ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

菅谷小学校

菅谷小学校応援歌

1913年(大正2)菅谷第一小学校訓導 
瀧澤新三郎 作詞

 一、巍峨*1たる峰は堂の平*2
   清流たえぬ都幾川に
   重忠公の徳受けて
   生い立つ菅谷の健男児

 二、日頃鍛えし我が技量
   鬼神の守り灼たか*3
   鉄より堅き腕*4あり
   組みする*5者やいざ来たれ

 三、熱血あふれ肉踊る
   正々堂々邁進*6
   ベストを尽す時は今
   奮え奮え我が選手

 四、陣容*7今や鬨*8めきて
   見よや選手の面影*9
   無限の力溢れるを
   月桂冠*10は我れなるぞ
   振れ振れ菅谷

*1:巍峨(ぎが) 山が高くそびえ立つ様。
*2:堂の平(どうのひら)…菅谷小学校校歌の歌詞からも、「堂の平」は(どうのひらとルビはあるが)「遠ノ平(とうのひら)」で、嵐山町と小川町境にある遠ノ平山(200m)だと思われる。比企三山に堂平山(どうだいら)(875.8m)・笠山(かさやま)(837m)・大霧山(おおぎりやま)(766.6m)があるが、菅谷小学校から西方を遠望した時、見た目は笠山の方が高く見事だが、標高は郡内一だからという理由で堂平山を歌詞に使うことはないと思われる。菅谷地区の山は標高200m以下で、武蔵嵐山の大平山は179m、塩山(しおやま)は165mであり、遠ノ平山が応援歌で歌われることに違和感はない。遠ノ平は、小川町では現在、「東ノ平」を使っているが、1836年(天保7)の「中爪村絵図」では「堂ノ平」の文字をあてている。
*3:灼(あら)たか…神仏のご利益が際立っている様。
*4:腕(かいな)…うでの古い言い方。
*5:組(くみ)みする…仲間となり加勢する。協力する。
*6:邁進(まいしん)…恐れることなく突き進むこと。
*7:陣容(じんよう)…陣がまえ。陣立て。
*8:鬨(とき)…合戦で、士気を鼓舞し、敵に対して戦闘の開始を告げるために発する叫び声。【用例】鬨(とき)の声をあげて戦う。多数の人が、一度にどっとあげる声。
*9:面影(おもかげ)…顔かたち。顔つき。
*10:月桂冠(げっけいかん)…古代ギリシャで、競技の優勝者などに名誉のしるしとして与えた。最も名誉ある地位、そのしるし。

『菅谷第一尋常高等小学校 昭和3年度 卒業者名簿』 1978年(昭和53)3月

 嵐山町立菅谷小学校が、菅谷村立菅谷第一尋常高等小学校とよばれていた時代に、菅谷部会(福田小学校・宮前小学校・七郷小学校・菅谷小学校)の運動会でよく歌われた応援歌です。歌詞に不明の部分がありましたが、たまたま手にした昭和53年(1978)3月作製『菅谷第一尋常高等小学校 昭和3年度 卒業者名簿』(同級会記念)にその歌詞が載っていました。作詞者は、今まで宮崎貞吉校長(1925年4月-1929年3月)ではないかと言われていましたが、瀧澤新三郎訓導(くんどう)*11であると記されています。作詞された年は1913年(大正2)とも書かれています。嵐山町教育員会『学校沿革誌』によれば、瀧澤新三郎訓導は1914年(大正3)3月-1917年(大正6)10月、1929年(昭和4)3月-1936年(昭和11)3月に菅谷小学校に在職していたとあるので、1913年(大正2)は、菅谷小学校に勤務していません。大正2年度(1913年4月-1914年3月)に応援歌が作詞されたのなら、瀧澤訓導が菅谷小学校に着任したその月(1914年3月)に作詞したことになりますが、無理がありそうです。
 「此の応援歌の歌詞を調べるに際して恩師簾藤惣次郎先生外十余名の方の御協力を感謝します。調者 中島義男」と後書きにあります。何か書き物が残っていたということではなさそうなので、同窓生・関係者の記憶をたどりながら調査されたものなのでしょう。
 鎌形小学校にも応援歌がありました(『鎌形小学校創立百年記念誌』66頁〜67頁)。菅谷小学校の畠山重忠に対して、鎌形小学校では木曽義仲が歌われます。メロディは両校ともに同じだったと思われます。

*11:訓導(くんどう)…旧制小学校の正規の教員のこと。教諭。

このページの先頭へ ▲