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第6巻【近世・近代・現代編】- 第6章:くらし

第1節:ひと・生活

釣り・鮎漁

嵐山の珍客 日本一の釣りの名人とのんきな父さん

去る六月二十八日日本一の釣りの名人であり大酒飲みで有名な佐藤垢石*1老人と漫画「のんきな父さん」や「只野凡兒」で昭和十二、三年頃(1937、1938頃)全日本の漫画界を風靡(ふうび)した漫画家麻生豊*2氏とがひよつこり嵐山の槻川を訪れた。この日釣りには絶好の日和で十一時頃から槻川で釣り始めたが、獲物は殆どなく、天下の名人をして、「わが腕に自信はあれど魚の存せざるを如何せん」と嘆かしめた。夕刻から本村観光協会と東武との共同主催による懇談会が松月楼で行はれ、本村側から、村長、議長、内田、山岸、細谷の各理事、小林、関根両報道委員、東武から今井旅客課長、朝日旅客課員、嵐山駅長等が出席した。佐藤老人は七十七才とは思はれないほどカクシヤクたる風貌で、白髪をオールバツクになびかせ、酒やけの赫ら顔(あからがお)をほころばせながら運ばれた料理を食べ酒を飲む。「これクロチクの竹の子だよ。うんと高いんだよ。こりやあぜいたくな竹の子だよ。」と麻生氏が佐藤老人の耳元で話す。「うまい」と老人は一言。「うん、うまいよう」と麻生氏は竹の子にしきりに感心する。佐藤老人は既に胃の腑に八十石もの酒が通過してゐるだけあつて、酒についてはうまいとは云はなかつた。なにしろ五才の時から酒を飲み始め、以來飲むこと七十年、以て天下に名をなしたのだからたいしたもの。然しおかげで相当貧乏な生活もしたようである。
「嵐山の感想は?」「いいところですね」
「魚のとれなかつた理由は」「水の少いのが致命的である」
「垢石とはどういう意味か」「あゆのくうあかの石のことである」
老人は語ることまことに少いが麻生氏は大いに故郷の貧乏物語をして座を賑はした歓談は盡(つ)くることなく嵐山の渓流と和した。雨が止んだのをしをに引きあげた。

『菅谷村報道』15号 1951年(昭和26)8月10日

*1:佐藤垢石(さとうこうせき)…1888年(明治21)6月18日-1956年(昭和31)7月4日。釣りジャーナリスト、本名は佐藤亀吉(さとうかめきち)。
*2:麻生豊(あそう ゆたか)…1898年(明治31年)8月9日-1961年(昭和36年)9月12日)。漫画家、本名は同表記だが「あそうみのる」と読む。

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