第6巻【近世・近代・現代編】- 第5章:社会
学校水道
比企郡七郷村 学校水道敷設誌
第一節 難問題解決えの苦慮
本村【七郷村、現・嵐山町】学校の敷地内には五つの井戸がある。何れも期待は裏切られて、水の出るものは一つもない。雨水を井戸に貯え、之をその儘飲料水とし、乾天続きの際は家庭より壜に水をつめて学校え持参する。更に附近の人家えかけこみ、井戸端に群がつて貰ひ水をする。小使や当番は毎日校門前の坂道を十数回も往復して、農協から水を運搬する。全く悲惨の極みである。こうした状態が四十年間も続いたのである。
昭和二十五年(1950)三月十三日、七郷小学校創立四十周年記念祭が催された。この委員会では、記念事業として学校水道を敷設し、従来水に悩んで来た難問題を、一挙に解決すべく委員長杉田政之助氏を中心にその研究を進めたが、適当な水源を求むるに難く、工事費が予想以上に多額を要する為に、到底実現は困難であるとの結論に達した。
学校PTAも亦この問題を重視して、昭和二十六年(1951)三月委員会の決議にもとづき、会長大沢賢司氏は村当局に陳情書を提出してその実現を要望した。村民一般の与論も日増しに高まつていつた。
仝年(1951)三月役場・学校・村会・PTA等の代表者が会合して、先づ近隣の小中学校を視察することとし、直ちに水道施設その他の環境設備の研究を実施した。その結果一層教育の重要性を痛感し、早速県より専門技師の派遣を申請して、測量・設計等の基礎資料を依頼することになつた。
松山保健所長高橋暉良殿は、つとに本村保健衛生の見地、並に本県稀に見る七郷小中学校の欠水状況を憂え、種々指導助言を与えられて来たが、水道工事の機運到来を機会に、県衛生部の直接指導を懇請されたのである。
仝年(1951)六月県公衆衛生課長中村広夫殿並に水道係長西原重義殿は、非常なる同情と熱意とをもつて来村され、学校附近の井戸をくまなく調査し、水道工事に関する測量を行つた。その結果水源の貧弱なこと、且つ相当難工事であることが認められ、翌七月日本鑿泉並に昭和水道の二大ボーリング会社より、夫々二名の技師を招いて之を鑑定させたが、本村は全域にわたり厚さ六五〇米の凝灰岩層より成り、地下水の湧出は絶望であることが判明された。西原技師は止むを得ず地上水を貯える井戸を水源とし、之に濾過滅菌装置を伴う模範的な簡易水道の設計を考案、八月にその設計書が作製された。
然し乍ら、この実現に当つては寔に多額の経費を要する為に、本村財政の現状からは非常に困難な状態にあり、茲に県当局に対し、補助金申請に関する陳情書が提出されたのである。第二節 工事遂行の努力
以後水源の位置に関し一層研究する必要を感じ、十月各部落より水道準備委員を選出し、村民一般の与論を確認して先づ井戸の試掘を開始することになつた。場所を中学校裏の山下一、九六九番地と定め、松山町磯田ポンプ商会が請負ひ、村民の協力奉仕により之を実施したところ、幸にして貯水量も有望視されるに至つた。
この時に当り、中村衛生課長は本工事促進について種々心配され、特に課長の懇請により、県衛生部長金井進殿が直接来村の上、つぶさに現状を視察することになつた。部長は児童生徒の保健衛生並に之が及ぼす公衆衛生えの影響を憂慮し、更に小■村の財政上から、県費補助の必要性を痛感され、民主政治の本旨に則り、之を予算化すべく強力に県知事に申言されたのである。大沢知事も金井部長の熱意に共鳴され、敢て之を定例県会に提出、昭和二十六年(1951)十二月県費貮拾万円を補助することに議決されたのである。
この間、村長内田幾喜(ひさよし)氏村会副議長坂本幸三郎氏は、水道施設国庫補助に関する法律の改正につき、県会議長・金井部長・中村課長等と同伴して、厚生省並に大蔵省に陳情すること前後三回、終に改正案は国会を通過したのであつた。
補助金規定の上からも、又学校水道といふ点からも、恐らく前後にその例を見ないであろうこの問題に対し、献身的に盡力され、本村の窮状を救はれたことは、本村として永久に忘れることの出来ない處であり、県衛生部に対し慎んで敬意と感謝の念を表する次第である。
次いで愈々本格的な工事を開始すべく、昭和二十七年(1952)一月村長より埼玉県知事に、七郷村簡易水道敷設工事認可申請書が提出され、之に対し二月十五日付を以て申請通り認可されたのである。
かくして部落・村会・PTA・役場・学校等より夫々委員が選出され、五十名の水道工事実施委員会を組織し、内二十二名の常任委員を依嘱、委員長は村長内田幾喜氏、副委員長には村会議長青木義夫氏並に栗原侭一氏を推して、二月関係業者七名の入札が行はれた結果、松山町長谷部信治氏の落札するところとなつた。契約日は昭和二十七年(1952)三月十二日、金額六拾五万壱仟参百円、工期は三月十五日着工、五月二十日竣工と決定したのである。
井戸の敷地については、所有者松本松平氏の奇特なる好意によつて村有地となり、送水管理設箇所の桑園山下一、九五五番地の所有者松本正作氏は、所要面積約二十坪を永久に村え無償貸与されることになつた。濾過貯水槽の位置に当る宋心寺所有の山林に関しては、当該檀下総代各位の盡力があり、尚井戸堀鑿土の処理については松本銀三氏が特に協力される等々、地元関係諸氏の涙ぐましい好意に対しては寔に感激にたえないところである。
請負業者の側では、契約後直ちに資材の準備に取りかゝり、工事主任坂本幸三郎氏、副主任荻山忠治氏、田中隆次氏の熱意と努力のもとに、三月二十四日先づ配管及貯水槽の工事より開始された。四月に入り雨天が多かつたとはいえ、村民は連日十数名づゝ交代で人夫に出動し、業者の誠意に深い感銘を寄せ、業者側も亦村民の協力一致に共鳴しつゝ、作業は着々順調に進行して行つた。かくて五月十三日には送水管七五米、配水管一七七米、給水管一七五米、合計四二七米の配管埋設を終り、濾過池三平方米一面、及び配水池容積八屯一面の築造工事は一段落を遂げた。時に再建日本発足の折とて、濾過池東側面に「講和発効記念」と記銘されたのである。
一方井戸枠鉄筋コンクリート工事が四月十日より開始され、直径二米高さ一米のもの十一個が五月二日には仕上げられた。引続き井戸掘鑿作業に移り、五月八日以降全力を傾注して行はれたが、雨天の日多く、山崩れが三回あり、職人二名が軽傷を負うという状況で、予想以上に難工事の為、竣工予定五月二十日に至るも到底終了することを得ず、加うるに農繁期に入り村民の出動も困難となつた為、委員会に於ては、業者との交渉委員に正副委員長並に田畑周一氏、市川半衛氏を依頼し、種々接渉の結果、村民の出役は五月末日を以て中止し、七月一日以降は業者側のみで一切を進行することになつた。
之より先、電気工事に関し、副委員長青木氏の盡力により、関東配電小川営業所に連絡して外線工事を、内線工事は宮前村小沢氏により共に終了、単相一馬力深井戸ポンプの据付を待って、揚水試運転を実施したのは六月二十八日であつた。七月五日中村課長殿と西原技師が来村、工事の状況を視察し、更に完成に対する種々の指導助言を与えられた。第三節 竣工の歓喜
其の後井戸周囲の整地、滅菌装置及濾過池の金網取付、鉄管故障修理、小屋二棟の塗装等、最後の仕上げが行はれて、九月一日常任委員会に於て、愈々竣工式挙行の打合せがなされ、その日を九月十日と決定したのである。この間本工事委員会の書記として、或は事務に或は連絡に、終始全力を傾注された安藤義雄氏の功績も亦特筆されなければならない。
七郷小学校保存資料
因みに本工事総決算額は金八拾六万壱仟壱百拾四円八拾銭
右内訳 請負金 六五万一三〇〇円也
追加工事金 一四万三五三九円也
雑支出 六万六二七五円八〇銭
村民出動人夫 延 九八六人
一月以降九ヶ月間の委員会開催 十一回
本工事着工以来竣工まで約五ヶ月、水源井戸の試掘開始以来約十一ヶ月、更に小学校四十周年記念祭に発議されて以来約二ヶ年半を経過し、茲に漸く待望の水道工事は落成されたのである。
かつては「水なし学校」の珍名をうたはれた七郷校も、今日漸く水の便に恵まれて、約一千の学童の歓喜は云うまでもなく、彼等の父兄否全村民の嬉しさは例えようがない。学校教育今後の充実振興に対し、画期的な一大事業であると共に、更にこの施設が本村保健衛生上に及ぼす効果は甚大であり、既に本村夏季の伝染病発生は、従来に比較して急激に減少して居る状況である。寔に本村沿革誌上の一大記録といふべきであろう。
終りに臨み、この計画遂行に当り、県衛生部の熱意ある御指導、松山保健所の親切なる御援助、長谷部組の犠牲的な御努力、並に全村民の協力一致、関係役職員の絶大なる労苦に対し、甚大なる感謝の誠を捧げる次第である。
昭和二十七年(1952)九月十日 竣工式に臨んで
七郷小学校長 藤野秀谷