写真
『聖済總録』(多田家所蔵)
聖済總録 中国の北宋時代に宋太医院編纂の医学書。日本には江戸時代になってから伝えられた。日本での発行は、幕府の官医養成の医学校である医学館が行なった。多田家には、聖済總録二之上(運気)二之中(運気)二之下(運気) 聖済總録五(諸風門) 聖済總録六(諸風門)聖済總録49、50(肺臓門)聖済總録77、78、79(泄痢門、水病門)聖済總録122,23,124,125(咽喉門、ヨウ瘤)の8冊が所蔵されている。
表紙が読めなくなっている医学書
 江戸日本橋南二町目  戸倉屋喜兵衛繍梓(しゅうし)【天然痘の治療書を出していた】。
 表紙欠落(序 仲景傷寒書 傷寒尚論編次原文)

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