ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

七郷小学校

可愛イイ子供ハ毎日凍エテオリマス

 1906年(明治39)12月22日、第1七郷小学校編輯(へんしゅう)部発行のガリ版刷「学校月報」に次の様な文章が掲載されています「学校ノ教室ハ天井(てんじょう)ガハッテアリマセン。障子(しょうじ)ガタテツキマセン[中略]浅間山カラフキツケテキタ風ハエンリョモナク教室ノ中ヲ吹キ通シマス。中々一ツ位ノ火鉢(ひばち)ガアッタトテ大ゼイノ生徒ガ暖カクナルワケガアリマセン。ドウカコタツノ中ニオルオトウサンヤオカアサン、少シハ子供ノ寒サヲ思ヤッテナントカサムサノ防ゲル方法ヲナスッテ下サイ。可愛イ子供ハ毎日ココイテオリマス」。明治末期の小学校の寒々(さむざむ)とした様子がよく伝わってきます。

 明治政府は1872年(明治5)に学制を発布し、「邑(むら)に不学(ふがく)の戸なく家に不学の人なからしめん」と意気高らかに学校制度を発足させましたが、教育の場を得ることは容易ではありませんでした。初等教育の前身となった寺子屋がそうであったように寺院や民家を借りて小学校とした例が多くみられます。1887年(明治20)、七郷の昇進(しょうしん)学校に第1・第2校を廃止統合した時、「越畑(おっぱた)村ヘ相移シ仮之(の)借家ヲ以テ修繕ヲ加ヘ」小学校としています。その頃在学していた安藤幸蔵は「昇進学校」と題する作文で「屋内ハ四方開閉自由ナルヲ以テ空気流通宜(よろ)シク」と書いていますので、以前よりはかなり良くなったのでしょう。1903年(明治36)の小学校統合に当たっても「吉田・越畑ノ避病舎(ひびょうしゃ)ノ一ヲ撰(せん)シ古里ヘ移シ第一学年ノ校舎ニ充用スル」としています。学制以来、七郷においては校舎新築の話題は何度かあったが、いずれも実現に至った記録は見当たりません。たいてい民家や避病舎(伝染病隔離病舎)を流用することで校舎としているので、「学校月報」編集の先生の嘆(なげ)きとなったのは当然でありましょう。

 1909年(明治42)に新築が申請、許可された七郷小学校新校舎の概要は「建坪(たてつぼ)三六六坪、平屋(ひらや)瓦葺(かわらぶき)」「天井ハ床面ヲ距(へだて)ル九尺、杉板ヲ以テ張ル」「床ハ地面ヲ距ル高サ二尺、松厚一寸ノ板ヲ以テ合(あい)シヤクリ張リトス」「採光ハ横六尺高サ四尺五寸ノ引キ違ヒガラス戸」と言うぐあいで、これは1900年(明治33))、「改定小学令」に定められた基準に合致したものでした。又、教室の広さは「児童一人ニ付三尺平方(0.25坪)」の規定に比べ、生徒数311人、教室総面積150坪で、一人当たり0.48坪の七郷小学校はゆったりとした学校となったのです。

 かくして総工費6022円の巨費を投じた近代的小学校が誕生し1910年(明治43)12月1日落成、入校式が挙行されました。北風が吹きぬける冬の寒さに凍(こご)えなくてすむ学校が出来たのです。

博物誌だより119(嵐山町広報2004年6月)から作成

このページの先頭へ ▲