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第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会

第1節:社会基盤・通信・交通

憶い出話

           嵐山町農協組合長 中村武一

 人と会って雑談をするときその話の内容に、昔の話が多くなって来たとき、その人は老人になったのだと、誰れかに聞いたことがある。私もここに、憶い出話をしたいと思うようになったのだから、正に老人になったわけである。
 憶い出話を話すと云っても、記録に基づいているわけでなく、全くの追憶だからお恥ずかしい次第であるが、昭和初期の頃の事を、知っている者が少なくなっている現在、世界の経済大国日本も、昔は、いや近年まで、大変な貧乏国で特に農村は極めて貧しかったことを、知ってもらうと共に、再び貧乏国にならない為に、現在点において吾々は、将来に向かって英智と努力を、最大限に発揮しなければならないと思うので、このことを強く願いながら、幾つかの憶い出話を記してみたいと思う。

救農土木事業

 越畑の八宮神社の前を起点として、越畑中郷、下郷を通り、杉山に入り溝掘りを通り抜けて志賀に達する町道は、越畑志賀線と云うが、近年拡幅改良され、道路中央に白い点線のある立派な町道である。
 しかし、この町道も拡幅改良前は、皆さんのご承知の通り普通の町道であったが、私にはこの道にまつわる深い憶い出がある。
 この道路が越畑から杉山にかけて建設されたのは、昭和七年(1932)だから今【1982年(昭和57)】から丁度五十年前の事である。
 当時の農村は不況の中に喘(あえ)いで居た。人と会うと必ず出る言葉は「不景気で困りましたネ」だった。大正年代の第一次世界大戦による好景気から、その反動のように世界中を襲った経済恐慌の波に、日本も巻き込まれて不況の嵐が吹きまくっていた。
 「不景気で困る」と云うことは、当時殆(ほと)んどの農家は専業農家であったが、農産物の売上げ収入では暮して行けないので、ほんとうに困って居たわけである。
 当時日本は外来文化も入り、商工業も近代化され、思想的には大正デモクラシーが滲透(しんとう)し、又昭和元禄と云われる平和の中での軟弱な風潮があったように思う。全国各地にストライキや小作争議などが多発したのもこの頃だし、都会にはカフェー華やかなりし頃でもあった。
 このような中で、都市と農村の生活程度の格差は大きかった。田舎者であることは服装を見てすぐわかる程であった。低い生活程度であってもそれなりに、交換経済の中の生活には金が必要であり、農業にも肥料・飼料・農機具代等資金の必要な事は云うまでもない。また子弟の教育も、教科書の支給、給食などの制度のないその頃の方が、現在より以上金が掛ったのではないかと思う。なお当時の税負担も、容易なものではなかったと思う。日本は世界の五大強国の一つで、軍備を強化して国威を揚げて行くには、国民の負担を強めなければやって行けないことで、能化の負担は土地に重かったようだ。ともあれ農家は現金収入が欲しくて堪(たま)らない時代であった。
 当時の七郷村々長は広野の栗原侃一氏であったが、村の窮状を打開するために、副業の奨励、生活改善など諸施策をすすめる一方、村長以下役場吏員の報酬給料の一割を、村に寄付するという非常な村財政の状態であった。
 ちなみに当時の村長報酬は月額三十円、役員は十八円から二十五円、米一俵八〜九円、小麦一俵五円位、繭は一貫匁(三・七五kg)二〜三円位だったと思う。
 当時政府は農村の窮状を救う施策として、農村に土木事業を起し、農民に賃金を得させると共に、農村の環境整備を図ることが進められていた。七郷村でも早速この事業を申請して実施したのが、越畑志賀線の「救農土木事業』であった。
 「救農土木事業」の予算額が、どの位であったか覚えていないが、延長二粁に及ぶ新設道路工事で、しかも村民に労賃を取らせるための管理をする事業は、当時としては大事業であったように憶う。
 一日の労賃(一般労働者)は五〇銭であったが、競ってこの仕事への就労申込が多かったように記憶している。
 私は当時二〇歳で、家業の農業に従事していたが、当時青年団長をしていた田畑周一氏が、或日拙宅に来られて、役場では今「救農土木事業」で事務が忙しくなり、臨時職員を採用したいと云っている。君をその臨時職員に推せんしたいが如何かと言われた。私の親達は賛成はしなかったけれど、私は是非やって見たいと云うことで、臨時職員に採用されて、六ヶ月位「救農土木事業」の事務に従事した経緯があり、越畑志賀線への印象が強いわけである。
 又、私の人生はその臨時職員がきっかけで、次に玉川村農会技術員を拝命、つぎに七郷村の信用組合や市川武市村長時代の役場書記と云うように、鋤鍬(すきくわ)を手にしない農業者になってしまった。

嵐山町農業協同組合『農協だより』第16号 1982年(昭和57)10月
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