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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第2節:福祉・社会活動

青年団

菅谷青年団団歌決定

団歌募集と文化祭

菅谷青年団ではこの程「菅谷青年団の歌」を作ることになり、広く一般村民から歌詞を募集することになつた。応募の規定は次の通り。
▽菅谷青年団歌として相応(ふさわ)しいもの、入選者には薄謝を呈す
▽形式自由、行数任意、三節以内
▽応募点数制限なし
▽締切は十一月三十日
▽宛先は各字支部長
又、恒例の文化祭は農休みに実施の予定、行事として農産物品評会、和歌、俳句、書、会画、工芸品、写真、手芸品、活花(いけばな)、等の展覧バザー、映画鑑賞等である。

『菅谷村報道』84号 1957年(昭和32)10月31日

菅谷青年団歌

根岸進氏入選 作曲は森川愛子女史

 既報、菅谷青年団では、団歌を村民一般から募集、応募作品数篇中より、三種を選び更に安岡正篤氏校閲の結果、大字根岸の根岸進氏(四〇)の原作を団歌に決定した。その歌詞は次の通り。

  一、
秩父連峯(ね)仰ぐ武蔵野の
大地を強く踏みしめて
瞳明るき若人が
高き理想(のぞみ)につどいあう
 われらは菅谷青年団
  二、
菅谷城址に都幾の清流(せ)に
郷土の偉人偲びつつ
この地に生きる感激を
正義(まこと)の道に貫かん
 われらは菅谷青年団
  三、
乱れる世界に鑑みて
同志(とも)よ友愛団結の
誓ひも堅き旗の下(もと)
祖国の繁栄(さかえ)導かん
 われらは菅谷青年団

又、団歌選定の経過について、笠原活男君から次のような文書が寄せられた。
「十一月上旬から報道、ポスターを通じて、団歌を村民から募つたところ、締切期日までに六点の応募があり、十二月五日、村長、小学校長、内田喜雄氏、団長、団員等十六名、計十九名で連記方式により審査、高点の作品三点を選んで、これを安岡先生にお願いして、みて戴いた。十二月二十八日先生の校閲が終り、役員会で決定を見た。
 この団歌は、独唱にコーラスに、合唱曲として作曲して貰い、一月末に作曲を終る予定である。御協力下さつた村民各位に厚くお礼を申し上げる。」
 尚作曲家森川愛子女史は明治三十七年(1904)福島県に生まれ、下総皖一(しもふさかんいち)、呉泰次郎(ごたいじろう)、杉尾信雄、大藪きみ子等に師事、昭和十三年(1938)女性として、我国最初の自作交響曲の指揮をした。その後JOAK【東京放送局のコールサイン】に連続出演、昨年東横ホールで発表会を開いた。現在、川越農高、日清紡績等で、音楽の指導に当つている。

『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日
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