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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

『青嵐』

生徒会各部報告

野球部

 本年度菅中野球部は練習に一心をうちこみはげんだ。春は新入生を迎え、新人戦と春の大会を間近にひかえていたので、キャッチボールからベースランニングといったように一段と練習にも熱を入れてやった。
 だがいざやってみると新人戦、春の大会ともにあまりかんばしくない成績に終ってしまった。今度、東上沿線秋の大会、郡体とをめざし、夏のじりじりとやけつくような太陽の下で、汗と泥まみれになり練習を積んでいった。いよいよ大会、菅中生徒、野球部全体の力をあげてのこうげき、守備もむなしく、敗れ去ってしまった。三年生としてはあまりよくない成績で終ったことが残念でたまらない。後輩の皆さんには、今日まで私達があゆんで来た道を二度とくりかえさぬよう、よい成績を得、野球部の発展を期待しています。
 最後にメンバーをお知らせします。
  P 杉田宗男
  C 根岸重雄
 1B 野沢修一
 2B 杉田司郎
 3B 出野恵佐夫
 SS 内田元之
 LF 山下逸郎
 CF 新藤耕一
 RF 小沢愛彦

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

書道部

 書道は閑人のヒマツブシとか、手先の小技などと誤解しておる人もある様ですが、実用は勿論、芸術としても、趣味としても、修養としても又、休養として、誠に結構な人生の幸福と思われます。娯楽は不生産的でありますが、書道は一日の労苦を古帖に慰め、筆硯によって憩うことの出来るものです。此の精神に少しでも近づこうと、私達書道部は文化クラブの一部としてやって参りました。部員数五十六名という大部隊で、練習の時、一度に全員が残って練習すると、一教室だけでは入りきれず、他の教室から机を運んで来て、練習にいそしむ人も少なくありませんでした。
 それから書道部には「始めは残って練習するが、だんだんと残っていく人が少なくなる。」という悪い傾向がありました。
 しかし、展覧会等に出品した書道部の作品は、優秀なものが多く、秋の班文化祭には、一年の杉田さんの金賞をはじめ、たくさんの入賞者がおりました。これも書道部にとっての一つの誇りといってよいでしょう。
 大部分の部員は、全国にまたがる大同書芸院の「墨遊会」に入会しております。一カ年足らずではありますが、すでに四級の資格をとっているもの三人、五級が六人、六級が十二人……と、だんだん上級に進級しております。その上、その級において一番優秀な作品には、賞がいただけますが、菅中書道部では部員の三分の一位の人がその賞をもらっております。
 このように一年を省みてみると、書道部にはまだまだ、伸びていかなくてはならないところが沢山あると思いますが、尚、三年の私達部員は下級生に引づられていくような、逆の立場にあったようでした。来年度の三年生こそは、内田先生御指導のもとで下級生部員をしっかりと率(ひき)いていってもらいたいと思います。今年の成績がかんばしくなかった人も、来年こそ、自分の実力をフルに活用し、これからの書道部に花をさかせて下さることを、お祈りいたします。
 「楽しみは 紙をひろげてとる筆の
          思いのほかに、よくかけし時」

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

購買部

 私達が中学校に来て、まず気づいたことは購買部があると言うことです。普通の小売店と同じように学用品は、ほとんどそろっていました。
 購買委員となってからは、三クラスで交代に購買してきました。ある時は、自分達の週を手伝ってもらい、又、ある時は他の組も助けてやったりしながら、現在に至ったわけです。
 なるべく他の店に行かずにすむようにするため、各クラスごとにいろいろ調べてもらったりもしました。「購買部には品の種類が少い」「開ける時間が決まっていない」など生徒の皆さんに批判されながらも、私達は毎日皆さんの便利なようにと努力して来ました。
 数回開いた委員会では、二年生の奉仕、室の掃除等、皆さんの便利なように又、清潔と言う事も考えたのです。各自いろいろの目標に巣立つ三年生達は、始業前や昼休みに購買室に向うのは、実にいやな時があります。そのため、例のないことですが、二年生にも手伝ってもらうと言う意見が出たのでしょう。
 お客さんとなる皆さんにとっては、いろいろと不都合、そして腹の立ったときもあることと思います。しかし、私達としてはできる限り立派につくしたと考えております。
 私達が社会へ巣立った後も、後輩の皆さんの努力で、今より更によいそして又、この菅谷中学校の続く限り、学校の一つの誇りとして末永く残ることを望みます。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

陸上部

 今年の陸上部は十人たらずであった。
 入部者は、一年生が一人にはおどろいた。
 陸上部といえば走るだけと思っている人がいるから入らないのではないだろうか? でも陸上部は走るだけがのうではない、ということを知らせておこう。
 去年の部長の言うとおり女子が入ってもらいたい。これからは「フィールド競技」を中心に陸上を進めて行ってもらいたいことをのぞむ。
 五月六日、松山南中で郡市民体育大会がおこなわれ、杉田さんなどの何人かの女子も参加してくれた。その結果、能見君が走り高とびで、神村君も二千で県体に出場することができた。五月、運動能力テストがあるため砂場を新しく作り変えると言うのだ。それも陸上部におねがいしたいと藤野先生からのたのみだった。
 五月二十日からほり返えしがはじまった。それから毎日放課後ほった。六時ごろまでかかったこともあったが、陸上部員の協力により六月二日、この日までかかって完成した。砂も一流の砂だといっていた。五月二十八日、県体があったが、なにしろはじめてなのでたしかに上ってしまった。
 六月、全国放送陸上競技大会は「大宮の競技場」であった。能見君は高とびで一メートル八三センチをクリアーして賞を受けた。陸上部最大の喜びであった。神村も二千に出場。七月十九日、砲丸のサークルも陸上部員の力で完成した。人数は少ないが全員の協力で行なった。
 八月二十日、小川高校にて青年及び中学校の郡市民予選体育大会があった。高とびで能見君が県体に出場することが出来た。去年から「二粁」以上は走ってはいけないといわれているので、今年は駅伝はないのかと思った。一〜二年が練習していたが三年はなにかといそがしいので、おおいに練習した方ではなかった。三十七年が明けた一月十日、駅伝があることになり、十三日に行う通知があった。十三日、出発十時として松山を中心におこない、二、四キロぐらいのコースだった。一チーム六人としてバトン式におこない、中学三年の部で南中につづき二番で終った。
 でもこれからは陸上部として記録をぞくぞくのこすことをいのっております。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

柔道部 三年・奥平朝己

 菅中柔道部が生れて早や七年、先生や先輩のお陰で私たちは心配することなく練習に励むことが出来た。柔道というスポーツは技能をみがくことであり体をきたえることである。
 だが部員の中にはでたらめでやっている者もいたが二年、一年の人達を中心に練習に励んだ。このような練習が日に日に重っていき次第に養われていく。
 そして五月に行なわれた郡市民大会が東松山警察道場で開かれ出場、堂々Aチームの優勝、Bチームの準優勝というすばらしい栄冠を得た。その間県体目ざして猛練習に励んだ。
 そして県体が浦和高校を会場として開催され、比企郡代表として我が菅谷中学校柔道部は出場した。一回戦は勝ち、二回戦に進んだが大宮桜木中学の強豪の前におしくも敗退にいたったが、秋県体にはと夏休み中暑さにもまけず毎日練習に励んだ。そして郡市民大会が小川警察道場を会場として開かれたが小川と吉見に敗れたため、県体へ出場することはできなかった。
 こうして本年度の主な試合は終ったが、ふりかえって見ると思ったほど好成績は得られなかった。
 二年、一年は来年の県体には必ず良い成績で終ることを願い、技能の向上となにものにも負けない体を作るために努力してほしい。
 最後に後輩諸君のめざましい活動と菅中柔道部の発展を心から祈る。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

庭球部

 本年度の庭球部は、予算を多額に配布され、期待されたのにもかかわらず、良い成績をおさめることが出来なかったことは、私達の努力が足りなかったことと、深く反省しております。
 春季には、余り練習もなくのぞんだため、簡単に負敗を決したので、これを心のいましめとして、夏休み中に、一生懸命練習に励み、自信を持ち、夏季の球技祭にのぞみました。
 しかし、試合をしてこの自信は、みじんにも、破れ去ってしまったのでした。「井の中のかわず、大海を知らず」とは、この時の私達にピッタリの言葉でした。この経験を通じて感じたことは「努力」と「協力」の重要さでありました。努力とは、日々の蓄積であって、一週間や二週間で得ることは、不可能なことと思われます。努力や協力があってこそ、美しき結晶を得ることが出来ると信じています。
 一年生や二年生の人達が、菅谷中学校の庭球部を向上させてくれることをのぞみ、期待します。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

卓球部

 最初に、この一年間の試合結果を報告致します。
  選手名
高橋新一 杉田芳雄 高野益男 笠原健
内田和夫 吉野昌夫 内田清司 小林ちい子
杉田順子 柴田みき 金井悦子
中島圭子 根岸トヨ子 原田道子

五月一日 郡市民体育祭(個人戦)
 男子 全員コンディション整わず、敗れる。
 女子 単の杉田、小林、複の柴田・金井組県体出場決る。

五月二十日 県民体育祭(個人戦)
 前記の四名出場
  単 杉田二回戦対入間郡に敗れる。
    小林四回戦対秩父市に敗れる。
  複 柴田・金井組二回戦対秩父市に敗れる。

五月二十二日 菅谷班球技祭(団体戦)
 男子 菅谷2−3七郷 菅谷4−1宮前
 女子 菅谷5−0七郷 菅谷5−0宮前

八月十三日 郡市民体育祭(団体戦)
 男子 菅谷三回戦対小川西中戦に敗れる。
 女子 菅谷決勝戦対小川西中戦に勝ち、県体出場決る。

九月十八日 県体体育祭(団体戦)
 女子選手四名出場。
  一回戦鴻巣市を3-0に破り、二回戦へ。対川越市戦を3-1。三回戦対熊谷市を3-1。そして準決勝対浦和戦を3-0でくだし、決勝戦へ。しかし、ここで私達対入間戦に3-0と、無惨にも、敗れてしまいました。

 さて、これらの試合を経て来た今、私達が総括して言えることは、「一にも、二にも練習」ということです。これは、スポーツに限らず、何にでも練習は必要ですが、練習をしないで、試合に臨むことは、議題を決めないで、討論するようなことで、よい結果は生れません。
 後輩の皆さん、菅中卓球部の名を高めると共に、私達の出来なかった県体優勝の夢を叶えて、下さいますよう、願ってやみません。
 御活躍を期待致します。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

郷土部 三年C組 奥野正雄

  クラブ活動等の状況
七月 七郷地区文化財調査へ村の文化財調査委員の先生方に同行する
八月 将軍沢地内須恵器窯趾の見学調査
十月 石造遺物についての研究
十二月 班文化祭において郷土部の出品作品が金賞に入賞
一月 産経新聞埼玉版に「古里横穴古墳」に関連して、菅中郷土部の名が報道される
一月 大蔵地区積石塚、縄文遺跡の調査研究

  反省
 右の活動状況のように、郷土部とは名ばかりで、たいした発展もなくこの一年間をすごしてしまいました。年度のはじめに、しっかりした計画をたててやれば、もっとりっぱな活動ができたろうと思います。
 今後とも菅中の郷土部がますます発展するようがんばって下さい。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

篭球部 山下篤美

 春たけなわの四月、桜の花吹雪をあびながら僕たちは練習を開始した。今年度の部員も前年度に増してトランジスターぞろいであった。体力の不足を補うものはやはりチームワークと技術である。僕たちの練習の重点も当然ここにおかれた。やがて練習の成果をためす時が来た。菅谷班球技祭である。優勝は出来なくとも、せめて二位には食い込みたいと思って試合に臨んだ我がチームは、激戦の末、七中、宮中と連破し、あっという間に優勝してしまった。菅中篭球部にとっては絶えて久しい、待望の優勝だったにはちがいなかったけれども、余りに早く、簡単に転がり込んだ栄冠に、かえって僕たちはとまどいを感じたくらいであった。シーズン浅い頃であったから各校とも練習不足で本調子を出していなかったことも一つの原因だったかも知れないが、僕たちにとっては、とにかく無上の贈り物であり、限りない自信と希望とを与えられた。「望みなきに非ず」部員の誰もの胸に、こんな思いがみなぎった。更に練習を重ねて、南中での総合体育大会予選に臨んだ僕たちは比企郡の強豪鳩山中と対戦し、熱戦の末、破れた。相手チームのたくましい体力、すぐれた技術に完全に圧倒された形で、緒戦の優勝で僕たちの胸にあった誇りは早くも無惨に打ち砕かれてしまった。
 炎暑の下での汗まみれの練習を経て小川高コートでの郡体に臨んだ菅中チームは、吉見中と対戦したが、この時から採用された新ルールに僕たちは少なからずとまどった。しかし懸命に戦った。追いつ追われつのシーソーゲームの末に又も一ゴール差で涙を呑まねばならなかった。今一歩のねばりが足りなかったのだ。かくして緒戦の球技祭優勝といる、輝かしいスタートにも拘らず、その後の我が部の成績は余り芳しいものとは言えなかった。今年も又、体力の不足、基礎技術の貧困という数年越しの課題を、完全に解決することは出来なかった。懐かしい篭球部を去るにあたって今年も又多恨の一文を綴らねばならないのは残念であるが、伝統ある菅中篭球部の歴史にささやかながら「優勝」の一頁を加えることが出来たのは久しぶりの快挙ということが出来よう。
 後輩諸君、重ねていう「望みなきに非ずと……」
 菅中篭球部の発展を祈って筆をおく。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

排球部

 卒業迄残す処二ヶ月。母校を去るに当り、いくつか感じた事を述べさせて戴きます。
 夏の暑い日にも、時には忙しい自分の仕事をもさいてご指導をして下さった藤野先生を始め諸先生や、心から激励して下さった先輩の方々のご意志にも報いる事が出来ず、何と言ってお詫びしてよいかわかりません。
 マンモスクラブとさえ言われたわがクラブは八十一名の学校一を誇る多人数でした。しかし、試合に出られる人数は限られています。その為か練習時の集合状態が悪く、クラブが皆のものにならなかった事を遺憾に思いました。チームとして特に困ったのは、試合が近づいた頃です。練習に油がのってきたのに、遠く迄ボールを拾いに行く状態で、充分な練習ができません。選手の苦労も大変なものでした。暑い時、又農繁期には「この忙しいのに……。」と叱られながら。
 選手間に於ては、日常の生活で仲がうまくいく様に努めました。「コート上のチームワークは日常のチームワークであって、コートだけのチームワークは考えられない。」という事をつくづく考えさせられました。
 四月の郡体は南中校庭を会場に開かれた。我チームの相手は優勝候補第一線として活躍している八和田チーム。本年新調されたユニホームを着た我チームのメンバーのファイトも空しく、二対一という口惜しい処で敗れてしまった。しかし良い試合をしたいという、心に誇りを持った選手は、八月の試合を目指して頑張った。八月の郡体は小川高校校庭に於て開催された。我チームのメンバーは、試合開始二時間余前から会場に集り、すがすがしい朝の中に練習をやった。当日の相手は川島。我方の勢いも大変だったが相手も好調。一セットめは延長に入り我チームが勝った。二セットは少し油断してしまったのか相手にとられ、三セットに勝敗がかかった。当セットも延長戦に入ったが、相手の強力なサーブに敗れてしまった。でも、全力を尽くした後の気持は、ずっと誰の気持からも消えないだろう。クラブは皆のものです。試合に負けた時は、クラブ員全員が反省し、「今度こそ」という気持で頑張って下さい。
 今年卒業する三年生の中には、「私は死ぬ迄バレーをやるぞ」と実際口にした者が数名おります。試合に勝てなかったけど、何の名誉も残す事も出来なかったけど、此の言葉こそ今年の成果とも言えるのではないだろうか。
 最後に来年こそ後輩の皆様が、試合はもちろんの事、何事に於ても勝利を獲得せられん事を、切に願ってやみません。
 参考迄に、本年度の選手を紹介しておきます。
  F.L 木村利江(3)
  F.C 内田慶子(3)
  F.R 中島キヨ子(3)
  H.L 大野幸子(2)
  H.C 河井初代(2)
  H.R 小林加代子(3)
  B.L 滝沢日出子(3)
  B.C 中島みよ子(3)
  B.R 内田祐子(3)
 尚、学年別部員数は次の通り。
  一年 二十二名
  二年 三十一名
  三年 二十八名

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

音楽部

 今年は部員数が少ないため、一、二年の人達三十名に協力してもらい、七月頃から合唱練習にとりかかった。放課後行うわけだったが、何かと都合が悪いので、自転車の許可を得、火木金と朝礼の無い日の始業前に行う事にした。朝七時半に集まる事は容易でなく、時々半数以上も遅刻し練習を中止した事もあったが、合唱の方は日に日に向上して行った。又合奏の方も二、三曲選んで始めたが、十一月二十八日小川での部の発表会には、練習不充分なため合奏は取上ず合唱二曲、「思い出の高原」と「さくらさくら」を仕上げて参加した。
 後、練習を重ね、十二月五日の毎年おこなっている班の発表会には、「合唱二曲」と「ピアノ連弾」、それに三年生の中村君にお願いし、「独唱二曲」を発表した。どちらともよい成績を得、又学校の色々の演奏を聞き、大変良い勉強になったことを全員が喜んでいます。それから十二月十二日の学校参観の時は、音楽室が先生方の控室になってしまったため、一年D組を借りて去年と同様、レコード鑑賞を行なった。
 以上がおもな今年度の音楽部の活動状況でした。今後の音楽部には楽器を整え、又音楽希望者が多く出て、立派に活やくする事を期待します。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

英語部

 英語部は今年大きくかわりました。まず去年指導して下さった梅沢先生がおやめになり、新しく武藤先生が私達の指導をして下さったこと。それから去年は男子ばかりでしたが今年は女子八人になりました。どうも英語部は男女でわかれてしまうようですが、来年からは仲良く勉強していただきたいと思います。
 また今年は、部員がぜんぶ去年とかわったため、何もわからず、まとまった勉強が出来なくて部長として申しわけないと思っております。来年からは海外との文通等によって、どんどん英語の力をのばしていただきたいと思っております。今年私達が勉強したことについてあげてみると、一学期と夏休みは小説UNCLE TOM'S CABIN、二学期は、レコードを主とした英語の歌、なお歌による勉強は、楽しく、簡単に英語が学べて大変よかったと思います。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

科学部

 どこの部でも何かしら目的を持っている。今年の科学部も他の部にまけないように、年間計画をたてた。
 しかし、何が原因したのか、思うような成果もあげることもできず過ぎてしまった。
 今年は、部員数が極めて多く、まとまりがつかず、全部員が十分活動する機会もなかった。
 科学部は、他の部とちがって範囲が広く、何をどう研究するかが大きな問題でもある。
 そこで部をいくつかの班に分けて、研究をした。生物、化学、電気、気象の四班で、研究日を別々にした。
 生物班では、多くの沼からプランクトンを採集し、顕微鏡でしらべた。その結果、ミジンコ類、ミカヅキモ、アオミドロ、ミドリムシ等の色々なプランクトンがいることがわかった。
 化学班では、薬品を使って、気体を発生させ、その性質についてしらべた。そのおもなものは、水素、酸素、アンモニアで、とくにおもしろいのは「アンモニアガスによるふんすい」で、これはアンモニアが水によくとける性質を利用したものである。その他、ニッケルメッキ、水、食塩水の電気分解等を行なった。
 電気班では、組立てセットを買い、一人一人に組立てさせた。またほかの電気器具を使って実験をし、少しでも電気の知識を深めた。
 気象班では、主に器具の測定法について、低学年におしえ、主に気象観測をしたが、あまり長続きはしなかった。このようにして行なった科学部の仕事もまだまだ十分ではなかった。
 反省として
 一、計画が不充分だった。
 二、各班毎に研究した事や、仕事等を記録しなかった。
 三、自主的にできなかった。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

あいさつ

心と友達  菅谷中学校生徒会長 杉田司郎

 例えば、川原の石をあげてみよう。石には、大きい物や小さい物、あるいは、全くぜんぜんというほど形の異った物もある。それ等は、大きい物は大きい物、小さい物は小さい物なりにそれぞれ使い途がある。この石のように、人間の心も多種多様である。つまり、人間の心でも、真直な道を進む者があれば、曲りくねった道を進む者もある。
 しかし、石にしろ、人間の心にしろ、始めは皆、同じ「形」同じ「考え」であろう。それが知らず知らずの内に全く異った形になってくる。これは、それ等が進む途中何者かの仕業によって、こんな結果になるのだと思う。
 石が上流から下流に流れるのを見ても、大きな波や小さな波にもまれ、そして、ある時は、仲間同志で、すれ合いつき当りながら流れて行く。そして、最後にはそれぞれ形の異った石となって現われてくる。人間の心にしても、生まれた時からは、だんだんと変ってくるのが普通であろう。その変る原因と言えば、まず、「環境」ということがあげられるだろう。その中には、家庭内、学校内、又は社会に出てからと言うものがある。学校内や社会に出てからは、自分の囲りにいる友達による影響が多いと思う。この友達を選ぶということによって、ある者はまがった道を進むこともありえる。こんな結果を見れば友達を選ぶと言う事がどんなに大切な事かわかるだろう。
 自分達の囲りを見てもわかるように、自分の囲りの友達が、皆、全部、真直な心(考え)を持った者ばかりとは限らない。又、曲った心(考え)を持っている者ばかりとも限らない。
 ゆえに、曲った道を進む者がなくなるように、曲った心(考え)を持っている者があったら、お互いに注意し合い、正しい心(考え)を持っている者があれば、それを見習い、より良い学校、より良い社会になるように、皆して努めよう。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

私の座右の銘  菅谷中学校校長 安藤専一

 私たちは自分のいましめとして常にまもっていこうとする格言いわゆる座右の銘を持ちたい。世に格言金言としてりっぱなことばは無数にあるが、その中からわが処世にもっともしっくりと合ったものを選出し、これを日々の指標として壁に掲げて朝夕朗読し反省することは、向上を目指す人間としてぜひ必要なことである。
 よって私の座右の銘、三つを取りあげて私見を述べ、諸君の参考に供したい。

一、人に尊敬されるのは、人を尊敬したからである。
 他人を尊敬することは知識として誰でもわきまえているが、いざ実行することになるとなかなかできない。相手が気に障わるような態度をとると、すぐに腹を立てて悪口をたたき、場合によっては握りこぶしを振り上げて乱暴する。これでは決して人から尊敬されない。また頭ばかりペコペコさげたり口先や顔色ばかりていねいでも、内心人をばかにしている気持がある人は、いつか本心を知られて、かえって人からばかにされる。
 他人からほんとうに尊敬される人は、その人が不断心から相手の人たちに対して敬意をもって交際しているからである。自分を人並に認めてほしければ、他人に対してもまた正当に認めてやらねばならない。

二、今日をとり逃がす人は一生をとり逃す人である。
 人間の欠点として時間を空費する場合がなかなか多い。学校や役所や会社工場等に働く人たちは、年間月間週間の計画を立て、また一日の仕事もその日課表を設けて、事業運営に当てるわけであるが、最良の効果をあげるためにはその職場の性格とにらみ合わせて、適切なスローガンのもとに優秀な指導者を必要とする。ただ行きつきばったりの仕事をしているのでは、決して能率を高めることはできない。
 個々の生活面になると、今日をとり逃がす場合が実に多い。学生は勉学することが特権でありまた義務でもあるが、この勉強予定の時間をテレビやラジオにかじりついてなくしてしまい、友だちと遊び廻って空費し、後になってばかを見たとなげく大人でも雑談に花を咲かせて、読書や記帳の時間をつい明日へ明後日へと引き延ばす場合がよくある。
 瞬間がつみ重ねられて一日となり一年となり一生となる。今日やらねばならぬ仕事を明日へ廻すことのみくり返したら、やがて一生をとり逃がすことになる。現実に生きているのは今だけである。今日一日だけである。この今を今日をとり逃がさぬよう徹底して生きぬきたいものである。

三、働きが一切であり、働きが人生である。
 人間は百八の煩悩を持つといわれている。毎年除夜の鐘をきいて少しでもこの煩悩を減らしたいと誰も念願するが、なかなか悩みはなくならない。人間は慾の皮が厚くなりすぎている。美衣美食大邸宅を望む。巨万の富を得て遊び暮したいと考える。しかしこのような豪勢な生活をしている人間が国中を通じて何人いるか。このような空念仏に等しい考えをもつことは、われわれ一般人の本来の意志ではない。
 せっかくこの世に生まれ出たからには、りっぱに生きぬくという意志が人の心にだれしもひそんでいる。この生きぬこうとする意志の表現が勤労である。働いて働いて働きぬくことに人生の意義がある。
 人はそれぞれ職場を持ち職業を得て生きているわけであるが、その仕事一すじに生きて、不滅の生をのこすことができればこれこそ人間の本懐である。まことに人間にとっては働きが一切であり、働きが人生そのものと念願したいものである。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月

年頭所感  初雁不二彦

 草や木にはたいていのものに節がある。節の役目は草木の種類によって一様ではないが、あるものは枝をつけ、あるものは養分を分配し、又あるものは茎を丈夫にする働きをもっている。
 殊に竹などは節があることによって自分の体を強く保つことができ、虫にくわれてもその節でくい止めるというまことに結構な存在である。若し竹に節が無かったらどうであろう。割れ易く、しない易く、虫にも侵され易く、尚見た感じも実に弱々しいものである。節のあることによって竹の竹たる価値を保っているのである。
 さて、次に我々の体について考えてみると、人間の体には草木のように外部から見てはっきりした節はもちろん無い。しかし節のように身体を強く保持するための働きをしている筋肉細胞があるはづである。人間は生きている間、五十年なり八十年なりは少しも変らずに存在しているように思う。寿命が尽きて死が来ると節がはっきりわかる。死ぬということは確かに人生における大きな節にちがいない。しかし節はそれだけではない。医学的にみても我々の細胞は常に新陳代謝して、七年経つと細胞全部が変化するといわれている。これも又目に見えない節である。以上は人間の肉体面についてのことであるが、精神面はどうであろう。亀の背に乗って竜宮城へお客に行った浦島太郎は寝てもさめても御馳走と乙姫たちの舞やおどりの接待でまるで夢の様だったというが、とうとうそれに飽きて家へ帰りたくなったそうである。どんなに良い事どんなに楽しくおもしろい事でも同じ事が何の変化もなくいつまでも続くと浦島ならずとも飽きてくるもので、毎日の生活の中でいつも経験していることである。飽きるということは心の常体ではないはづである。何等の変化も、あるいは区切りもない生活が長く続いたので、言いかえれば節が無かった為に心の異常を呈したものと思う。ちょうど竹に節がなければ、弱く曲り易いように。
 昭和三十六年(1961)を送り新しい三十七年(1962)を迎えると云うことは、私たちの生活の上での大きな節である。一年間をながめても、お節句、お盆、お供日等、いわゆる節目があってそれぞれ私たちの心に何等かの変り方を教えてくれるものである。この節があることによって七十年八十年の長い人生も飽きることなく、強く行きぬけるのである。だから節の意義を深く感じ、自分の人生をより強く、より美しく、より明るく、又より幸福に送るように努力すべきである。
 年の変り目こそ太く丈夫な節にしたいものである。

菅谷中学校生徒会誌『青嵐』13号 菅谷中学校生徒会報道部, 1962年(昭和37)3月
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