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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第2節:福祉・社会活動

埼玉育児院

埼玉育児院設立の経過

 大蔵の安養寺境内(あんようじけいだい)に、「埼玉育児院発祥之地」の碑が建っています。その碑文には「小夜(さよ)更(ふ)けて しばし捨て児(ご)の 泣きやむは 母が添い乳(ち)の 夢や見るらむ」という小島乗眞(こじまじょうしん)の歌が刻まれています。

 埼玉育児院は、孤児や貧しい子ども達を救済するために、安養寺住職小島乗眞(1878-1931)が設立した埼玉県内初の社会事業施設です。創立されたのは1912年(大正元)10月、乗眞は三十四歳でした。安養寺に施設があったのは1917年(1918年とする記述もある)までの五年間でした。設立当時は積徳(せきとく)育児院という名称でしたが、1914年(大正3)には埼玉育児院と改称し、1917年には松山町(現・東松山市)箭弓(やきゅう)神社参道脇へ移転しました。

 この積徳育児院の設立に関する資料として、「明治天皇聖徳記念事業積徳婦人会趣意書」「明治天皇聖徳記念事業積徳婦人会附属積徳育児院設立趣意書」があります。「明治天皇聖徳記念事業積徳婦人会趣意書」中にある「積徳婦人会要則」をみると、「孤児貧童及不良少年を救済教養し独立自活の民(たみ)足らしむ」とあり、婦人会の事業として、育児院の設立・経営を行おうとしていたことが伺えます。また「明治天皇聖徳記念事業積徳婦人会附属積徳育児院設立趣意書」では、積徳婦人会の付属施設として育児院が位置づけられています。

 同資料中の「維持法」の規程には、育児院は「(前略)積徳婦人会会費の一部(中略)を以て永遠維持拡張す」とあり、また育児院の「救済員」と「翼賛員(よくさんいん)」として積徳婦人会地方員と会員とを充(あ)てています。こうしたことから、積徳婦人会が育児院の母体であり、運営は、積徳婦人会の事業活動の一つであったことがわかります。

 しかし残念ながら、育児院を支えたはずの積徳婦人会の活動や推移が伺える資料は不明です。

 1914年(大正3)3月当時、積徳育児院では、院父の小島乗眞、妻で院母の小島多つ(たつ)と乳母二名、保母二名とが、十五人の院児の養育にあたっていました。院児の年齢は、0歳〜1歳八人、2歳二人、3歳一人、5歳一人、7歳二人、8歳一人でした。

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