第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会
遠山トンネル
遠山トンネルの記録
「当村より松山町並に河岸場等へ通路至つて峻嶺にして百荷運輸に窘(くるし)み、諸人難渋不尠(すくなからず)、依て明治の仁政を奉戴し、聊(いささ)か報国の御旨趣を次がんとし…」という「新道開設御願」を県令白根多助に提出したのが、明治十二年(1879)十月三十一日。
『菅谷村報道』48号 1954年(昭和29)7月25日
この願書には、
遠山村
願人 山下滝作【治】
地主 山下吉三郎
戸長 杉田啓三郎
平沢村
戸長 内田清右ヱ門
千手堂村
地主 吉野英吉
戸長 関根茂平
の六氏が署名捺印している。これに対して、県令の許可は翌十三年(1880)八月二十五日附、約十ヵ月の時日を要しているから、この間県との折衝等に相当の苦心があつたことが推察せられる。
着工はその後約二ヵ月を経て十月十三日、翌年四月まで工事を継続して、五月一日から十二月十五日まで工事を休止している。農繁期を避けたのであろう。かくして着工より三年目、十五年(1882)四月十一日落成し、同年九月二十八日に、県令吉田清英を迎えて、盛大な開通式を執行した。
工事の概要は十五年(1882)九月二十三日附、山下滝治、杉田啓三郎、杉田百之助三氏から知事宛に提出した報告書に明である。即ち
「一、新道延長延百廿七間五尺四寸
内
隧道々長八間
巾 九尺
高さ弐間
此坪廿四坪
此人足弐百八拾八人
此賃金八拾六円四拾銭
但し壱人に付金参拾銭
坑割道長四拾間
巾平均 弐間参尺
高平均 参間参尺
此坪 参百五拾坪
此人足千参百五拾弐人
但し壱坪に付平均
参人八分六厘参毛
此賃金参百拾円九拾六銭
但し壱人に付金廿参銭
坑下げ道長七拾九間五尺四寸
巾 弐間
高平均 壱尺弐寸
此坪 参拾弐坪
此人足参拾弐人
但し壱坪に付壱人
此賃金七円参拾六銭
但し壱人に付金廿参銭
一、道路上置土道長八拾間
此人足廿七人
此賃金六円廿壱銭
但し壱人に付金廿参銭
合計弐百七間五尺四寸
此工事人足千六百九拾九人
此賃金四百拾円九拾参銭
一金四円五十銭 潰地地代
一金八円 隧道枠木代
一金百四拾参円九拾参銭 雑費
一金参拾円 永世修繕資本金
総計金五百九拾七円参拾六銭」
と記してある。さてこの費用はいかにして調達されたか。前記願書には「費用の儀は村費等に賦課不致(いたさず)悉皆(しつかい)右出金を以て落成を遂げ候儀に協議行届け…」とあり有志者の出金にその財源を求めたのである。
今、記録中の「有志者出金取調帳」によれば、現菅谷村の各字は勿論、郡内の各字から大里、入間の各村に亘(わた)つて極めて広汎に寄附を募つている。参考のため近隣村(当時の)からの寄付額を掲げれば
平沢村 二一円五〇
下里村 一〇円〇〇
現金 一〇円〇〇
人夫 三三円〇〇(一三二人)
田黒村 二一円三〇
現金 五円三〇
人夫 一六円〇〇(六四人)
鎌形村 二六円六五
志賀村 二一円四六
菅谷村 六円五〇
千手堂村一六円九〇
とあり、その他は村単位でなく個人別に記録されている。而して地元遠山村では村単位で、五拾六円四拾銭の外(これはおそらく人夫と思われる)山下滝治氏の一金百五円を筆頭に参拾壱名で、総計弐百七拾九円〇五銭を出金している。
前述のように寄附を募つた範囲も広いが地元の負担は合計参百参拾五円四拾五銭で、総経費の五割六分強となつているから、この工事に対する地元民の熱意と努力が明かに読みとられる。
(後記)遠山トンネルが崩潰した話のついでに何時どんな風にして出来たものか知りたいと語つたことから小菅山栄君が聞いていて、山下賢治君から開道当時の古記録を借りて来てくれた。たまたま、菅谷の側溝や、千手堂坂改修等の土木事業もおこつている際とて特に興味深い記録である。機会を得たら更にくわしくお知らせしたいと思うが、本号では概括的に以上だけ御紹介にした。(小林)
※同紙面に「遠山トンネル崩壊:霖雨*1の被害、志賀にも」と題し、6月28日および29日にわたり土砂が崩れ落ち、交通不能となった内容の記事が掲載されている。
*1:霖雨(りんう)…長雨のこと。