第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし
人物・家
志賀の多田家に伝わる多田家由来記によると、多田家の先祖多田七左衛門は武州羽生領の須影村(すかげむら)で生まれ、1679年(延宝7)に比企郡菅谷村に移り住み、江戸にいる旗本岡部藤十郎から菅谷の領地支配を命じられたという。七左衛門が菅谷村に移り住んだのは、没年から逆算すると47歳の頃と思われる。他方岡部藤十郎は初代岡部主水(もんど)から数えて五代目の岡部家の当主である。
岡部家の先祖は岡部主水元清(もんどもときよ)で、母は秀忠(ひでただ)【後の二代将軍】の乳母(うば)を勤め、家康の信頼厚く大姥(おおうば)といわれていた。息子の主水は旗本として幕府から二千石を与えられた。二代目岡部玄蕃元満(げんばんもとみつ)は小姓組(こしょうくみ)【将軍の身近に仕え、旗本の出世コーストされた】になった。三代目岡部外記元直(げきもとなお)は家光のときに小姓組で仕えた。四代目岡部久太郎元周は四代将軍家綱(いえつな)のときに御書院番(ごしょいんばん)【御小姓組と並んで旗本の出世コース】に組み込まれた。その息子が五代目岡部藤十郎である。1702年【元禄15】、藤十郎は父の岡部久太郎の病死で家を継ぎ、江戸で小普請溝口摂津守(みぞぐちせっつのかみ)組入りを命じられ、1704年【宝永元】には御小姓組【北条右近太夫組】に移っている。
多田家はこの岡部藤十郎の領地支配を菅谷村にいて命じられたのであるが、それが何年のことであるか今のところはっきりしていない。多田家初代の七左衛門には実子がなかったため、羽生領秀安村(ひでやすむら)【多田家の元居住した須影村の隣村】陣屋の平馬重勝(へいましげかつ)を養子に迎えていたので、七左衛門の死で多田平馬重勝が後を継ぎ二代目になった。そして1715年【正徳五】に元貞から多田平馬に対して「拾石ニ五人扶持向後遣之者也」という文書が与えられている。このときの岡部家の当主は岡部藤十郎元親であるが、元貞の名前の後には元親の場合と同じ[慥]の字の角判が捺されている同一人物であろうか。
十石に五人扶持というのは、一年に米十石(米25俵)と五人分の扶持(ふち)(家族や家来を養うための手当)を支給するということである。多田家は岡部家からこのような支給を受けて、陣屋(じんや)として岡部家の領地支配を担当したのである。やがて岡部氏は長慶寺を廃寺にして、その跡地【菅谷の自治会館の前】を多田平馬重勝に与えた。重勝はそこを多田家の墓地として、大姥の徳を尊敬してお堂を建てて千手観音(せんじゅかんのん)を祀り、多田堂と名づけた。重勝は後年岡部藤十郎から志賀の屋敷地を隠居屋敷として与えられた。重勝が亡くなると息子の多田一角英貞(いっかくひでさだ)が多田家三代目となり、陣屋としての役割を受け継いだ。
ところがやがて宝暦(ほうれき)年間に岡部氏にかわって松平氏が領地を支配するようになった。岡部氏の知行地がなくなったため英貞はやむなく江戸に出て、御典医(ごてんい)の久志本(くしもと)左京(さきょう)常一の門に入った。久志本は将軍家の医師を勤め二千石の知行地を持つ有力な医師であった。英貞はそのもとで医師の道を歩み、多田家初代の医師となった。菅渓(かんけい)先生と自称したという。しかし英貞の息子弥十郎は江戸へ出て、武士の道へ進んだ。そのため英貞は内田與兵衛(よへえ)の息子元佐貞休を養子に迎えて英貞の医師門人として、多田家二代目の医師に育てて跡継(あとつ)ぎにした。貞休は多田家4代目になる。元佐貞休の息子多田元淳は、多田家5代目であるが、江戸の医師高橋芸亭に師事して多田家医師三代目として良医になり、貞休、元淳の時代に多田家は隆盛を極めたが、元淳は23歳で死亡した。やむなく北足立郡榎戸村の医師横田半十郎の三男龍庵(りゅうあん)を養子(ようし)に迎え,彼は多田家四代目の医師【眼科】になった。その長男元三も医師となり、後を継いだ。多田家7代目、多田家の医師としては五代目である。彼を最後に多田家は農業を営むようになった。時代はもう幕末になっていた。
多田家は最初の三代目までは陣屋として、江戸にいる岡部家の領地支配を担当したが、三代目の多田一角英貞の時代に岡部氏の領地支配が終わりになったため、英貞は生計の道を求めて江戸に出て医学を学び、医者となった。以後、若くして亡くなった者を含めて英貞から五代医者が続いたのである。この多田家には、中国伝来の医学書『太平聖恵方』や幕府の官医養成の医学校である医学館発行の医学書などが多数保存されている。多田家の医学書については別の項で紹介する。
他方岡部家は五代目藤十郎の時代に多田家に陣屋として領地支配を命じたが、岡部家八代目の徳五郎が安永6年(1777)に問題を起こして岡部家は廃絶(はいぜつ)になり、徳五郎は遠山村の遠山寺に入門し、27歳で死亡した。徳五郎の墓は遠山寺にあるが、墓の願主は多田姓となっている。おそらく没落した岡部家の最後を多田家が弔ったものと思われる。なお岡部家の廃絶は、多田家三代目の多田一角英貞が医者になってからのことであった。