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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

『むぎぶえ』

『むぎぶえ』19号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷中学校、七郷中学校の児童・生徒の作品です。

赤城山旅行の一日 七郷中一 関口雪江

 朝食もそこそこ、母は蚕の方を気ぜわしく始めていた。私は高校三年の姉の腕によりをかけた昼食を期待し、七時二十分学校下を出発した。今日は中学に入って初めての旅行……。乗ったバスは、赤城山に向かって走っていた。やがて熊谷に入りガイドさんの説明で工場の二本の煙突を指さして「煙突の長さは十七メートルもあるのだそうです。」と言ったのを聞いてびっくりした。
 ほんとにそうかも知れない。ぽつんとひとりそびえたって我につぐものなしと我物顔に下界を見おろしているかの様で、ちょっぴりうらやましかった。これを見て私の脳裡には強く感じるものがあった。前橋にはいっても名物、その他、多種多様なことを話してくれた。
 やがて、赤城山が、うっすらと紫色にけぶって見えだした。赤城山へ登る時は、まるでいろは坂そのもの。窓からはいって来る風は車内にみどりの匂いを運んで何とも、言いようのない気持ちだった。白樺の林がとても美しかったので、「こんな所で家族ぐるみ散歩したらいいだろうな。」と想像してみた。
 頂上までバスで行けないので、途中で降りた。私達は自分の荷物を持って、頂上目ざして登りはじめた。
 中腹まで来たら、大嫌いなマラソンをしたのより、はるかに息をするのが苦しかった。でも頑張って、一歩一歩登って行って、やっと頂上までついた時は、足が、がくがくふるえて帰りが心配になって来た。けれども頑張ったかいがあってついた時は、朝のようなさわやかさだった。
 そこで待望の昼食をした。期待したより以上の味で、思わず姉を思い出して、舌つづみをうつ程だった。
 あたりのながめも、実に素晴しい景色で、外輪山最高峰の黒檜山が見え、ほかに地蔵岳、鈴ヶ岳、長七郎岳が私達の登った山のまわりを、かこむようにして立っていた。また、ほんのうっすらとしか見えないが、富士山が、「おれは、日本中で一番高くて美しいんだぞ。」と言っているようにそびえていた。
 地蔵岳は中央火口岳で、その間に大沼、小沼の火口原湖が、うっとりとみとれるほど美しく見えた。
 又、湖南に赤城神社があった。坂を歩いて下る時、心配したより、案外楽なように感じたが、特に急な所ではすべって危険でした。そう思っているうち、のぞみちゃんがスキーをしているようなかっこうで、草の中へ突っこんで行った。しかし大した怪我ではなかった。
 まるで頭隠して尻隠さずとは、この事かと笑っては悪いと思ったけれど、遂に表現力の強い私は、押えきれず、ふき出してしまった。記念写真は組別にとって今度は湖へ行った。湖の水は澄みきって、まだ冷たそうに見えたので手を入れたら、体全体にしみるような、口では言い表わせない気持ちだった。
 私達は帰りのバスで、しみじみ登る時と、下る時の気持ちの上で高度の違いをはっきりつかんだ。帰途の車内は、疲れてはいても、とても面白そうだった。面白い歌を歌ったり、思う存分話したり、愉快だった。
 私は、一番好きな「出船」と「月見草の花」を歌った。前橋、熊谷をぬけ、私達の住んでいる七郷へ帰って来た。
 家に帰って見るとみんな笑顔で迎えてくれて「やはり、わが家はいいなあ。」とつくづく思った。その夜の団らんは、すばらしかった。その他の楽しかったでき事で花が咲いて夜のふけて行くのを、忘れていた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

キャンプ 七郷中一 内田清

 七月二十四・五日はキャンプに、大椚というのは山がちかくで山のけしきが美しくて、川は七郷ではえられない風景でした。菅谷から約二十一キロメートルはなれていて、七郷中学校から清水先生が行かれたのだそうです。
 朝、有線を聞いていると、「今日のキャンプは予定どおり行ないます。」と言ったので、したくをして自転車の悪い所を直して勝進橋へあつまった。みんなもほとんどあつまっていた。
 そのうち二年生から出発した。自転車なので思うように前へ進めない。それからだんだんほそう道路になってきた。平の中学校で一度休息して、また大椚めがけて出発した。はじめは平らな道だったが、しだいに坂がふえて来た。ところどころあるかなければならなくて自転車からおりてころがして歩かなければならなかった。しだいに川に近づいて来た。このへんは川の水がずいぶんきれいだなと思った。やっとの思いで大椚小中学校のさか下まで来た。
 さてこれからが問題だ。七郷中学校よりきゅうなさかでじゃりがしいてあって下を見れば川があるので安心できない。ようやく上にあがって自転車をかたづけて少しやすんでいた。少しして昼食になったが大木君のもってきたたまごが、ナップサックの中でバラバラにこわれてナップサックの上にまでしみてきたので、それをかたずけてB組の正幸君をさがして昼食にした。昼食が終って少し休息時間があったので校庭で休んでいると、先生が当番の人は、中へ入って掃除を始めなさいと言ったので、中に入って掃除を始めた。人数が多いのと教室がせまかったのでわりあい早く終わった。
 少しして川へ行って夕食の材料や水くみなどをして夕食にとりかかった。水をくみに大木君と小林君で行ってカニを取って来た。カニはあまり水のない石の下などにいるので簡単にとれた。あまりとっていると夕食ができないので、飯盒からほかの入れ物にうつした。はじめご飯をした。ご飯は一つはこげついてしまったけれども、もう一つはなかなかよくできた。飯盒をさかさにしてかるくたたいておき、次にカレーにとりかかった。カレーはいつものようではなくてなかなかむずかしいと思った。やがてカレーができ、夕食にした。夕食もおわって学校に帰って来て少し休んでいると先生がキャンプファイヤーをやるから川岸にあつまれと言ったので、大木君と行った。行きついていろいろと先生の指示にしたがって、まきの回りにあつまった。
 そのうち通って来た道が、明るくなって来た。そのうち神田先生、島野先生、細治先生がたいまつをもって、神田先生のうしろから藤井先生が来てまきのつみかさなっているのに火をつけた。まきには石油がついていたのでよくもえた。歌を歌ったりしているとだんだん火が消えてきたので、先生がまたまきをもやした。もえ終るころ、大椚の消防団の人が来て歌を歌ってくれた。火ももう少しなので歌を歌いながら学校へ帰ってねた。
 翌日、正幸君や大塚君といっしょに川へ行った。まだ早かったので顔を洗わないで来たので川で顔を洗った。少しキャンプファイヤーのあとやほかの所を見て帰って来た。それから又、荷物をもって川岸まで行って朝食を作った。ご飯はゆうべよりよくできたのですが、サラダやおつけは、あまりよくできませんでした。ほかに昼につかうにぎりめしを作った。大小さまざまでしたが、まあその時はよかったのですが、包むときなかなかめんどうだった。学校へ一度もどって来て前方に見える高そうな山へ登らなければなりません。初め前の山から登ってブナ峠で少し休んでまた登りはじめて狩場坂峠へ行って昼食をすませた。
 学校へ帰って来て、少しやすみ、にもつをまとめて自転車に乗って帰路についた。途中自転車から落ちて手をすりむいてしまった。後ろから建一君と高荷君が来て、止まりそうだったので先に行ってもいいよと言い自転車を起こして家の方へと進んだ。来る途中手がひりひりして少しいたかった。やっと勝進橋まで来て自転車を調べてみた所、自転車のタイヤの空気の入れすぎとブレーキがよくきかなかったことがわかった。それから太郎丸の停留所の前まで来て毛布をもって家に帰って来た。
 自転車から落ちた時はいたかったが、これにこりずに二年になってもぜひ行きたいと思います。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

「リンカーン」を読んで 菅谷中一 小林進

 リンカーンほど、世界中の子どもから愛される人はすくないでしょう。
 それは、彼が大統領になって死ぬまで、子どものような美しい心をもっていたからだと思います。
 小さい時から、リンカーンは、ずいぶん苦しい目に合いましたが、ちっともくじけないのでりっぱだと思いました。それには、たくさんの親切な人々が、苦しいリンカーンを助けて、正しくみちびいたからでもあります。
 なくなった母も、新しい母も、そのころにめずらしく学問のある人で、リンカーンを教え育てました。父のトーマスは読み書きのできない人でしたが、これもかえって、リンカーンを勉強させたのだと思います。
 村の学校へかよったのは、たったの三月ばかりでしたが、リンカーンは一人で、もうれつに勉強しました。それも、ただえらくなろうとして勉強したのではなく、ほんとうに彼は、本が―学問がすきでたまらなかったのでした。<自分の心をゆたかに、そして高めて、正しく生きるために>
 村の先生のクロフォードは、苦しいリンカーンを愛して、なにくれとなく助けてくれました。リンカーンが、はじめてどれい市場を見たころの、彼の主人のゼントリも、オファットじいさんも、また友人のアームストロングも、苦しいリンカーンをはげましてくれました。スプリングフィルドへ出て、べんごしをはじめることができたのも、スピードという大きな店の主人のおかげでした。
 リンカーンは、小さい時から、みんなに愛されました。正直でまじめで、だれにもやさしく、あたたかい心をもっていたからです。大統領になっても、彼は人にいばって見せたり、人の心をきずつけたことは一度もありません。(彼は自分も入れて凡人の人がすきでした。)
 ある時、町へ出て、人のむれを見ながら、「神さまは、よほど、凡人がおすきなのだ。ごらんよ、神さまはこんなにも凡人をおつくりなさった。」と言いました。彼はけっして、わけへだてしませんでした。だれとでも気らくに話しました。
 一少女からの手紙で、あごひげをはやしたというのも、リンカーンであればこそです。
 朝早く、シャツのままでホワイト・ハウスをとび出して、新聞を買いに行く大統領のリンカーンでした。大統領にとうせんして、ワシントンへ行くにも、人から金を借りなければならなかった。びんぼうなリンカーンでした。
 彼は「愛の人」でした。ろうどうできたえあげられた彼は、大の力もちでしたが、らんぼうや、戦争は大きらいでした。人間が人間をむごたらしくこき使うどれい制度を、彼は心からにくみました。
 リンカーンは、大統領になりたくてなったのではなく、どれいを自由にして、それがアメリカを正しい国にすると考えて、大統領になったのでした。四百万人のどれいをすくったリンカーンは、そのためにぎせいとなって悲しい最期をとげました。
 その時、彼の母はまだ生きていて、それから四年の一八六九年の四月に、八十四才でなくなりましたが、どんなに悲しい思いをしたことでしょう。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

「坊ちゃん」を読んで 菅谷中一 江沢富美子

 この作品を作った人は、夏目漱石と言う有名な作者です。この人は、そのほかにも「三四郎」「道草」などのすばらしい作品をのこした人です。
 この坊ちゃんと言うのは、その夏目漱石とは性格が反対で、むてっぽうだ、と言うこととおひと良しだと言うことです。だから自分が正しいと思うことは、ずばずばやるし、人がいうこともそのことばどうりに、受けとってしまうような人がらでした。
 私がこの坊ちゃんを読んで、本当にむてっぽうだなあと思ったところは、坊ちゃんが二階からとびおりて、腰をぬかした話しだった。なぜそんなことをしたか、と聞いたら別に深い理由もなく、同級生が冗談に、
「そこからとびおりてみろ、できないだろう、弱虫やあい。」
と言われたからだといったようです。
 本当にむてっぽうだな、でもそのような行動をする坊ちゃんが、みんなに親しまれるように思う。それに、この坊ちゃんの気持はさっぱりしていいと思う。
 いちばん痛快だったところは、口先だけでうまうことを言っていた、赤シャツと野だいこを山あらしと坊ちゃんとでいっしょにやっつけた場面だった。私はそこが痛快だったが、きっと坊ちゃんだってその時は痛快だったにちがいないと思う。
 このような赤シャツや野だいこみたいなずるい人間は、まだまだいると思う。そのような人たちを、坊ちゃんたちがやったようにして、こらしめて、その人たちがよくなるようにしたいと思う。
 この坊ちゃんの、おもしろさは、私はこう思います。いつわりの多い世間にまっすぐ進んでいく、坊ちゃんの生きかたの美しさにあると思います。そしてそのおもしろさは人の心にしみてくるような、おもしろさだと思います。
 私は、この本を小学校の、五年生の時に読みましたが、今読んだ気持ちとでは、だいぶ変化があったように思います。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

「アルプスの少女」を読んで 菅谷中一 高橋矢枝子

 この本を読んだ動機は、世界的に、有名な小説なのに、まだ一度も、読んだことがなかったので、夏休みを利用し、読み、考えてみよと思って読みました。
 最初に、アルプスというのは、どういう所だろう。私の想像では、険しい山ながらにも、どこか、やさしい姿が、見うけられると思います。
 主人公ハイジは、むじゃきで、他人の心をよく知り、その場その場に対する行動のとれる少女のような気がします。ハイジは、孤児でありながらも、ひねくれた心のようなものは、少しも見うけられない。
 アルプスが見え、牧場があり、花が咲き、やぎたちがたくさん、さわやかな光を浴びながら、生き生きと遊んでいる姿。
 ハイジは、アルムおじさんの家に、世話になって、ペーター少年と、毎日この美しい姿をながめ、味わっていた。
 私も一度でいいから、ハイジと遊び、このさわやかで、新鮮な空気の野原で、ねころんでみたい。
 ある日、ハイジにとって悲しくつらい運命に、落ち入る日がきた。「別れ」である。アルムおじさんと別れなければならない。ハイジは、泣きとおした。
 私も、ハイジと同じだ。声がでないほど泣いてしまうかもしれない。別れるって、こわい。どうして、別れなければいけないか。
 ハイジは、こんなふうに考えたかもしれない。世間の人って、私を苦しめるのかしら。何も悪い事などしていないのに。
 でもこの悲しみは、解消されはしなかった。
 歩いて行く道中、ハイジは、きっとたちすくんだかもしれない。前進することも、口を聞くこともできなかった。
 私は、すぐハイジのそばへ行き、はげましなぐさめてやりたい。「ハイジちゃん、泣くのはやめて、だれだって、つらいことだって、長い人生にはあると思うの。だから、元気を出して、もとのような笑顔をみせて。」
 この物語りを読んでいると、ハイジの気持ちを考えずにはいられなかった。
 (1)世の中なんて、一部の人には、楽しく夢いっぱいの、世の中であるかもしれない。
 (2)また、一部の人には、つらく悲しい世の中であるかも、しれない。
 この二つの考えで、比較してみると、ハイジは、(2)の運命だなとすぐわかる。
 私は、別に、楽しい人生でなくても、一度や二度は、つらい出来事に出合った人間の方が自分に対しても、社会人になっても正しい判断のできる人間だと思います。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

おとうさんのけが 菅谷中一 栗島澄子

 お父さんは、七月三十日にバイクから落ちて、けがをしてしまった。せきずいを打ったそうだ。医者が、もうすこし強く打てば死んでしまったかもしれないと言っていたそうだ。三十日の晩も、なんだか、ねむれないようであった。
 三十一日に朝早く起きてタクシーで東松山の病院へ入院した。九月一日に帰ってくると言うことだ。私は病院へは、まだ二回しか行ったことがない。お父さんは、日ましによくなっていくということだが、なんだか心配だ。
 病院へは近所の人や、しんせきの人がお見舞に行ってくれている。お父さんが、病院へいっちゃって、お母さんはつきそいで行ってしまった時は、すごくさみしかった。でも一週間ぐらいしてお母さんは帰ってきた。でも、それでも心ぼそかった。
 八月十六日ごろ、お父さんのお母さんが来た。おばあさんは、もう八十才である。だが、今までよりかは、さみしくはなかった。床にはいった時、お父さん、どうしているかなと思うことがある。お父さんは、どんどんやせていくような気がする。今年は、へんなことばかり続く夏休みになっちゃったなと思った。
 お父さんは、私たち以上につまらないと思う。病院でいやでも眠っているようだし、たいくつだ。私は入院したことがないからよくわからないが、ほんとにつまらないと思う。
 おばあさんは時々、お父さんの子供のころのことを話してくれる。お父さんが、子供のころは、
「これ、してくれるかい。」
と、言われると、もんく一ついわず、なんでも喜んで手伝ったそうだ。私もお父さんの子供のころのように、ほがらかな子になろうと、努力しているのだが、宿題などをやっている時、用事を言いつけられると、どうもうまくいかない。
 お父さんが帰ってくれば、うまくいくと思う。九月一日がまちどうしい。お父さんがどういう顔をして帰ってくるか早く見たい。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

通信票 七郷中二 島田晴美

 通信票は、人を喜ばせたり、ショックを与えたりする。通信票を開いた時の顔の表情。成績の良かった人は、にこにこし、悪かったような人は友達に話しかけ、わさわさ騒ぐ。通信票の成績は、前学期の努力の結果を表すのではないだろうか。だから、通信票をみてがっかりするような人は、前学期中に努力をじゅう分はっきしなかったのだろう。
 一部では、通信票を廃止した学校もあるが、大部分の学校では渡しているそうだ。通信票は前学期の学校生活をふりかえり、反省するためにあるのだと思う。私たちの学校では5は上位から七パーセント、4は二十四パーセントという様な相対評価でつけている。相対評価は、自分はクラス全体で、どの位のところにいるかという位置づけを示す。中学生は自分の位置を知ることが大事だ。
 誰でも通信票が悪かったりすると、おもしろくないもので、良いと楽しいものだ。前学期の自分の努力をすなおに考えて、向上の第一歩にしよう。あまり努力しなかったのに、案外よい成績がついていることがあるが、それを甘くみないで成績向上をよく考えて、しっかりがんばろう。努力という言葉をわすれずに。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

川 七郷中二 安藤まり子

川のそばにたたずんで
その流れをじっと見た。
くり返しくり返し
同じように流れている。
どこに変化があるのやら、
いつまで見ていても
あきないながめだ。
土を入れてみた。
いつのまにか、
もとのようにきれいに澄んだ。
人の心もこうでありたい。
川はそれぞれ
流れる所、大きさ、長さ
いろいろ違う
しかし、終わりは同じ海
川って、ちょっと
人間に似ているなと思った。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

太陽と私達 七郷中二 安藤介三

スモッグでよごれきった世界。
太陽の輝かしい色
光に恵まれず
生活している大都会の子を思うとき
私は考える。
私達は自然に恵まれたことを尊び
尊敬しなければならないことを。
このような地にある私達が
勉強に運動に輝かしい前途を築かなかれば
ならんことを。
私達が遊びに熱中しきっているとき
私達に幸福感を与えてくれる太陽を忘れる
かもしれん。
しかし
太陽は私達に立ちふさがることなく
輝かしい太陽の子になれとばかりに
光のエネルギーをなげかけているのであると。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

夏休み 七郷中二 田島永子

 毎年一回はやって来る夏休み、もっと長いのかと思っていると、すぐに終わってしまう。夏休みは、学生だけにあるものだから、不思議だ。しかし、夏休みといっても、なかなか大変なのは宿題だ。私は計画表を、あんまりよくつくらないので、先生が、やれ、一人一研究だ、写生だ、習字だといっても、なかなか、やる気にならず、いつも一日が、つまらない一日で終わってしまう。そして、後になって後悔するのが、常である。
 いままでの夏休みは、これといって何もなかったので、あまり、学校に出向くことはなかったが、今年は、クラブ活動も、科学とバレーでは、毎日、行かなくてはならないし、といって、あまりおもしろくないバレーの練習をしても、後になって、疲れた疲れたの連発であるから、なかなかこの世はうまくいかないものである。他にも、朝早くから家を出て行かなければならない「数学教室」があるからまいってしまう。といって、家は農業だから、養蚕のほうもするし、忙しい毎日で、町の家みたいに、家族ぐるみでどこかちょっとした所へ行くなんてことは、まったくなく、母か姉とで、熊谷へ買物に行くか、母の実家へお客にいくのがいいところである。そして、家にいるものなら、母や父から仕事をしろとか勉強しろとか、その他、私の気にさわるようなことをいちいち言うし、ちょっと耳の遠くなった祖母は、何回同じことを言っても、ちっともわからないので、いやになってしまい、家にいるよりも学校にいる方がいいので、真面目そうな顔をして学校へ行ってしまう。そして、後悔ばかりしているので処置なしである。そして、姉をいつもうらやましく思う。
 姉は只今、アルバイト中である。高校生、大学生は、親からもあんまりくどくど言われないし、アルバイトもでき、お金が入る。小学生は、まだまだ遊びざかりでのんきである。中学生が、一番損な時代だと思う。しかし誰でも中学生になるのだから、しかたがない。
 こうしている間も、時間は、休みなく過ぎている。あと夏休みも、二十七日で終りである。私の頭の中は、いつも勉強、宿題という字が、ぐるぐる回っていて、それだけでいっぱいである。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

水あび 菅谷中二 中島庸雄

 去年の夏は、保健所の調査の結果、川の水が汚れ過ぎているとの理由で水泳禁止であった。自然川にも遊びに行かなかった。そのため僕達は実につまらない夏休みをおくった。
 それが、ことしは学校から公然とゆるしが出た。暑い日には水泳をしても良いと言われた。水泳の時の注意も夏休みを前にして先生から幾度もお話しがあった。
 こうした夏休みのある一日。きょうは水あびでもしないことにはどうかしてしまうと思われるほど暑い日、有線のベルが鳴った。
「もしもし。」と言う声は裏の家の和さんだ。
「おお、おれだよ。」
「庸さん、今日は水あびに行かないか?」
「おお、おれも今、お前に相談しようかと思っていたとこだよ。」
「いぐべい。」
「いぐべい、」
 時間は、午後一時から三時まで、それぞれ学校で定められた場所がある。
 電話機をもとにもどしたとたん、僕の頭の中には、いつも泳ぎなれた崖下の川の、ぶらさがっているくずの葉の様子や、川の浅い深いの加減や、その付近の川原の様子が一度に浮かんだ。大急ぎでお勝手に入ると、弟はもうごはんを食べている。
「兄ちゃん、おれもいくよ。」
 口をもぐもぐしながら言った。
「うん、おぼれない様に気を付けるんだよ。」
 僕は兄らしく注意した。
「平気、平気。」と弟。
 小さい時から泳ぎなれた僕らの川だ。僕も一言念を押したに過ぎない。母は弟の言葉を聞くと「いくらなれていても水を馬鹿にしてはいけないよ、入る前に体操をしてね。」と言った。その時「おおい。」
と声がした。見るともう利ちゃんや和さんが来ていた。忙しい、大急ぎ、飯を食った。
 僕らの部落には二つの川がある。北の方を流れているのが槻川。部落の真中だが僕の家からは南の方を流れ、東の方で槻川と合流するのが都幾川だ。僕らはいつも南の都幾川だ。こっちの方が水がきれいだし、僕の家からは近い。槻川の上流には小川町があり昔から和紙を作っていたりして、そのアクなどが流れて来るので水が汚れている。それに反して、都幾川の水は清流だ。水温も低い。この都幾川の通称崖下が本当の僕らの川だ。
 午後一時少し前、僕と弟、利ちゃん、和さんの四人はその崖下に行った。他に数人、早くもあびていた。午後の日は、川原を照りつけていたが水泳の場所は上の崖の大きなかしの木や雑木のかげになって好都合だ。ひとっきりむちゅうになって泳いだ。白い小石を水中になげて拾いあったりした。
 突然、「助けてー。」と言う声がした。僕は「ハッ」として、思わず声のする方を見た。
 『もしや、弟では。』この心配がよけい僕の心を乱した。しかし、それは小学校の四、五年位の男の子が、はしゃぎ過ぎて思わず出した声だった。その何でもない様子を見て取ると、僕は安心すると共に、「助けてー。」なんて悲鳴を上げたやつがにくらしくなってきた。弟はと見回すと誰かに飛ヤスを借りたらしく夢中で魚を追っていた。僕は自分の驚きが馬鹿らしくなったが、なお胸の中がむかついていたので悲鳴を上げたやつの方へ行って「騒ぐのは良いが、あまり変な声を出すなよ、おぼれたのかと思ってたまげるじゃあないか!」とどなる様に言ってやった。その子達は一瞬静かになったが、僕が元の場所へもどるとまた、「キャーキャー」と騒ぎ出した。僕も友だちと夢中になって泳いだ。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ヘミングウェイ著「老人と海」を読んで 菅谷中二 杉田全弘

 私は、この本をある雑誌の広告欄で見た。その雑誌にはこんなことが書いてあった。
 『これは、剛毅の文学だ。感情などみじんもない。非情だ。絶望だ。』私は、このことが、なんだかわからなかったので、読んでみようと思った。
 メキシコ湾に小舟を浮かべて漁をする老漁夫サンチャゴは、八十四日間も不漁が続き魚が一ぴきもとれなかった。しかし八十五日目遠出をして希望を托して海に入れたあみにすごい重みを感じた。かれは、それを三日間のかくとうの末つかまえた。ここまで読んで私はよかったなあと思った。長い間不漁が続きやっととれたと思ったらそれが今まで、取ったこともないような大きなマカジキだったのだから、彼も楽しかったにちがいない。
 しかし、その幸福もつかのますぐ不幸が、おとずれた。何と非情なことか。魚を舟にくくりつけて家に向う途中サメが血のにおいをかぎつけて、三、四回襲って来たのである。そのためマカジキは食いあらされ、老人は絶望した。しかし彼は、最後まで戦ったが、負けた。力いっぱい戦って負けたのだ。私は、ここを読んで男らしさを感じた。力いっぱい戦ったが負けてしまった。
 でも私はこれで、いいと思う。人間にとって結果はどうあろうとも力いっぱい戦うことが一番いいことだと思う。精一ぱいやったということでサンチャゴもそんなに、心残りはないだろう。
 人間が何か物事をする場合、その結果がよかったか悪かったかという事も、もちろん大事なことにはちがいないが、それよりも、もっと大切なことは、目的に向っていかに精一ぱいの努力をしたかということではないだろうか。
 私はこの物語りを読んでよかったと思う。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

「車輪の下」を読んで 菅谷中二 鶴岡節子

 この本の主人公は、ハンス=ギーベンラート。彼の短かった生涯を書いたものだ。
 彼の生涯とは、神学校入学のための準備、神学校の寄宿での生活・退学後の徒弟生活と分けられる。そして最後に彼の死後の人々の悲しみと、彼を死なせた周囲の反省が、書いてある。
 このうち私が、一番関心をもったのは、学校の寄宿舎での生活時代である。それはこの時に、ハンスがヘイルナーという友人をつくり、そのために彼は自分の歩むべき道を他にそらしてしまったからだ。
 このヘイルナー少年は人々から悪い少年としてあつかわれていた。でも私は、悪い少年だなんて思わない。彼をとりまく環境が、そうしたのだろう。一人でいる時のハイルナーは、詩を書き、詩を読み、他の少年たちと全く変わらない。
 ハンスは、この少年と親しくなるにつれ、先生からは注意人物として冷たくあつかわれた。そしてハンスは校長室によばれた事もあり、学問か友情かで、彼は私の思っていたとおり友情を選んだ。私は転校したせいもあって、友だちはいるが、なんでも話し合える親友がいない。親友のいるハンスが急にうらやましくなった。
 今までのハンスは、ただ勉強にはげんでいたのにどうして友情を選んだのだろうか。私はまだ、こういう事は未経験なので、よくわからない。でも、友だちやその他の人々とのつきあいがとても大事だという事は、私にもわかる。
 後にこの二人は学校を退学した。ハイルナーは、父がむかえにきた。ハンスも体が弱くなり退学となった。
 ハンスは自分から徒弟生活にはいり、ハイキングの帰り、酒によって川で死んでしまった。そして父のもとへ帰った。
 この時ハイルナーはハンスの葬式に来なかった。学問をすて友情を選んだ二人なのに。私はどうしてもハイルナーに来てほしかった。
 最後に車輪の下の意味について考えてみた。すると、神学校長先生が、ハンスに言ったことばを思いだした。
「へたばってはいけないよ。へたばったが最後、車輪の下に潰されていってしまうのだからね。」
 車輪の下とは、人生がいやになった人、世の中に負けた人々の生活する場所なんだなと解釈した。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

俳句 七郷中二 内田文三

キャンプして初めて食べよ飯盒めし
桑つみの背にひびくせみの声

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

思い出のJR大会 菅谷中三 岡部みどり

 JR大会―何もかも楽しかった。今まで一度も、こんな体験をした事のなかったわたしなので余計そう感じられたのかも知れない。
 七月二十五日。県営陸上競技場での開会式。これからいよいよ三日間の団体生活が始まるかと思うと、一瞬、緊張感におおわれたが、かなりと晴れた青空を仰ぐとその感じを飛び越えて清々しい雰囲気に包まれた。
 その夜は大宮市の歓迎会で過ごした。桜木中のブラスバンドは素晴らしかった。次々と流れ出る曲に吸い込まれる様に聞き入っていたあの時。忘れられない。
 二日目。大宮駅を出発し、吾野駅に向かった。いよいよ、吾野から正丸峠まで十三キロメートルの『ハイキング』が始まった。時々見上げる空は気が遠くなるほど青く澄み渡り太陽は頭上からぎらぎらと照りつけて来る。その上、ほこりと一緒に車が通るのだからたまらない。「もう、どのくらい歩いたのかな。」そればかり気になった。気にしながらも一生けん命歩いた。顔と足の底が燃える様だった。だれもが汗だくの顔で休憩の合図を待ちに待った。太陽は容赦なく照り続けている。そんな様子のハイキングだったが、今まで一面識もなかった他校の友達とのおしゃべりは何を話しても楽しく又、みんなの心を愉快にさせずにはおかなかった。
 二日目の夜。あのキャンプファイヤーは忘れられない。赤々と燃え上る聖火。それを取り囲む若人の顔。顔。顔。花火が打ち上げられた。その音は四方の山々に響き渡り、火花は、途方もなく広い空に飛び散り、そして、またたく間に吸込まれて行く。精いっぱい歌った歌。おもしろい演技にドッとわき立つ歓声。ここで結ばれた友情。あの日、あの夜の思い出が数限りなくわたしの目の前にまざまざと浮かんで来る。それらの思い出のすべてが、清純な心と若い情熱とを連想させた。
 参加者全員が、それぞれの深い感銘を心に抱いて、多大なるその『キャンプファイヤー』に終りを告げたであろう。
 夜、ふと目がさめた。「明日は、正丸峠から秩父公園まで十八キロの長い道程が私達を待っているのだ。」

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

おつかい 七郷中三 田畑幸子

 夏のある日の午後。
「ちゃこちゃん、工場へ行って、麦を持って来ておくれ。」
という母の声に
「ハーイ。」と、勢いよく返事をした私は、すぐ、リヤカーを持ちだした。
 真夏の太陽は、頭の上から、ぎらぎらと照りつける。風は、ほとんどない。大きな砂利が、ごろごろところかっている新道。端の草は、ほこりで、白っぽい色となり活気がない。(道端の草は、みじめなもんだ。これで自分では、ほこりをかぶっているのを、知っているのだろうか?)縁とは言えほこりまみれの、この草がかわいそうになった。
 リヤカーには、弟ふたりと「いとこ」がひとり、乗っている。この子達は、店へ買物に行くのだ。もうひとりの「いとこ」が、私のわきを歩いてゆく。このいとこには悪いけどリヤカーに三人も乗って、少々重いので、歩いてもらっているのだ。
 相変わらず、太陽は照りつけ、白いじゃり道が限りなく続く。ある家の前を通る。もうしおれかけた、そら色のあじさいの花が、「暑いね。」と声をかけているようだ。この大きな花は、一つ一つの小さな花によって、成り立っている。
 「私達のこの小さな心が、一つ一つ集まって、大きな日本をつくりあげているのだ。皆が、団結してこそ、この日本は成り立つのだ。あじさいの花は、そう私の心に思わせた。
 少し登り坂になってきた。リヤカーの三人が、重荷になってきた。しかし。白い砂利道は、まだまだ限りなく続く。この道を見たらうんざりしてきたのと同時に、重いリヤカーを、押すのがいやになった。上の弟に
「おりてくれ。」
と頼んだが、弟の答は
「やだね。」
と、それだけだった。
「なんで。」
 私の声は思わず、強くなる。
「なんでもよ。」
 弟は不服そうに、しかも、のろのろと答える。それは声だけでなく、私の方を見る目も不満そうで、おっくう気なようだった。この声を聞き、目を見ていたら、私の胸は、今すぐにでも、弟の顔をなぐってやりたいようにむかついてきた。
「章ちゃん、おりれば。」
 見かねてか、わきの「いとこ」が、私に加勢して口を開いた。
「おにいちゃん、おりろよ。」
 下の弟も、つられて言った。しかし、上の弟は、それには答えない。
「おりろよ。」
「なんで。」
 さっきと同じ文句が、もう一度続く。
「なんで、おりないんだよ。」
 だんだんけんかごしになる。
「楽してえからだよ。」
「姉ちゃんは、容易じゃねえんだからおりろよ。自分が楽するために、人が容易じゃあなくても、いいんかよ。」
 私の声は、どんどん強くなってきた。
「そんだって、やだい。」
「やさしいことばで相手を説き伏せることのできない人は、いかなることばによっても、説き伏せることはできない。」どこかで読んだ。そんな言葉が、私の心の中を横切った。しかし、もう強い声で言ってしまったのだ。
 今さらやさしい言葉で言うことは、私の意地が許せない。もう理屈を言っても同じだと思い、最後の切り札として私は言った。このことばでどうしてもおりて欲しいと願って。
「とにかくおりろよ。」
「やだね。」
 ついに私の心は爆発した。
「そんならいいよ。姉ちゃん帰るから、ひとりで麦持って来いな。」
 そういって、まわれ右をすると、すたすたと歩きはじめた。ちらっと「いとこ」の不安気な顔が見えたが、かまわず、家へ向った。ほんとうは、少し心配だったが、意地でも、ふり返らなかった。そのうち「いとこ」と、下の弟が心配になったので、ふり返って呼んだら、何かいいながらやって来た。
 「いとこ」のひとりは、時々ふり返っては「まだいる、まだいる。」
と、リヤカーの動かないのを気にしていた。私も本心は気にしていたが、意地でふり返らなかった。そして私の心の貧しさや、意地張りな、ひねくれた性質が悲しくなった。
 家に帰ってずい分たった。しかし弟は帰ってこなかった。
 夕方行ってみると、案のじょう、リヤカーはもとのままになっていて、弟はその中で眠っていた。私は、あきれているうちに、ムッとしてきた。弟に
「ぼくは、家へ帰れよ。行きたくないんだんべ。」
と少しきつい声で言った。弟は起きて不服そうに
「なんでえ。」
と言った。さっきの言葉を思い出したので、
「じゃあ行ってもいいから、リヤカーには乗るなよ、重たいんだから。」
「なんでえ、帰りにひいて行くからいいがなあ。」
 その不服そうな声は、私の心を、また、かき乱した。そして何回か言い続けるうちにまたも私の心は爆発した。
「そんなら、ひとりで行って、麦持って来いな。」
と言って、ふたりの「いとこ」と下の弟を連れて、さっさと店へ向った。店から帰ってくると、向こうから、さっきの弟が、リヤカーを引いてくるのが、目にとまった。とたんに私は
「あ、引いてきたがな。」(やっとわかったんだな。)そのうれしそうな声は、下の弟や「いとこ」には、かくせなかった。そして、さっきは悪かったと後悔した。リヤカーに麦をつんでの帰り道は、足どりも軽く、飛ぶように家へ向った。重いリヤカーも、とても軽く思えた。
 このおつかいで、私は、自分の悪い性質について、改めてしみじみと感じた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

「石川啄木」を読んで 菅谷中三 加藤昌之

 ぼくはこの本を読むまでは石川啄木がどういう人で、どんな人生を送ったかということをあまりよく知らなかった。ただ知っていたことは、明治の歌人で若くしてこの世を去ったということくらいだった。でもこの本を読んだ今もあまりわかっているとは言えない。
 啄木は、明治四十五年(1912)に二十六年という短い人生を終えた。一口に言って啄木の人生はあまりおもしろかったとは言えない。啄木は最期まで金のないことで苦しんだのだ。啄木が結婚してからの啄木一家は、いつもちりぢりばらばらで生活していた。金がないのでそうしなくては生活を続けられないのだった。
 啄木は職業や職場を転々とした。自分のうまれた土地で小学校の代用教員をやり、それから北海道へわたり、いろいろな新聞社をはいたり、やめたりした。東京に出てからの小説をかいて生活をすることもうまくいかなかった。啄木はそこでいろいろなことを考え、悩んだ。啄木はとても不幸な人だったと思う。啄木の小説などが啄木が生きている間にどんどん売れ、有名になっていればこんなに苦しまなくてもよかっただろう。病気にもならず、もっと長生きして、よい作品をもっと残していたかもしれない。啄木は自分の小説が売れずに金ができないので、金田一京助など多くの人たちに金のことで迷惑をかけた。
 このような啄木にとって親切な人たちがいたからこそこうして多くのりっぱな作品を残すことができたのだと思う。このような人たちがいなかったら、小説をかいて生活していくことは非常に困難であったことだろう。できなかったかもしれないと思う。
 啄木は明治四十三年(1910)に起こった幸徳秋水らの「大逆事件」に大きなショックをうけた。この事件の事で啄木は政府に対して強い批判をした。このとき啄木はこの事件の調査などに、病気で熱のある自分のからだに無理をしてまでもその記録を残した。こういうところが啄木のりっぱなところだと思う。
 啄木はとても不幸で気の毒な人だと思ったが、貧しくて苦しんだからこそあれだけのりっぱな作品が残せたのだと思う。もし啄木が金のことでは全く苦労のいらない生活をしていたら「石川啄木」という名は、こんなにも多くの人に知られなかっただろう。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

もういわないで 菅谷中三 田中ひろみ

「高校入試が近づいたから 今のあなたに必要なのは
  一に勉強
  二に勉強
  三にも勉強よ」
母は言う。
「もうそんなにいわないで やめてよお母さん。」
 そんな時の私の頭の中は満員電車に乗った時のように、いらだってくる。
 「もういわないで。自分のことは自分でしまつするから……。」

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

人気 七郷中三 小林靖弘

 ある中学校にひとりの変った生徒がいた。
その生徒の名前は、林一郎といって、最上級の三年生だった。一郎の性質は短期で無口、その上非常に孤独だった。しかし、一郎は成績はよかった。クラスで二、三番はとっていた。しかし、どういうわけか、一郎は学級委員にはなれなかった。理由はやっぱり、あまり目だたず、人気がなかったからであろう。一郎はそれが一つの悩みだった。一郎は、いつもそのことが頭の中にこびりついていた。
「どうしておれは人気がないんだろう。顔が悪いのかな。スタイルが悪いのかな。それとも口べたなのが原因なのかな。」といろいろ人気を出そうと一郎は苦心した。しかし、それまでは一郎はそれほど人気が悪くなかった。一学期の成績は一郎が一番だった。けれど、一郎はその「一番」ということばを恨んだ。それはどういうわけか「人気」のせいだったのである。
 夏休みは早くも十日過ぎた。その日はちょうどそのクラスの登校日だった。一郎が教室にはいって行くと、女生徒も男生徒もこんな話をしていた。
「今度の期末テストはだれが一番だと思う。」
「それはなんといっても林だろう。」
「どうして。」
「だって林は社会、数学は一番だったし、それにあいつは特殊課目が得意だからな。」
「それによ、あいつは社会百点だったぜ。」
「しかし、おれはやっぱり実力からいって学級委員の井上だと思うな。」
「じゃあ林に聞いてみようか。」
 こんなような話し声が聞こえてきた。しばらくして何人かの男が一郎のまわりにやってきた。女生徒も何人かやってきた。そして、クラスで一番背の高い関根三郎が一郎に話しかけた。
「おまえ通信票よかった?」
「まあね。」気軽に言った。
 今度は反対にクラスで一番背の低い飯島清が言った。
「順位、何番だった。」
「・・・・・・・・。」一郎はしばらく黙っていた。しかし、一郎は初めて一番をとってうれしかった。だれかに言ってやりたいと思った。そしてちょっとうぬぼれるつもりで口がすべった。「一番だった。エヘヘ。」一郎は微笑した。それまで静かだった教室が急にざわざわしてきた。「おまえすごいな。」「すごいな。」という声がしきりに一郎の耳にはいった。ときには「一番なんてゼイタクだ。」というユーモラスな声も聞こえた。一郎はうれしかった。
(もうこれでおれも人気がでるだろう。)
 一郎は心の中でこう思った。ところがどうだろう。授業が終わって一郎が帰ろうとしたら、五、六人が集まって話をしている。仲間に入れてもらおうと思って一郎は窓ぎわに腰かけて話を聞いた。そうしたら一番小さな清が一郎がいることに気がつき、一郎にむかってこう言った。
「天才はこんなくだらない話を聞くより家に帰って勉強したほうがいいんじゃないん。」
 みんなもこれと同じようなことを言ってからかった。その時、一郎はみんなは冗談を言っているのだろうと思っただけだった。だけど一郎はちょっとそのことを気にしながら校門を出て行った。少し行くと堤で同じ組の女生徒二、三人がスケッチしていた。一郎はその人達にさようならを言った。しかし、どういうわけか女生徒はさようならを言われなかった。それどころかこんなことばがかえってきた。
「秀才さん、道草をくわないで早く帰って家で勉強したほうがいいんじゃないん。」
 そのことばにつづいて笑い声が聞えた。一郎は目の前が真暗になった。さっきの希望が完全に裏切られた。一郎の頭の中に「一番」という文字がぐるぐる回った。一郎は夢中で走って家に帰っていった。そうして一郎は通信票をもらった時はていねいにそれをあつかったけれど今は机の引出しから通信票を乱暴に引っぱり出して成績を見た。「5」という数字がばかにしたように笑っていた。
 次の日はクラブ活動で学校に行った。きのうのことがもう他のクラスに伝わったらしく、クラブの人も何とかいって一郎をばかにした。「どうしておれは成績がよいのにばかにされなくちゃならないんだろう。こんな話しがあるもんか。」一郎は無性に腹が立った。きっとみんな急に成績の上がった一郎に対して深いしっとの気持ちがあったんだろう。
 (どうして順位なんかいってしまったんだろう。急に人気なんか上がるもんじゃないし、林一郎のバカヤロウ)一郎はいまさらながら後悔した。
 召集日のできごと以来一郎は、なおいっそう無口で、そして、孤独になっていった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月
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