第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校
高等学校
1964年(昭和39)3月、1市5ヶ町村の組合立として創設され、多くの人材を育て、世に出してきた県立川越農業高等学校菅谷分校が廃校となった。菅谷村向原には凡そ7千坪程の土地が残され、この土地の処理が課題となってしまった。この地はもともと有為なる青少年の育成のために6市町村が浄財を出して用地を買収し、学校を開いたところであり、いたずらに転用することははばかられた。
そこで菅谷村が中心となって高等学校の誘致を画策することになったのであるが、なかなか嫁にこようという相手が見つからないまま1・2年が過ぎた時、東武電鉄の某と云う人物が、東京・中野にあった文園女子高等学校(ふみぞのじょしこうとうがっこう)を紹介してくれた。同校は福島県郡山の豪商佐藤伝吉氏が夭折した愛嬢の供養と多くの娘達の育成を悲願として1941年(昭和16)建てられた学校であった。当時の菅谷村長関根茂章氏、村会議員の島本圭三氏らが中心となって何度か同校を訪問したところ、創立者の意思がよく反映され、躾のよく出来た明るい生徒達を見て、こうした学校をわが菅谷の地に誘致したいと考えるに至った。
当時文園側は校地が狭く広い運動場と合宿場を欲していたのと、建設の資金に苦慮していたため交渉に多少の行き違いはあったようであるが、菅谷側が土地をほとんど無償に近い額で提供することが提案されたので、文園側の当時の常任理事佐藤伝四郎氏と校長保科市松氏の英断をもって誘致問題は結着したのである。
1966年(昭和41)9月13日校舎建設のため地鎮祭が行われた。当日は蕭々と雨の降るなか篠だけの茂みを切り開き設けられた祭壇に向って神主が祝詞を奏し、施主が祭文を告げた。終わって関係者一同集まって小宴が設けられたが、席上みな口々に「雨降って地固まる」といって前途の隆昌を願った。かくして校舎の建設は着手され、半歳を経て翌年3月鉄筋四階建ての立派な校舎が完成、同時に県から学校の設置認可が得られたのである。
1967年(昭和42)4月10日新入生160名を迎え、菅谷中学校の体育館を借りて、開校入学の式典が挙行された。時あたかも菅谷村は町制が施行され、新生嵐山町が誕生、共々将来へ向って力強い一歩を踏み出したのである。