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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第3節:中学校・高等学校

高等学校

新設高校へのわが課題

 畑知事さんが「ベテラン知事になりたくない」と題して、随想だろうと思うが発刊したと聞く。
 私はそれに肖(あや)かったわけではないが、「ベテラン校長になりたくない」と思う。
 知事さんは、埼玉県の知事というだけでなく、法学政治学の大家であり、到底私の及ぶところではない。
 だが、知事さんは県民のことを熱心にお考えで、私は新設高校の校長として、学校と生徒のことを真剣に考えている。
 ただ知事さんは県全体を考え、私はその末端の一底辺を考え、強いて言えば、対象面積の差であろうと思う。
 私は三十年来の教員生活に、その時その時私なりに生徒のことを考えてきたことは確かだったと、今にして思う。授業のことも、クラブ指導のことも、そして卒業期の進路指導についても、走馬灯のように思い浮かんでくる。
 やがて何時しか高校の教頭になっていた。
 その学校は大変忙しい学校で、朝六時半頃家を出て、帰るのが殆んど夜の九時か十時だった。時には一晩じゅう帰れないことも何度かあった。
 そんな忙しいなかで、校長になろうなどと考える暇もなかったのに、時の教務主任が、半ば冗談に「教頭さん、この学校からは直接校長に出られませんよ。今まで出たものもないのです」とジンクスめいたことを話され、私にとっては、どうしてこんなことを話されたのか不思議であった。
 ところが、一昨年(1973)十二月の年末休暇に入り、教育局から急に呼びだされた。
 なんのことかわからないので、時の校長さんに「校長さん、また呼びだされて注意されるのですか」とただした。
 実はこのことより二週間位前、校長と私が教育局へ呼びだされて注意されたばかり、そのくらい大変な学校であった。
 ところが寝耳に水と言った校長を拝命、ジンクスを私は破ったのかと思った。
 さて校長になったが、授業の自習のクラスへ出て、授業をやった。やはり教師は授業が生命なのだと強く感じた。
 私はある校長に「校長になっても、授業をするのは楽しいですね」と話しかけたら「長島さん、校長は教諭ではないのだから、授業しなくもよいのだ」そうかと思って、しばらくすると、校長一年生も忙しくなり、書類の検印<ハンコ押し>来賓の応接、翌日は出張また出張、授業もそうそう出られなくなった。
 所謂ベテラン校長は、もっともっと多忙でハンコと応接と出張の連続で明けくれてしまうのだろうと、同情したくなった。
 また私の学校では、度々教職員総出で生徒とソフトやバレーなどの球技試合をする。私は下手ながら何時も参加する。
 或る教師が「校長さんもやるのですか」と私にただした。その先生のいい分は、転任した先々の各学校の校長さんは、殆んど球技の試合など出たことがないという。でられないのであろう。やがて私もこうなるのかと思うと淋しい。こうなりたくない。
 私が自習のクラスへ授業に出たら、四月に転任して来た教師が「校長さんは校長室に一人でいるのが淋しいのでしょう」と想像し同情してくれた。やがて授業へも出ていけなくなるかも知れない。
 昔の校長さんを思うと、松高旧松中時代の恩師の山本洋一先生や木原元三先生、また埼玉師範の三田主市先生、教頭の別所千賀照先生方は、よく授業に出てきて指導してくださった。そのことは感銘深い思い出である。
 その頃は、今のように校長は多忙でなかったこともあろう。今日では書類一つをとっても、毎日山ほどある。それを校長はいちいち検印する。なにかといえば会議会議の出張の連続である。
 今の校長は余程自分を見つめない限り、機械の歯車となり、出張やハンコ押しで自分を見失って滔々と押し流されてしまう。
 ある学校の卒業式に、あの人が俺達の学校の校長先生だったのかと言った生徒がいたというが、殆んど生徒の前に顔をださない校長さんもいる。ださないのではない。だせないのだ。そうなりたくないものである。
 一年たっても小説一冊も読めないと言った校長さんがいた。教育雑誌を読もうと思っても、カバンに入れておくが、やがて次の号が発売され、入替えるだけで目次すら読めないと、ぼやいた校長さんがいた。
 もうこうなったら教師としての校長ではない。
 私はある教師から「校長さんの生徒への訓話は変っていますね」と言われた。
 私は月並のことや抽象的なことを、長くだらだら話すのは嫌いだ。そんな訓話をしても今の生徒には、なかなかうけない。私は何時もこれを警戒している。
 どうかして生徒の心に何か訴えたい。生徒に何か課題的なものを持たせたい。何時もこう思う。
 そこで生徒一人一人に、これだけは自分のものだというものを、しっかり持たせたいと思っている。
 私がかつて教えた生徒に、修学旅行に行っても、ほかの生徒より朝早く起きてその町の中を駈歩して来た生徒がいた。その生徒は毎日走らないではいられないという。
 また私の友だちに、一年間に本を高さ一メートル読んだというものがいた。この努力はすばらしい。
 更に現在、私の学校(日高町高萩下車)に秩父の野上町から朝六時十分の電車に乗ってかよってくる生徒がいる。私はこの生徒と話して勇気づけた。
 「容易でないが頑張りな。あなたは、この学校で誰もしないことをやってのけているのだ。やがて卒業の喜び以上、何事にも負けない自信がつきますよ。」
 涙をたたえて去っていったその生徒は、寒い日でも遅刻もせず頑張っているので、陰ながら私は喜んでいる。
 いくつか例をあげたが、こうした者達は、何かにつけて自信がわいてくるだろうし、生き甲斐を感ずることでしょう。
 どんなことでもよい。クラブ活動でも単なる趣味でも、生徒達が、本気で青春をたたきつける場所を私は教えて行きたい。
 これが私の考える生徒への課題である。
(埼玉県立日高高等学校長*1

*1:筆者は1974年(昭和49)4月-1979年(昭和54)3月埼玉県立日高高等学校初代校長 長島喜平。

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