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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

遠山トンネル

遠山トンネルに学ぶ

苦労を重ねた県との折衝
     度胸のよかつた遠山の指導者

 菅谷の下水工事、千手堂坂の改修等、懸案の土木事業が計画されている現在、遠山トンネル開鑿(かいさく)の苦心の跡を辿(たど)ることは意味が深いと考えて前号にその記録の一部を紹介した。然るに又二千万円に近い経費をあてて、中学建設の大事業が、開始されようとしている。この時に当り、今から七十五年の昔、秩父山麓の名もなき小部落の遠山村が、三十一歳の青年、山下滝治氏を陣頭に押し立て、比企全郡を動かし、県令を引つ張り出して、県下にも稀な大難工事を見事にやつてのけた度胸のよさは、子孫たる吾々の大いに学ばなければならないところと思ふ。よつて以下記録を通して、トンネル開鑿の経緯を描いて見る。
一、許可を得るまでの苦心
前述のように「新道開設願」を出したのは明治十二年(1879)十月三十一日、許可が来たのが十三年(1880)八月二十五日。この間約十ヶ月の日時を要している。これは県との折衝がスラスラとはかどらなかつたことを物語つている。果して記録にはお役人相手の苦渋な交渉のあとが明かに書きとめられている。
新しい時代になつたとはいえ、維新後十二年。殿様に替つた官員様の権力は、とうてい今の公務員の比ではなかつた。公僕と称するお役人でも、百姓にとつてはまことに扱いにくい相手である。役人は百姓の苦手だ。地方自治の確立されていない当時、僅か三十戸足らずの小部落を新興官僚の雄、県令白根多助を相手とつての折衝は、イロ気や、弱気ではとうてい歯の立たない難事業だつた。
十月三十一日に提出した願書は翌十一月に却下、再提出を命ぜられた。理由は、道路敷となつた私有地の代替に、官有地秣場を充当する計画が不都合であること又旧道を廃道にしなければ相成らんといふのである。
そこで早速この計画を変更して書類を提出した。処が何とか勿体をつけないとお役人様は気がすまない。年が明けて翌年の正月を迎えたが、県からは何の沙汰もない。そこで一月十三日、村民協議して県に向つて催促の追願を提出した。
然し県ではまだ「いかん」といふ、理由はよく分らないが「猶亦願書中不都合の廉(かど)有之趣」にて願書を「御下戻(おさげもどし)」になつたと書いてある。何かと難癖をつけたがるのがお役人の通性。昔も今も変らない。
 こんな状態ではいつになつて、許可が来るか分らない。じつとしていられなくなつた。この月の二十六日に、責任者山下滝治氏は一策を案じ、郡役所の添翰(そえかん・そえふだ)を得て県庁まで直接談判に出かけた。流石(さすが)のお役人も、さうケチばかりつけてもいられまい。では二月五日頃出張して実地検査をしてやらうといふところまで漕ぎつけた。だがまだ安心するのは早かつた。この公約も仲々実行されない。待てど暮らせど検査が来ないのである。その中農繁期も訪れる。農繁期にかかると工事の振興に重大な齟齬(そご)を招く。この頃の村民の苦慮は察するに余りある。そこで三月初旬第六回目の指令願が書かれた。踏まれても蹴られてもじつと耐えて目的貫徹に猛進した。幸いこの願書の提出前、三月十三日検査が完了し、それから五ケ月を経て、漸く八月二十五日許可指令が発せられたのである。
 以上が記録に表はれた許可発令までの経過であるが、この裏面には複雑多岐な交渉のカラクリが蔵されている。とかく世の中は馬鹿正直だけでは通らない。私は遠山トンネル開鑿裏面史といふようなものを想像して単に不屈の努力に敬意を捧げるだけでなく、時の指導者達の政治手腕に舌を巻くのである。而(しか)して更に又彼等が何故にその政治性を充分に発揮出来たのか——私はこれを当時の社会組織に求めようと思ふ——その根拠について深い省察を加える必要があると思ふ。(未完)
——小林—— 

『菅谷村報道』49号 1954年(昭和29)8月25日
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