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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

『むぎぶえ』

『むぎぶえ』18号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷中学校、七郷中学校の児童・生徒の作品です。

「シュヴァイツェル」を読んで 七郷中一 小林より子

 八月十八日、私は学校で「シュヴァイツェル」という本を借りた。シュヴァイツェルについて、私は、何も知らなかった。読んでから、本当に心をうたれてしまった。それは、シュヴァイツェルが、子供たちと遊んでいる時でも、仲間は、同じようにつきあってくれないのです。そのわけは、シュヴァイツェルのおとうさんは、牧師だからです。牧師は村の人から、先生と言って尊敬されていたのです。牧師の家族は何かと、ふつうの人より上の人でもあるかのように見られていたのです。それが、いやで、いやで、たまらなかったのです。
 私は、シュヴァイツェルの仲間が、区別なくしてくれるようならいいなと、本を読んで思った。
 シュヴァイツェルは、一八七五年、一月一四日に、フランスの東の国境に近いアルザスのカイゼルスベルクで生まれた。カイゼルスベルクという町は、十五世紀のえらい宗教家ガイレル・フォン・カイゼルスベルクが、出たところなのだ。
 ある日、こんなことがあった。それは、灰色のひげをはやしたユダヤ人を、村の子供たちが、からかったり、いやがらせをしたりした。でも、ユダヤ人は、少しも腹をたてず、少しも怒らないしんぼう強いのに感心したのだ。
 私が、思ったのは、後の博士が、暗黒の大陸に渡ってしんぼう強く医師をつとめていたのは、あの時、ユダヤ人が子供にからかわれていた時、少しも怒らなかったあのしんぼう強いのを思い出したからだろうと思った。
 ある日、びっこの年とった馬が、屠殺場に連れていかれるとき、となりの家の馬車を借りて村をひとまわりした。馬は息を切らして苦しがっていた。これを見た時、シュヴァイツェルは、今までの楽しみを忘れて、気の毒なことをしたと思った。このようなことが、たびたび重なって、シュヴァイツェルは、動物をむやみにこき使ったり、何でもないのにいじめたりすることは、よくないことだと感ずるようになった。それからは、動物をいじめたりしなくなった。
 私の近所の子は、小さい犬が「キャン、キャン」鳴いてついて来た。そしたら、犬をつかまえて沼へほうりこんでしまった。そして笑っていってしまった。でもすぐ出してやったので、よかったと思った。その子は、動物をいじめたりする事をよくない事だと思っていない人だと思った。
 シュヴァイツェルは、友だちといろいろなことがあってから、正しいことであると、感じたならば、なんといおうと恐れない勇気のある少年になった。
 幼いときから、シュヴァイツェルは、父からピアノを習った。教えてくれる先生にほめてもらうことがありました。
 この本を読んで、私は、シュヴァイツェルの時代を今の時代よりきびしいような気がした。
 一九〇四年、十九才の十月のある日、パリ伝道教会のパンフレットを読んだ。パンフレットに書いてあったのは、フランス領赤道アフリカ地方の土人のみじめなありさまが書いてあった。そのあとに、アフリカには、一人も医者がいないので、アフリカの医者になってくれないかということだった。そして、アフリカに渡る決心をした。アフリカに渡るまで、医学の勉強を一生懸命にした。そして、ついにアフリカに出発したのであった。アフリカに渡ってから、レプラ(ライ病)、眠り病、マラリヤ熱、セキリ、心臓病、はれものなどを、つかっていない鳥小屋でなおしたのである。その鳥小屋は、とても小さく暑かった。
 よくそんなところで、診察できたなあーと私は、つくづく思った。
 博士に病気をなおしてもらった者、命を助けてもらった者が、涙を流して博士が帰国するのを、別れを惜しんだ。
 それゆえ博士は、アフリカの住民に感謝されているいることを、私は思った。
 一九五一年にドイツの出版者組合から、平和賞を受けた。とくに名誉なことは、一九五三年十一月に、ノーベル賞の受賞者になったことである。
 これをもらった時、博士はどんなに喜んだろうと思った。今までしたことが、アフリカの住民にどんなに役立って喜んでもらったことか、シュヴァイツェル博士は思っただろうと、私は思った。
 その努力が、ノーベル賞の中にはいっているのだ。
 シュヴァイツェル博士は、アフリカの神様だと、私は思った。
 アフリカの住民たちは、シュヴァイツェル博士をいつまでも忘れないであろう。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

※本文中に、現在では不適切な語句や表現を含むものがありますが、当時の時代背景を含めた資料として原文のままにしました。

「北里柴三郎伝」を読んで 菅谷中一 鈴木久

 北里柴三郎の伝記を読んで、ぼくが一番目に感じたことは、つぎのことである。北里柴三郎のもっともえらいところは、人類のために細菌学の必要を強く感じてそれを最後まで研究しぬいたことでなく、実際に世の中に応用したことである。ぼくなんか、勉強の計画などたてても二、三日たつとつい遊んでしまう。柴三郎がいろいろな困難をおしのけて、日本医師会や民間の医者の会にはいって、実際につくしたことなどは細菌学の研究とともに、いまでも強くぼくの頭にのこっている。柴三郎は、ほんとうにがんばりと意志の強い人だと思う。
 二番目に感じたことは、柴三郎がけっかくのりょうよう所をたてて、けっかくの人をちりょうしたが、そのときの礼金の一部を研究に終わりはない、のちのためにとっておこうといってしまっておいたことである。はたして、それがのちになって、北里研究所をつくるのにたいへん役にたった。ぼくは、このことが、勉強やその他のものにもあてはまると思う。きょうの予定だけやってしまえば、あとは、遊んでもよいというのではなくすこしでもほかの勉強をやっておけば、それがのちになって、なにに役だつかわからないからだ。
 三番目に感じたことは、柴三郎がせいけつにしていたことである。けっして、小さいことでもばかにせずに、ていねいにやった。つくえの上は、いつもきちんとなっていて、ひきだしをあけても、ピンセットやナイフが整備してあったそうです。
 文字も正確で、げんこうを書いてもきちんとしていた。また、毎日の衛生にもひじょうに注意して、そのことを講習会などで、いっぱんの人々に熱心に説明した。これは、柴三郎が日常生活に衛生が必要だということを強く感じていたからだと思う。この三つのことは、ぼくが気をつけなければならないと思いました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

「やせぼっこ」を読んで 菅谷中一 中村かおる

 これは京都の精薄学園長の記録で、いろいろな性質の子供たちの毎日の生活をユーモラスに書いた本だ。
 一番最初に感じたことは、もう少し国家でこう言う人たちのことを考えてお金を使ってもよいと思った。
 この施設の子供たちは、野菜作り、たきぎ取りから、便所のくみ取りまで自分たちでやって、すこしでも生活を豊かにしようとしている。
 それにしても、先生たちのねばり強い根気のいる仕事ぶりには、おどろいた。
 よほど信念がなければ、このような仕事には入れないと思った。
 先生たちは、私たちの考えではどうしようもないと思われる子供たちを、根気よくみちびき教育し、教えこんで就職させる。知能指数二十五から七十六までの子供たちの就職指導は一番たいへんな仕事で、年齢が十二才から二十才までと幅があり、しかも精神年齢は十二・三才という所で、何をやっても、スロースローで自分の衣類のせんたくもそうじも出来ない子供が多い。
 だからと言って袋張りや、レンガ作りとかの一定の作業ばかりでは、進歩がないし、子供たちのためにもならないので、どんな仕事にもむく体力と能力を付けさせるための訓練をする。
 そのためには、半年ぐらい通勤で社会勉強に出させられる。
 主に動物園とかデパートのおく上の遊園地の子供汽車のキップ売りとか運転とか、会社の給仕さんの仕事である。
 たまには直ちに就職でき「ヘエー、これが学園の子供さんですか。」とおどろかれる場合もある。これは指導者ばかりでなくて、やとい主の誠意がなければだめな場合が多い。
 しかも、どうしても就職できない子供は、成人施設に収容されるわけですが、そう言う施設は、まだまだたくさん建設されなくてはならないのに、日本ではいつのことやらと考えさせられる。
 おもしろい例は、けんじという少年の話で、かれはいつも青いはな水をたらしていて、洋服のそででふいて先生や保母さんをこまらしていた。
 先生たちは、かれを見るたびに紙を渡してはなをかんでごらんときれいにさせていたので習慣になり、先生の顔を見ると、保母さんからもらった紙をポケットから出して「鼻をかんでごらん」と自分に言いきかせて、「プーッ」とかんでいた。鼻たれ大しょうだったそうである。そんなかれも、せんべい屋に就職してからは親方顔まけの腕前になって、実に正確にせんべいの元のモチをけずれるそうです。
 こうした先生たちのエネルギーの強さ、愛の深さは、とうてい普通の人では考えられない。しかも給料は安いのです。
 これだけのことが分っただけでも、私はこの本を読んでよかったと思いました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

「坊ちゃん」を読んで 菅谷中一 市川草子

 坊ちゃんの少年時代って、何とやんちゃぼうずだろう。読みはじめの三ページめでおもわずふき出してしまった。
 友だちにおりられないだろうとからかわれて、まけるものかと二階から飛びおりたり、ナイフを見せたら、よくきれるかといわれ、自分のゆびを切ってしまったり、まけずぎらいでは人一倍なんだな。おとなになっても、どうして教師になったかわからなかったり、せんどうの赤ふんどしのことをひひょうしたり、先生方にあだなをつけたりして。
 特におもしろいあだなは、英語の教師の古賀につけたうらなりだ。うらなりとは、小学校のとき女中の清にうらなりのとうなすばかりたべるとこういうかおになるといわれ、そのまま信じている。うらなりのかおとはどういうかおだろう。想像するだけで楽しくなる。それから、山嵐とたった一銭五厘を受けとるの受けとらないので、けんかをしたり、こういうところは、わりと単純な人だと思った。
 でもいまでは、こんなことでは、生活していけないと思う。自分の将来のことを考えないで何となく学校にはいり、何となく教師になったり、こんな無責任なことではいけないと思う。もっと自分をたいせつにし、自分のことを考えなければいけないと思う。この坊ちゃんのことは、あくまで、小説の上のことだからつうようするのだと思う。
 それから、先生にいたずらのできる学校があればいいと思う。今はみんな勉強、勉強だ。こんなに楽しい学校があったら、ゆかいだろうな。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

おねえさんへ 七郷中一 松本加奈江

 おねえさん、お手紙ありがとう。
 こちらのお盆は、【八月】二十三日からだそうです。おねえちゃんのしゅうしょくもやっと決まったようです。
 ことしは、しゅうしょくりつが悪く、しゅうしょくできない人が多いそうです。おねえちゃんは、今の母校へのこってじむをし、そのあいまに珠算のこうしをやるそうです。いまになってみると、銀行へ受けた方がよかったなどとぐちをこぼします。そして、おかあさんに、「ぜいたくいってんじゃないの」といわれています。これでおねえちゃんのことが終って、やっと一安心。
 又おにいちゃんは、中学三年とは思えないくらい、のんびりしてまるで小学生ぐらいの気持ちでいます。こんなふうだから、おかあさんとケンカになって、このごろちょくちょくします。聞いているほうが、つらくていやです。
 みんな顔色をかえていっしょうけんめいべんきょうしているのに、おにいちゃんは、そんなこと、おかまいなしでぜんぜん気にせず、ただぼうぜんとして見ているようなものです。だからおかあさんが、気をもんで二人でケンカになるのです。
 おにいちゃんはおにいちゃんで「自分の方法でやるから、心配すんなよ。うかればいいんでしょう。うかれば」といってんばり。いつもこんなことをくりかえしているようなもの……。
 私もことしは、毎日といっていいほど外へ出ていますから、おねえさんの家へいけそうもありません。おかげでくろい色が、なおさら真黒になっています。
 おねえさんの家よりは、すこしは涼しいと思いますから、早めに家を出て来ませんか。
 おかあさんも、おねえさん達がくると、うるさいうるさいといっていますが、さとるの顔を見るのが楽しみのようです。いそがしくなかったら、早めにきたら?歓迎しますよ。
 毎日暑いから、からだには気をつけて。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

山頂の夜明け 七郷中二 田幡昇

 八月三日、四日にかけてのキャンプで二日目の夜明け雲取山の頂上に立った時のことが一番頭に残る。
 あたりは朝つゆにぬれてしっとりとしてまだ少しうす暗かった。目をこすりながら清らかな朝風を思いきってすいこんだ。その時、私は、なんだかきびしい世界から解放されたような、すがすがしさが、体の中にわき上ってくるようだった。その気持ちは最初に目にとまった、雄大な富士山によって、おこされたのかもしれない。あの長く伸びたすそ野の下に、どしっとあたりの黒々と眠る山々を見おろすように、ひとり先に目ざめて、青空に立ち上った勇ましい姿を見ていると、「私もあの山のようになりたいあなあ」と胸がおどる。
 富士山からだんだん目を近くにうつしてくると、すばらしい雲海が目に入った。字のとおりまださめぬ谷や、山と山との間を一面に埋めた雲が海に見えるのである。その雲を見ていると、雲はたえず動いておもしろい現象をあらわしている。雲が家族のように見えた。一つの小雲がだんだんかたまりあって一つの大雲になって去っていく。
 そこには、運命のつらさを物語る劇が展開されているように感じさせられた。東の空は一層赤くそまり、日の出も近づいてきたようだ。私は富士山がよく見える場所に位置をかえた。と言うのは、日が出ると富士山の一部がぴかぴか光ると言う先生の話からである。そこの所からは、富士山が、よりいっそう美しく見えた。
 私は、きのうからのつらかったことを投げ出そうと足もとの手ごろの石をしっかりつかみ、力いっぱい富士山にむけて投げた。その時の気分は何とも言いあらわせぬ快さであった。
 その中、まっ赤に日やけした雲から太陽が堂々と顔を出した。その瞬間、「わー」と皆の歓声が上がった。「見えた!見えた!」見事なすばらしい瞬間だった。太陽が輝き出すと、富士山の一部から「ぴかぴかっ」と勢いよい光を放ったのが目を射た。太陽が高くなるに従って、富士山の一部も負けずに、よりいっそう光った。
 朝の六時とは思えぬほどのまぶしい太陽を浴びて高山植物の咲き乱れる急斜面を美しい花にさよならを言いながらおりて行った。
 私は、ここに咲く花をうらやましく思った。と言うのは美しくりっぱな山、すがすがしい雄大な景色、朝のさわやかな気分の中にのびのびと育つ植物たちは、一生懸命に勉強する私たちとはくらべることもできぬほどの幸福な存在だからである。
 私は、何だか一人この山に残っていたくなった。しかし、私たちは、これから勉強してりっぱな社会人にならなければならないのだと自分に言い聞かせ、おしいけれどあきらめ。自然のよさをかみしめながら山小屋にむかって下っていった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

草むしり 菅谷中二 岡部みどり

 夏休みも終わろうとしているある日の夕食後でした。母から「花だんに植木ばかり植えても草むしりをしないね。」と言われたので、わたしはあしたしようと思った。
 翌日は、朝からギラギラと太陽が照りつけてとても暑くなりそうだったので午後からすることに決めた。本当は、草むしりなんかしたくないのだが、季節ごとに美しい花を咲かせる草花のためにと思い、大きいむぎわらぼうしをかぶり、しぶしぶ外に出た。
 うちの花だんは、石で五つに区切ってあるので一番草が少なそうな所を見つけてむしり始めた。しばらくかまわないので一面に草がはえている。植木の好きな父は、植木市で買ったり、知り合いの人から分けてもらったりするので花だんには、すき間もないほど植えてある。その中にしゃがみこんで一生けんめいむしった。相変わらず夏の日ざしは強い。
 草というものは、種々さまざまなもので、地面にはいつくばっていてなかなか取れないものや、ひねくれて人【他人?】の領分まで伸びているもの、コヤシもやらないのにスラット背の高い草もある。根もとからつかんで思いきりひっぱった。何回もくり返しているうちに少し疲れたので、立って青い空を見上げた。夏の日ざしがまぶしかった。ちょっと目をそらすと柿の木が緑色の葉と、はちけれんばかりの実をいっぱい、しかも重たそうにつけていた。
 しばらくあたりの木々に見入っていると縁側の方から、母の声がした。「いつまでも、休んでいちゃあなかなか終らない。」わたしはハット思ってまた草をむしり始めた。流れ出る汗をふきがんばった。ふと自分の手を見ると、つめの中に真黒などろがいっぱいつまっていた。次の草をむしろうとした時、目の前の大きな葉の下から黒い、油虫に似た虫が出て来た。何だろうと思って、木の棒でちょっとつついたおしりから白いものをシュット出していちもくさんに逃げて行った。弟に話したら「ヘップリムシかもしんな。」と言ったので、わたしは思わずおかしくなってゲタゲタ笑ってしまった。もうだいたい終わるころかなと思って、立ってあたりをふり返ると、土が生き返ったようにいきいきしていた。
 これで雨さえ降れば申し分ないと思った。かれこれ二時間位たっただろうか、始めは気が進まなかったけれど、やっている内に、それほどいやでもなくなった。わたしは汗をふきふき「今、何時ごろ。」と聞いてみた。弟が「もう四時半になるよ。」と答えた。太陽もそろそろ西へ傾き始めて、草をむしり始めたころに比べるとだいぶ涼しくなってきたようだ。柿の木のセミのなき声が、一だんと大きく、にぎやかになってくる。
 まだきれいになっていない所もあるが、ここらで一休みしようと思い水道に行って手を洗った。縁側で休んでいると母が冷たいジュースを作ってきてくれたのでグッとひといきに飲んだ。おいしかった。
 飲み終わってから花だんにはいり、再び仕事に取りかかった。いろいろ考えているうちいつ来たのか「もうすぐ終わるね。」と言いながら母が、花だんにはいり一緒にむしり始めた。わたしはそろそろ疲れてきたところなので助かった。もうすこしのしんぼうだ。
 日がかげったせいか、初秋を思わせる風がわたしと母の間を通り過ぎて行った。見ると『おいらん草』の赤い花びらのまわりにハチが何匹も飛び回っている。きっと花のみつを吸いに来たのだろう。夏休み中、英語部で教わった英語の歌を口ずさみながらむしった。もう少し。もう少し。―終わった!わたしは思わず、両手を空に伸ばした。母も立ち上がってニコニコした。なんだか指が太くなったような感じだ。
 後ろの方をふり返って見ると、草花が気持よさそうに、通り過ぎる風に幹をゆらせていた。そのまわりには黒い土が今にもしずみそうな太陽に照らされている。とてもうれしかった。わたしはむしった草を畑のすみに置いて、もう一度自分のむしった花だんを見回した。とてもすがすがしい気分だった。花だんのすみの『秋海棠』が緑色の葉に淡紅色の小さな花をつけて深呼吸をしているようだった。母は夕食の用意があるのでもう台所の方へ行っていた。わたしはスキップをして、水道に行き手を洗い、顔をふき汗をぬぐった。手を洗ったバケツには、よごれた水が漂っていた。
 「何時ごろかな。」と思いのれんをまくって時計を見ると五時四十五分をさしていた。夕食にはまだ間があるのでろうかとげんかんのそうじをした。
 おぜん立てをしたり、食器を出したりして夕食。母が「きょうは働いたからご飯がおいしいでしょう。」と笑いながら言った。わたしは口いっぱいご飯をほおばりながら、「うん。」と答えた。夕食はいつもより、おいしかった。働く事は楽しということばをよく聞いたことがあるが、そのことがわかったような気がした。うち中、楽しく夕食をすませた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

日の出 七郷中二 宮本入江

たのしみに、日の出を待っていた。
真赤な太陽が、
三日月形に、雲海の上に頭をもちあげた
「あ、すてきだ」
とたんに、まん丸になり
ピカピカ輝きはじめた。
ただただ 美しいなーと
あっけにとられていた私だったが
ふと、こんなことを考えていた。
あの太陽には
きっと なやむことない 明るい心と
大判、小判 ダイヤモンドなどがぎっしりつまって美しく光っているのだろう。
明るい心!! 明るい心!!
私の心には、いつのまにか、青少年の 12章が
叫びをあげていた。
「理想と実践、これがわれらの生命だ。
 たくましく………。」

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ガ 七郷中二 吉場晴江

夜、勉強していた。
いつのまにきたのか、「が」がうるさく回りを飛びまわる。
体をすくめて、「が」の攻撃から身をさける。
「が」が机の上にとまった
二つの目をギラギラ光らせている
私をにらみつけているようで、さむけが出るようだった
それをとった
だが、すてる気にはならなかった。
筆入れのふたを、そっとかぶせた
さすがの「が」もバタバタあばれる
「あんたが悪いのよ、勉強が終るまでがまんして」
そうつぶやきながら、また鉛筆を走らせた
まもなく終わり、ふたをとった。
その「が」はうれしそうに
家の中はこりたのか
勢いよく外へ飛んでいった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

チビ 菅谷中二 松本文江

 私の家にはチビという、子ねこがいます。チビは隣りからもらったものです。胸、おしり、足の先の所が白で、ほかの所は黒と灰色のしまで、尾の長さは二十センチで、生まれてから約三ヶ月です。チビはようやく自分の名まえを覚えました。初め「チビ」「チーコ」「チーちゃん」と呼んでも、ふりむきもしませんでしたが、このごろは名まえを呼ぶと私の方へ来ます。ですから、いたずらしても強くしかられません。しかし、どうしても、強くしからなければならないときがあります。それは、のみを取ってやる時です。初めのうちは、おとなしくしていますが、そのうち、じゃれて暴れます。その時は頭を、ぽんと、一、二回打つと、また、おとなしくなります。しかし、また暴れるので強く、一、二回たたきます。これでも、ききめがないと、「もう取ってやらないからね。」といって、ほうりつけます。障子などに強く頭などを打ちつけると、けがなどしなかったかと思い、心配になってきます。
 それから、チビにはこまったクセがあります。それは、うんちをどこにでもしてしまうのです。そうすると、祖母にしかられますがチビはしらんふりしています。このこまったクセはいまだになおりません。でも、チビはねずみを取ったり虫を取ったりすることは、とても、じょうずです。チビはよいねこです。悪いクセをなおしてくれれば、なおよいねこになるでしょう。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

太陽 菅谷中三 秋山文子

太陽が
ジリジリジリと照りつける。
暑い!
どっと 汗が流れ出る。
空を見上げたら
まっ赤な太陽が笑っていた。
「もうまいったのかい。」と
私に はなしかけている。
アハハハハ………。
私も笑った。
太陽なんかに負けるものかと。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

終戦二十周年を迎えて 七郷中三 馬場悦子

 八月十五日終戦記念日。私たちも天皇皇后両陛下の映し出されているテレビの前で二十年前無惨な戦争のために命を奪われた三〇〇万人の冥福を祈り黙とうを捧げた。私には戦争という事は、よくわからないがテレビで見たり父に聞いたりしたことから戦争という恐ろしさがわかった。戦争でわが子の命をうばわれた一族の一人が塔の前でこう言った。「息子よ、おまえの死は、むだではなかった。」私もそう思う。あの人たちが命をかけて戦ってくれたからこそこういう明るく平和な日本を築きあげることができたのだと。でもどうして、戦争なんかやるんだろう!命の奪い合いがどうしてそんなに必要なんだろう……。
 未来を夢みているまだ人生の半分も生きないでいる若い青年たちがどうしてあんな戦争のために死ななければならない理由がありますか、あれでは、なんのために生まれて来たのかわかりません。
 父が私に人間は「皆必要だから生まれて来たのだ。必要のない者は生れては来ない。」と言ったことを思い出した。その若い人たちも戦争には必要だったかもしれない。でもそれは違う。人間が必要なのではなく、戦争が必要ないのです。私は、塔の中にいる三〇〇万人の為にも原爆で亡くなった人や、受けて今もなお苦しんでいる人たちの為にももう絶対に戦争という無惨な命の奪い合いはやるべきでは、ないと思います。
 それにひきかえ、ベトナムでまた戦争が始まっていることは、塔の中に静かに眠りかけている人をまた不安に陥らせたことだろう。
 塔の中の人々も、もうこの塔の中に誰も入れたくないと思っているに違いない。この塔の中の人々を静かに眠らせてやる為にも私は二度と多くの人たちを苦しめる戦争は、おこさないように私たち各自が自覚すべきだと思います。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

まむしにかまれた私 七郷中三 新井昭子

 今年も又、農家にとって、“猫の手も借りたい”と言われるような、農繁期がやってきた。ある日のことだった。学校は半日で終ったので、少しでも、父母の手伝いをしたいと思い、急いで家に帰り、父母のいる田に飛んでいった。耕地の真中で、腰を伸ばすひまもなく、夢中で植えた。手に持つ苗も、「早く植えて下さい。」と叫んでいるかのよう。父母のようには早く植えられない私だが、それでもどうにか父母について行くことができた。手に持っていた苗がなくなったので、足を一歩前に出した。その瞬間、「いたい。」と私は叫んでしまった。その時、私は、何をされたのかわからなかった。あわてて水の中を見ると、まむしが、ぐるぐる回っていた。私は、それを見た時は、いまにも、ひっくりかえらんばかり、息も止まりそうだった。すぐに病院へ。約七キロもある道を、父は、私を自動車にのせて走った。道程は、あろうとも、大きな病院に行かなければ、血清がない。こうなると、時間を争うことになってくる。自動車なので、二十分位で着いたが、足はもうだいぶはれていた。途中、電話で知らせておいたので、治療の用意をして待っていてくれた。すぐ麻酔をかけられ、かまれた所をきられた。まむしの毒が回っているので、血を出してしまったわけだ。それから先は、夢中だったので、はっきりと覚えていないが、ただ、先生の言葉が聞こえた。「二〜三日入院していなさい」と。
 母が病院へ来たのは、五時近くだった。七時ごろから注射が始まり、終ったのが十一時ごろだった。その注射のためか、胸が苦しくて、そして、手足の自由がきかず、落着いて眠ることができなかった。御飯も食べられなかった。
 翌日、私は、全然自分の体が動かないのに気がづく。起き上がれない。昨日のように苦しくて、御飯も食べられないのだ。ただ、真青になって、ベットに横たわり、先生がする注射が恐ろしくて、恐ろしくて仕方ない。朝の十時から、午後の二時まで、それでもその注射だ。夜になり、少し食欲がでてきた。けれども、ほんのわずかしか食べられなかった。それから五日目、「今日当り歩けるだろう。」と思い、寝台から足を下げて見た。足が「ビーン」としびれてくる。私は足が痛くて寝台の上で苦しんだ。
 そして八日目、私は寝台から下りてみた。やっぱり、足がしびれてきた。私は、倒れそうになった。「ずっとこのままだったら、どうしよう。もう七日目だ、八日目だ」と思いながらも、日は過ぎていった。
 そして十一日目、「今日は、もう歩けなくちゃ。」先生は、私の所へ回りに来てそう言った。私は恐くて仕方がなかったが、おそるおそる母につかまり、思い切って歩いてみた。「歩ける、歩ける。」私は、とってもうれしかった。それから、二〜三日過ぎて?先生から「近いうちに退院してもいいですよ」と言われたとき、私は飛び上がりたい気持だった。そして、二週間の病院生活を終えて、私は、家に帰った。この時、私は、“自分の家ほどよい所はない”と思った。四時間かかる注射を九日間続け、十日間歩けなかった私。今でも畑さえ行きたくない気持だ、まむしにかまれた日から、約一ヶ月というものは、今でもはっきり覚えている。私にとっては、一生忘れられないことだろう。このようなことは二度と繰り返したくない。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

J・R大会二日目 菅谷中三 大塚勇

 JR大会二日目、六時に起床。しかし、実際はみんな五時頃から起きて騒いでいた。また二、三度しか顔を合わせていないが、まるで長年付き合って来た友のようである。ランニング一枚で外へ飛び出してすぐ体操、そして合唱。朝のすがすがしい空気が膚にしみ込み、若い僕等の歌声が、大宮公園の森にこだまする。歌を歌っていると、心の底からうれしくなるような、そんな気がした。
 僕等は八時に大宮駅を出発し、吾野駅に向かった。途中、川越市、飯能市で交歓会があった。川越市や飯能市などの生徒が、僕等のために駅に集まって手を振ってくれている。この暑い最中を。そう思うと少し悪いような気もした。
 吾野駅に着いたのは、十一時頃だった。さあ、これからが本番、正丸峠までのハイキングそしてキャンピングだ。幸いその日は涼しく絶好とは言えないまでも、夏にしては、まあまあのハイキング日和だった。
 荷物は、トラックで運んで行ってくれたが歩き始めるとやはり暑い。ものの一キロも行かない内に疲れて来る。しかし、その疲れもあまり苦にならない。途中、何台もバスが追いぬいて行くので、ちょっとがっかりしてしまう。
 三キロほど歩いて吾野小中学校で休んだ。ここでも地元の人達の盛大な歓迎を受けた。暑い中でのあの麦茶の味は、僕にとって何よりものごちそうだった。昼食の後、校長先生及び生徒代表の歓迎の言葉を聞き、名残りを惜しみながら吾野小中学校を後にした。
 歩き始めると、せっかく引っ込んでいた汗も、又吹き出て来る。道はなだらかな登りだが、みんなハイピッチで歩くので、すぐ疲れて来る。しかし、五分も休めばそんな疲れは吹き飛んでしまう。
 途中、数回休んで清らかな川の水で汗をふく。その冷たさが快く膚にしみ込む。こうしている間に道は山の中にさしかかり、ついに比企が先頭に出た。先頭に出たので、みんな前以上にせっせと歩く。総ての人の顔は明るく、疲れなど何とも思っていないようである。後では秩父大里の生徒が地元の民謡を歌う。その歌声につられて僕等も足どりも軽くなる。ここで道は最後の登りにさしかかり、かなり急になって来た。山の上では、ドーンドーンと言う花火の音がし、山頂の近いことを示す。その音につられて僕等の足どりが、さらに早くなる。僕等がオーイと声をかけると、下の方でオーイと返事を返す。そんなことを繰り返しているうちに頂上の土を踏んだ。
 休むひまもなくすぐ食事のしたくに取り掛かった。男子の仕事は、たき木拾いと水くみである。僕達の班には、食事のしたくにかけてはベテラン中のベテランの、○○先生がおられたので、心配はなかった。それでも、水がもったいないと言うので、夜の飯に一度もとがないのをくれられたのには、僕もはなはだ閉口した。夕食をしている間に、あたり一面雲がたちこめて、すぐ隣りのバンガローさえも霞んで来た。
 食事の後、一休みしている間に、総ての人が待ちに待っていた、キャンプファイヤーの時間となった。あたりは森閑として、雲だけが渦を巻いて降りて来る。その静寂さを突き破るかのように、聖火に点火された。赤々と燃え上がる聖火。その炎を見つめていると、今まで忘れられていた何かが、自分によみがえって来るような気がした。喜びの歌声は夜の木立を振わせ、遠く武甲の山々にこだまする。やがて余興が始まり、お国自慢の芸に拍手の嵐が飛ぶ。静かなギターの音色、にぎやかな秩父音頭、ハワイのフラダンス、そして直実節と、次から次へと飛び出して来る。そして、今はただ感激をかみしめ、大会に来て良かったと思うのだった。
 このように、にぎやかだったキャンプファイヤーも、やがてその勢いをなくして、静かに消えて行く。僕等は、ほたるの光を歌って消えゆく聖火を見つめ、数々の思い出を胸にそれぞれキャンプに散って行く。静かに夜のとばりが降り、ここ正丸峠は再び元の静けさにもどるのだった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

桑摘み 菅谷中三 西沢トモ子

桑摘みに行った。
朝霧の中を。
眠い目をこすりながら。
ポチポチと一葉一葉摘む。

川の音を聞きながら、
せみのなき声を聞きながら、
まだ露のついている桑の葉を、
ポチポチと摘む。

太陽はすでにのぼって、
どこもかしこも照らしている。
力強い真夏の太陽の下で
ポチポチと桑を摘む。

耕うん機に積んだ帰り
以前のねむけもさめ
偉大な自然をながめながら、
さっぱりとした気持ちで家へ向った。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

愛犬の死 菅谷中三 滝沢信子

 昭和四十年(1965)五月十三日、私にとっては忘れることのできない日となった。
 それというのは、四年前に家族の反対をまでおしきって飼った、一匹の最良の友である愛犬が、その日の朝交通事故でこの世を去ってしまったのです。私はその日から交通事故の恐怖を一層強く感じるようになった……。
 私が小学校五年生の時でした。……私はその時分から急に犬が好きになり、一度自分の手で犬を大きくそだてようと思っていました。
 ちょうどその時、友人の家に犬の子が生まれていたのをみて、私はそれをもらうことに、自ら決めてしまいました。家族の人は、いい返事をしませんでしたが、どうしても犬がほしくて、とうとうつれてきてしまいました。
 その時は、毛の色は白く、そして長くまんまるとふとって、一見スピッツのようでした。そして足にからみついたり、むやみにほえたりして、あいきょうをふるまっていました。家族の人はそれを見て、<責任をもってめんどうをみるなら、このまま飼ってもいい。>といってくれました。私はうれしくて、家を作ったり、食器をそろえたりで、それからという日が楽しくなりました。
 でもこの四年間楽しい日ばかりではありません。小さいうちはときどき、はきものをくわえていって、どこかへかくしてしまったり、人にうるさくほえすぎたりで、ほうぼうから苦情がきました。そんなとき、いつも私が責任をとっていましたが、大きくなるにつれて、私に責任がおいきれないような事も、何度かありました。そんな事があった時、犬をしかろうと思って名前を呼ぶことは呼ぶのですが尾を腹の下に入れて、もうしかられるのをしっているように、しょんぼり歩いて来る、みじめな姿を見ると、しかるわけにもいきません。その後、いろいろの芸もできるようになり、今では、すっかり家の人にも慣れて、どこへ行くにも後についていったり、ご飯を食べたい時は、いつもとちがった鳴き方をしたりうれしい時は、尾をふったり……。
 そんなことが、今の私の胸にやきついていて、はなれようともしません。―今はもう石の下に眠る身となっている愛犬に、私の好きな花をさしてあげよう。愛犬よ!この新鮮な花の下でやすらかに眠っておくれ。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

秋 七郷中三 吉場規恵

なんと良い季節だろう
食欲の秋
読書の秋
実りの秋
実りの喜びは秋だけのもの
その秋がそこまできている
わたしは、待っていた
この季節を
鳴くセミは変わり
咲く花も菊となり
風は涼しく
赤とんぼが飛ぶ
今日始めて見た、赤とんぼ
ああ、秋近し

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月
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