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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

『むぎぶえ』

『むぎぶえ』19号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷小学校、鎌形小学校、七郷小学校の児童・生徒の作品です。

ままごと すがや一ねん ほそやけいこ

 わたしは きのう ひろみちゃんと ままごとをしました。わたしが、おかあさんになって ひろみちゃんが おねえさんに なりました。
 あそんでたら おとうとが でてきて
 「まぜて。」
といいました。
 「それじゃあ こうちゃんは おとうさんに なってね。」と いいました。こうちゃんは
 「おとうさんじゃ やだ。」と、いいました。
 「それじゃ だれに なるの。」と ききました。
 「ぼく おにいさんに なりたい。」といいました。
そしたら おかあさんが おかしを もってきて くれました。みんなで たべてから また あそびました。
 「ずっと わたしが おかあさんだったから こんど ひろみちゃんが おかあさんに なってね。」と いいました。
 「それじゃなるわ。」と、いいました。
 それから ずっと ままごとを つづけていくと あたりが くらくなりました。わたしは こわくなって めをつぶりました。そのとき ひろみちゃんが 「かえる。」と いいました。
 わたしは「ひろみちゃん また きてね。」といいました。とても たのしい ままごとでした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

おぼんさま ななさと一ねん もりしたかつひで

 おぼんのとき ぼくは おとうさんと あさはやく おきて ころなで おがわへ おつかいに いきました。
 ようちえんの ちかくの おみせで とりのももを 三十ぐらい かって いそいで うちへ かえってきました。 もう おしょうさんが たくさん きていました。
 このあいだ おおきい おにいちゃんは てに けがをしたので ぼくが かわりに くろいころもを きました。
 よねんの おにいちゃんと ぼくは いっしょに ほんどうに いきました。
 じきに おせがきが はじまりました。おにいちゃんも おがんで います。
 ぼくは おおきな うちわで おしょうさんを あおぎました。しゅうちゃんや ただしちゃんも おじさんと いっしょに すわって いました。
 おせがきは ながく かかりました。それから ふるさとの じゅりんじへ いきました。
 ぼくも すこし おがみました。おわったとき ぼくは「よかったなあ。」とおもいました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

てがみ かまがた一ねん なかばちともこ

 せんせい おてがみ ありがとう ございました。おてがみが くるのを まって いたんです。
 わたしは とうきょうへ いった はなしを かきますから よく よんで くださいね。
 とうきょうへ いったとき おばあちゃんと いたばしの おばさんと わたしと 三にんで おんせんへ いきました。おんせんでは わたしたちの いたところへ マンガを かくおじさんがきて おばあちゃんのかおを かいてくれました。とてもよく おばあちゃんに にていて じょうずに かけました。
 とうきょうへ いって おもしろかったです。かえりには いっぱい おみやげを かってきました。
 せんせい あついから びょうきを しないようにしてください。
                     さようなら
                    なかばち ともこ
  いいのせんせい

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ねこ ななさと一ねん あべかずあき

ぼくの うちに ねこがいる。
ごはんは いつも ぼくがやる。
いぬとも とても なかよしだ。
かわいい こねこが 三びき できた。
はやく めがあいて
ぼくと あそべると
いいなあ と おもった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

えにっき すがや一ねん せきぐちともこ

 八がつ五にち きんようび はれ
 よりいの すいてんぐうに はなびを みにいきました。
 きれいに、かざった おふねが ういていました。
 はなびが、川に うつって とても きれいです。
 あかや あお、きいろと、はなびがでると、まわりが、ぱっと あかるくなります。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

えにっき すがや一ねん ほそやけいこ

  七がつ 二十四か にちよう
 おかあさんと けいおーでぱーとへ こどものえのてんらんかいを みにいった。
 みんな とても じょうずにかけていておどろいた。かえりに げーむをかってもらった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

はね田くうこう 七さと二年 竹内まさつぐ

 ぼくは、八月二十一日に、はね田くうこうへ、行きました。よくはれて、とても、あつい日でした。パパとママと、じゅんと、ぼくの、四人で、行きました。はままつちょうから、モノレールにのってはね田くうこうへ、行きました。ぼくは、モノレールにのるのは、はじめてでした。エスカレーターにのって、たかいところから、モノレールにのりました。ふねが、いっぱい見えました。十五分ぐらいではね田くうこうへ、つきました。ぼくは、「うわーひろいな。」といいました。パパも「ひろいなあー。」といいました。ぼくが、シャシンやテレビで、みたよりも、ずっとひろいと、おもいました。ぼくの目の前に、大きなひこうきが、なんだいも、なんだいも、ちゃくりくしました。パパが、「あれはがいこくへ行くひこうきだよ。」とおしえて、くれました。
 そのひこうきが、ものすごい大きな、音をたててとびたちました。ぼくは、耳を、おさえるようでした。おきゃくさんが大ぜいのっています。ぼくも、「のりたいなあ。」と、おもいました。
 じゅんとぼくは、あっちも、こっちも、みきれないほどでした。それからいくつも、いくつもの、かいだんをのぼって、もけいの、ひこうきの、あるところへ、行きました。ママが「ひこうきの中をよくみてきなさい。」と、おっしゃいまいした。ぼくとじゅんは、十円ずつ 入れて、ひこうきにのりました。いすが、四十ぐらいありました。けれども、一つも、あいて、いませんでした。中で、しゃしんをとっている人も、いました。
 ぼくは、ちょっと、そとを、のぞいてみました。パパとママがみえました。じゅんは、ちょろちょろと、すぐ、でていってしまいました。ぼくも、行きました。ぼくは、ママに「おなかがすいたよ。」といって、ひこうきから、おりて、すぐ、しょくどうに、行きました。ぼくは、くうこうランチです。パパや、じゅんたちは、カレーライスを、たべました。しょくどうの中は、とても、すずしいと、おもいました。
 かえりは、東きょうタワーへ、よって、かえりました。もう、うちで、おばあちゃんが、まっているだろうなあと、おもいました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

おきゃく かまがた二年 すぎたけい子

 ともだちは、みんな、おきゃくに、いくのに、わたしは、おきゃくに、いくところが、ないので、さみしい。おとうさんのうまれたうちもちかいからです。わたしは、どこかへ、いきたいなあと、おもっていました。
 なつやすみに なって おごせの おばさんが ようじが あって うちへきました。
 おばさんが、
「けいこ なつやすみになって どこかへいったかい。」とわたしに ききました。
 わたしは 「どこへも いかないよ。」といったら おばさんは
「うちへ おきゃくに こないか。」といってくれました。わたしは うれしくて わらってしまいました。
 あつおちゃんちの きょうだい三にんと いっしょにいきました。おごせの おばさんは
「みんな よくきたね。おとうさんも、おかあさんもこないの。」といったので わたしは
「おとうさんは、かいしゃが やすめないし おかあさんは かいこが いるから だめなんだよ。」と、いいました。
 その日は おてんのうさまで とても にぎやかでした。わたしたちは、大ぜいの人にまじって、いったり きたり あとをついて あるきました。
 いろいろなものが たくさん ならんでいて かいたいものばかりです。おばさんが
「かいたいものが あれば かってやるよ。」といいました。わたしは いろいろ かって もらいながら おきゃくに くるのは いいなあと おもいました。
 よる おそくなって やすみました。かえりに おみやげを もらったり おかねを もらったりして、かえりました。
 おきゃくっていいもんだなあ どこでも いいから また いきたいと おもいました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ヘリコプター すがや二年 山下あき子

 わたしの、うちのほうでは、このあいだ、ヘリコプターで、いねのしょうどくをしました。
 まだ、わたしたちが、ねているうちから、ヘリコプターの音がきこえて、あさごはんをたべて、学校へいくしたくをしていると、わたしのうちのうらへ、大きな音をたてて、ひくくとんできたので、わたしは、とびだしていって見ました。すると、ピンクいろの、こなのくすりを、ヘリコプターのりょうわきから、まきながら、ずうっと下までおりてきました。そして、いったり、きたりして、くすりがなくなると、またいれてきます。こんどは、たけの、えだすれすれに、とんできて、わたしのいる上を、まわりました。ヘルメットのような、ぼうしを、かぶって、いました。まっさおな、いねの上を、とんぼのように、おもいきり、ヘリコプターに、のって青いそらを、とんでみたいとおもいました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

せみとり すがや二年 ふじたけい子

あつい あつい 日だった。
うらの木で せみが なきだした。
わたしは、あみを もって そとへ でた。
足音を たてずに ちかよると
なきごえが やんだ
あみを ちかづけると
おしっこを とばして にげちゃった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ゆうだち ななさと二年 千野としあき

雨が きゅうに ふってきた
だんだん 大つぶになってきた
雲が
はしるように うごいていく

かみなりが
だんだん ちかくへ くる
いなびかりが つよく ひかる。
大きな音がする
ああ、こわい

雨が 大つぶに なってくる
かみなりが
だんだん とおくへ いく
そらが
きゅうに あかるく なってきた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

かき学校にさんかして 菅谷三年 中島千恵子

 わたしは、八月十一日に、子ども会のかき学校にさんかしました。場所は、いばらぎ県大あらいの子どもの家でした。
 むさしらんざんはつ、午前五時十四分です。とちゅういけぶくろと上野でのりかえて、みとの駅につきました。十時五十分でした。そこからバスにのってやく三十分で、もくてきの家につきました。よその県の子ども会の人たちも、いっぱいあつまっていました。そこで、たのしい三日かんのかき学校が、はじまるのです。
 朝六時からよる九時十五分まで、きちんとしたプログラムで、みんなといっしょに、イエスさまのお話を聞いたり、海水よくをしたり、おべんきょうしたりしました。
 わたしが、一ばんたのしかったのは、海水よくです。たいへいようの大きななみがザブン、ザブンとおしよせては、またかえっていくのをみながら安全な所で、かんしの人のゆうとうりに、わたしたちは、およぐのです。うみでおよぐのはうまれてはじめてです。そして、よるは、うみべでキャンプファイヤーをしました。たきぎをたいて、歌をうたい、なにもかもわすれてしまうようなひとときでした。
 たのしかった三日かんもゆめのようにおわり、いよいよきょうは、大あらいの海にさよならをする日です。うみべのおみせで、びょうきでさきにかえったおとうとたちに、おみやげをかって三時ちょっとすぎに、子どもの家をたちました。もう二どとこられないかもしれない。このたのしかった海べの家をふりかえりふりかえりかえりのバスにのりました。
 ぶじに家についたのは、午後の七時三十分ごろでした。おうちの人たちは、しんぱいしてまっていてくれました。いまもこうしていると、あの大きななみの音が、すぐそこに聞こえてくるようです。とてもたのしい三日かんでした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ぼんおどり 七郷三年 川口京子

 きょうは、たのしみにしてまっていたぼんおどりの夜です。
 わたしは、おかあさんに、ゆかたをきせてもらい、学校のにわにいきました。
 がっこうのにわについてみると、やぐらのまわりには、きれいなちょうちんがたくさんついていました。
 おどる人たちも多ぜい集まっていました。
 集まった人たちは、おもいおもいの場所にかたまって、にぎやかに、たのしそうに話していました。
 そのうちに、「そろそろはじめますから、わになってください。」とほうそうがありましたので、みんなが、わになりました。
 そのうち、レコードが、かかったのでおどりはじめました。「ちちぶおんどう」でした。
 わたしもなかまになっておどりましたが、よくしらないので、前の人のまねをしたり、となりの人のおどりをみたりして、いっしょうけんめいおどりました。
 まだ、よくおぼえないうちに、こんどは「ナオザネぶし」がかかりました。わたしは、しらないのでみんなのおどるのを見ていました。
 見ているうちにおどりたくなったので、わきの方でおどってみましたが、やっぱりよくおどれませんでした。
 しばらくするとまた、ちちぶおんどがかかったので、わたしもみんなの中にはいっておどりました。
 つかれたのでかえろうと思いましたが、おもしろいので、とうとうさいごまでおどってしまいました。ほんとうにたのしいぼんおどりでした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

黒山へ行ったこと 鎌形三年 長島君江

 少し早めにおひるごはんをすませたら、おとうさんが、
「君江、夏休みにどこにもつれて行けなかったから黒山にでもドライブしよう。」
といいました。おかあさんと、いもうととわたくしは、いそいでしたくをして車にのりました。外のけしきをながめながらでこぼこ道を、四十分ぐらいで黒山につきました。道がせまく、あまり上まで車が行かないので、とちゅうにおき、あるいてのぼりました。だらだら坂をのぼって行くうちに、だんだんすずしくなってきました。
 道の左がわの、ずっと下の方をきれいな水がながれていました。
 少しのぼると、左がわに小さなはしがあり、それをわたって行くと、りょうがわのきりたった山のたにまに水がながれていて、そのおくにたきが見えました。つぎのたきは、男だきと女だきとありました。男だきは上でそのたきのおちた水が、つぎの女だきになっておちるのです。わたくしたちは男だきのところまでのぼって行き、たきのおちるたきつぼのところまで、おりて行きました。中学生ぐらいの男の子と、小学生の女の子が水の中であそんでいました。わたしも水の中にはいりたかったのですが、たきがおちるしぶきがかかりすずしいのでなく、さむいぐらいなのでやめてしまいました。おとなの人たちは、カメラでパチリパチリと、しゃしんをとっていました。
 わたしは、私たちのところから、あまり遠くない所に、こんなにきれいですずしい所があるのかとおどろいてしまいました。かえりは、かまきたこに行きました。大きなみずうみで、わたしも、いもうとも、おどろきました。つつみには、さくらの木がたくさんうえてあります。たのしそうにボートをこいでいる人もいました。きしべにこしをおろして見ていると、わたしものりたくなってきました。おとうさんにせがんでのせてもらいました。水もつめたくてとてもよいきもちでした。なんともいえないたのしさでした。しばらくあそんでからかえりました。きょうは、ほんとにたのしい一日でした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

木下大サーカス 菅谷三年 嶋田由美子

 わたしは、東京のおばあちゃんの家にいきました。そしておばさんと、わたしと、おにいちゃんと、東京の子どもたちみんなで、木下サーカスを見に行きました。なかにはいったら、もうはじまっていました。はじめに、人げんとカンガールがぼくしんぐをしたり、らいおんのきょくげいをしたり、ちんぱんじーがつなわたりをしたり、自転車にのったりしました。さいごに、くうちゅうぶらんこをするとき、ぴえろが、つかまろうとしたら、ぶらんこからわざと、おちてびっくりさせました。でもしたにあみがはってあったからへいきでした。かえりに、こうらくえんにいって、ジェットコースターやそのほか、たくさんの、のりものにのりました。たのしい一日でした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

上野動物園 七郷三年 田島輝子

 わたしは、しんせきのおねえさんといっしょに、上野の動物園へ行きました。動物園は二度目ですけれど、めずらしい動物をたくさんみようと、中にはいりました。
 一ばんはじめは、おいばなしの所で、はと、ゴリラ、やぎ、ダチョウ、などが、とても人なつこくてかわいらしかった。でも、ゴリラは、あとをおってきたので、わたしたちはにげてしまいました。
 つぎは、かんガール、うさぎ、くまをみてさるのところへ行きました。子ざるが、ふざけっこをしたり、木にのぼっているのや、はしわたりをしているのもいて、なかなかあきません。みている方まで、おもしろくなってしまいました。わたしは、ここで、しゃしんをとってもらいました。
 ぞうや、くま、きりん、くじゃくをみてなかったので、さがしながら歩きました。
 人が大ぜいたかっていたので、そばによってみると、くまが、暑いので、ぎょう水をつかっているところでした。
 そのとなりには、白くまの大きいのが二ひきいて、のっそら、のっそら右へ左へ歩きまわっては、こちらをよおく見ていました。きっと、おなかがすいていたのでしょう。
 ぞうは、暗い室の中で、草をはなでまいて口にもっていっては、むしゃむしゃおいしそうに食べていました。りんごをなげてやるとすぐ食べてしまいました。
 きりんとくじゃくは、とおくだったので、見られなくてざんねんでした。
 つぎは、ペンギンの所へ行きました。大きいのが三ば、小さいのが八わ、水の中でおよいでいたり、上であそんでいたり、たのしそうにしていました。わたしは、大きいのがいつおよぐのかとまちかまえていましたが、とうとう水の中にははいらなかったので、つまんなくなりました。
 さいごは、マントヒヒでした。おりの中にはいっていたけれど、こわいので、とおくからそおっと見てきました。
 たくさんの動物をみて歩いたので、とてもたのしい一日でした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

あさがおのかんさつ 菅谷三年 神山すえ子

   七月四日 はれ
 あさがおのめがでてから五日目で二まいのはっぱになった。はっぱのまんなかにきりこみがあった。

   七月九日 くもり
 二まい出たはっぱのところから三まいめのはっぱが出た。さきの方がほそ長い、土より七センチの所です。

   七月十二日 くもり
 先のはっぱの長さ、よこが四センチ七ミリたてが四センチ七ミリ、あとから出たはっぱがほそ長く、一センチぐらいのびた。

   七月十四日 くもり
 先のほそいはっぱがひらいた。たてが四センチ七ミリ、よこが六センチ五ミリになった。

   七月十七日 くもりはれ
 あたらしいめがまたでた。つるの長さが七センチあった。はっぱの大きさがだいたいおなじぐらいになった。

   七月二十二日 くもりはれ
 はっぱが七まいになった。木がのびたのではかれない。小さいはっぱがたて六センチ、よこ三センチ、大きい方はたてが十一センチ、よこ八センチになった。

   七月二十六日 はれ
 ほそいつるが十六センチのびた。立てた木につるがまきついた。左の方からまきつきました。あさがおは左まきだそうです。

   七月三十日 くもり
 つるの上の所にあたらしいめが二つ出ている。小さいめも二日たつと三センチぐらいの大きさになる。

   八月三日 くもり
 先に出たはっぱのあいだに小さい花のつぼみが、四つぐらい出てきた。

   八月五日 くもり
 立てた木とつるの高さがおなじようになった。

   八月七日 はれ
 つるはどんどん高くなる。下の方にあたらしくえだが出てきた。

   八月十二日 はれ
 高くて上の方はよく見えない。つぼみも二センチぐらい大きくなった。

   八月十六日 くもり
 きょうはうすむささきの花が一つさいた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

日記 菅谷三年 山口久子

   七月二十六日 火よう はれ
 朝からあつい日です。おいしゃさんにきかないでおよいでいたので、きょうはきいたら、「いいです。」と言ったのでむねがスーッとした。

   七月二十七日 水よう はれ
 きょうもあつい日です。いもうとは、かぜをひいてねた。わたしは友だちとおよぎにいった。ジュースやおかしをもって行った。いもうともいきたかっただろうと思った。

   八月二日 火よう はれ
 よる、おばさんとおねえちゃんたちといけのはたへいってきました。そこにはたくさんの人がいました。わたしたちはわたあめとふうりんと、かわいらしいもみじをかってきました。またきんぎょを一ぴき二十円でかいましたが、となりのおじさんに五十円でうりました。

   八月三十日 水よう はれ
 よる、おねえちゃんとぜにがたへいじをみました。そのないようは、きれいなおよめさんがさらわれるということで、さいごにあく人はつかまってしまいました。わたしはそれをみてわるいことをしてもぜったいあく人はつかまってしまうと思った。

   八月十日 水よう はれ
 きょうは、おかあさんがいもうとをつれてむかえにきました。まだかえりたくないので、もう一ばんとまることにしました。

   八月十一日 水よう はれ
 「きょうは、おわかれだからおひるをごちそうするから。」とおばさんがいったので、まつざかやへ行きました。お子さまランチとクリームあんみつをたべました。ひろいしょくどうは人でいっぱいでした。ごごのでん車でうちにかえりました。

   八月十二日 金よう日 はれ
 ものすごくあつくなりました。久しぶりに、いもうととおよぎに行きました。そしたらしらない人ばかりだったのでおよがないでかえってきました。つかれたので、ひるねをしたら二時間ぐらいねむりました。

   八月十五日 月よう
 おじさんがすなばを作ってくれました。お友だちをよんできてメキシコの町を作りはじめました。バットでとけいだいを作り、ビルデングはあきかんで作りました。こうえんとぬまと百あなのかわりに二十あなを作りました。そのうちにだんだんすがや村になってきました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

朝日 菅谷三年 山口久子

おかあさんにおこされて
そとへ出た。
めをこすりながら
しんこきゅうをした。
東の空をみたら
朝日がきらきらひかってた。
たまごのきみを、おとしたようだ。
大きな、まっかな朝日だった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

自転車のり 菅谷四年 飛田耕市

 カナ、カナ……とひぐらしがなくころになり、ようやくすずしくなってきた。
 「おかあさん、自転車のりに行っていいでしょう。」とぼくがきくと、「そうね。あぶなくない所ならね。」とおかあさんが言った。
 ぼくは返事もそこそこに、電気工場の広場へ向って走りだした。前から、大きなトラックが走って来る。「あぶない」と思い、左にハンドルをきったら、きりすぎてほそう道路にいやというほどなげだされてしまった。
 ふと気がついて足を見ると血がいっぱいだった。ぼくは、びっくりしてしまった。「どうしよう、ああ、いたい、どうしよう。」と、まよっていると、おねえさんの友だちが通って家にれんらくしてくれた。
 おばさんが、ほうたいをもって走ってきた。ぼくの足を見て「これはひどい、がまんしな。」と言いながら、足をしばってくれました。ひざから下がずきずきして、まるでしびれるようだ。
 自転車の後ろにのせてもらい、ようやく家に着いた。おかあさんが「しょうどくしようね。」と言ってほうたいを取ったが、きずがひどいので、「これは、お医者さんでなければだめだね。」と言って、石川医者につれてってもらった。
 先生がすぐ見てくれ、「これはぬわなくてはだめだ。」と言い、かんごふさんに何か話した。ぬうってどんなことをするのだろう。きずのいたみもわすれて、そればかりを考えてしまう。
 「ベットに横になってみな。」と先生が言った。ぼくは、ふるえるのをこらえながら、横になった。きず口に、プスプスとようしゃなく先生は注しゃした。二、三分たってから曲がったはりでぬいはじめた。思っていたよりいたくなかった。五、六分たつと「もうよいですよ。でも、はしょうふうがこわいから注しゃしておこう。」と言ってうでに注しゃをした。さっきの注しゃよりもいたくはなかった。
 「耕ちゃん、しっかりしていたね。」とかんごふさんが、わらいながらげんかんまで見おくってくれた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

遠足 鎌形四年 杉田ひとみ

 わたしたちの遠足は、多ま動物園でした。
 バスにのって埼玉をはなれて、東京の多ま動物園に着いたのは、午前十時ごろでした。
 一番はじめにライオンを見ました。ライオンは自由になっていました。雨の中で、バスのあとをついてあるいていました。その次に見たのはなまけぐまです。なまけぐまの毛はぼさぼさしていました。だれかパンをちぎってなげていました。こんどは、チンパンジーでした。手を人間のようにたたいたりしてとてもおもしろい。それに、チンパンジーの足は、人間の手のようだった。だれか
 「チンパンジーのはなはおもしろいんな。」
といっていました。チンパンジーは、あみからあみへと、つたわっていました。そして、かた手をはなしてぶらさがったり、あみから手を出したり、ときには、屋根の雨を手にとってのんでいました。そのほか水牛やくじゃくなども見ました。
 おべんとうを食べてから、おみやげを買いました。みさちゃんには、こけし、るみちゃんには、遠足でのこったものにし、とうちゃんには、わさびづけを買ってかえりました。
 この遠足でざんねんだったことは、雨であまり動物がいなかったことと、ちえ子ちゃんがバスによってしまって、かわいそうだったことでした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

いかほに行ったこと 七郷四年 船戸佐知子

 夏休みになったら、おとうさんがいかほに、つれて行くと、言っていました。わたしは、その日をたのしみにしていました。夏休みは、七月二十二日からでした。いかほにいく日が七月二十六日に、きまりました。小川のおじちゃんと、まこちゃんとおとうさんの友だちふたりと、わたしと、おとうさんと、おかあさんで行くことにきまりました。二十六日の朝、小川発吉田入口つうか七時四十三分の、バスに乗り熊谷駅に八時二十分に、つきました。
 おとうさんが七人のきっぷをかって、九時ごろの、高崎線下り電車に乗り、おとうさんがいろいろせつ明してくれました。くもっていて高崎のかんのんさまがみえませんでした。そして、高崎発十一時ごろの電車に乗りしぶかわ駅についたのは、十一時三十分ごろでした。そしておひるをたべて、いかほゆきの、バスに乗ってどんどんと山おくに走っていき一時ごろいかほにつきました。かいだん町のいちばんおくのりょかんに、とまることになっていました。
 げんかんにつくと、女の人が、四、五人で「いらっしゃいませ。」といいました。「菅谷村の船戸です。」とおとうさんがいいました。するとおくから男の人がおまちしていました。といって、おくへ案内してくれました。わたしたちは、だまってあとをついていきました。エレベーターでいきましょう。と男の人がいいました。おとうさんがわらいながら「ええ。」といいました。三がいでおりて、すぐのへやでした。へやにはいると、すぐおとうさんが、
 「佐知子きょうゆっくりやすんで、またべんきょうするのだよ。」といいました。わたしは、「はい。」といいました。するとおとうさんが「おまえもきょう佐知子のお供だよ。」とおかあさんにいいました。
 「べんきょうをしたほうびの旅行だからねえ。」とおかあさんがいいました。そのうちいろいろなごちそうがいっぱいきました。わたしは、べんきょうしてよかったなあと思いました。
 「おとうさん、二学期もがんばるからね。」わたしがゆうと、
 「あしたから、おとうさんもがんばるぞ。」といいました。「たのしい旅行だねえ。」とおかあさんがいいました。わたしもほんとうにたのしい旅行でした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

おふろ 七郷四年 大沢暁

電気をつけた
おふろに はいったら
ポチャンという 音がした
波ができて
波で 電気の光りが ゆれうごいた

そんなことを 見ていたので
しゃがむのを わすれた

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

にじ 菅谷四年 番場みち子

はげしくふった
夕だちがやんだ
パッとあたりが
明るくなった。
空に
七色のにじの橋がかかった。
あの橋は
どこまでつづいているのだろう。
わたしは、
あの橋をわたって
おとぎの国へ行きたい。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

交通博物館見学 菅谷五年 田村直樹

 夏休みに、郷土クラブで博物館を見に行った。高橋先生につれていってもらった。七時三十四分の電車に乗った。
 電車は、満員でとてもむし暑かったので、池袋で、のりかえる時、ひんやりした風がほっぺたにあたって気持ちがよかった。また電車にのったらなまあたたかい空気がひたいにあたった。九時半ごろ秋葉原についてほっとした。
 秋葉原の駅を出て見たら、電気製品のお店ばかりでした。先生にきいたら「電気製品で有名だよ、それから安いんだよ。」といった。おうだん歩道をわたって交通博物館にはいった。
 最初は、電気機関車がプラスチックで出来ているのを見た。ボタンがあったのでおしたら車輪が動いたり、中の機械が動いたりした。いろいろなものがあってとてもおもしろい。ボタンをおすと電車が駅まで行って、またむこうの電車がひきかえしてくる。ボタンをおすと、電車のドアがあいたり、しまったりするのもあった。それから足でのるとほんとうの車のタイヤが動いたり、機械が動いたりするのや、手をまどにおっつけると電車が走ったりするのもあった。明治天皇がのった電車や車もあった。日本で一番古いべんけい号という機関車もあったけれど、さくがあってしまっていたのでそばへ行けなかった。みんなといっしょにボタンをおして歩いた。二階は、船やクレーンのもけいがあった。ボタンをおすとスクリューがまわったりした。かじをとるのをまわすと、えが上がったり下がったりするのがあった。橋もあってボタンをおすと上へあがって船が通れるようになる。それからクレーンのは、荷物をトラックやかもつにのせたりするのもあった。ひろみちゃんが「先生三階に行くべえや。」といったので、みんなで三階へ行った。本物のプロペラや実物大の飛行機や気球もつるしてあった。ボタンはあまりなかったけれどボタンをおしたらせんかいや、宙がえるや、低空飛行をするのもあった。ぼくが一番おもしろいと思ったのは、本物のレーダーだった。丸く線があってまん中に十字の、大きいのがあった。それからその十字の所から時計の針のような物が、ぐるぐるまわっていた。だけど何にもキャッチしていなかった。
 それから四階に上がっておべんとうをたべたり、ジュースをのんだりして休んだ。それからひろみちゃんと記念バッチとべんけい号のかざりをかって先生たちと外へ出た。
 帰りは、東松山どまりにのったので松山まですわれた。松山でおりてアイスクリームをたべた。松山からは、夕方のラッシュになってしまったので、すわれなかった。
 行きも帰りも、こんだ電車でぼくが思うには、菅谷には、東上線が一本きり通っていないのでこみ方がすごいのだと思った。
 将来は、モノレールを通して子どもや子どもつれの人は、景色を見ながら乗れるようにしたらいいと思った。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

牛 鎌形五年 杉田芳子

 「モーモー。」牛が鳴く。父が、マメトラに、牧草を山のようにつんで、帰ってきたのです。牛は、父が帰ってくるのがわかるので、いつも鳴くのです。もうたべたくてがたがたして鳴くのです。まるで牛は、きちがいのようになって、たべたがります。
 時々父にたのまれて、牛に草をやります。牛たちは、ひざをついて、となりの牛の牧草を食べるようすをみて、顔を上げて鳴きます。えさをもらった牛は、しっぽをふったり、体をうごかしたりしながら食べます。私は「それミドリいくぞ。」と言って、牧草をくれます。ミドリと言うのは牛の名前です。ほんとうはもっと長い名前です。でも上のみじかいことを言うのです。牛にも、ちゃんと名前があるのです。コマンダー、イマトシ。ジョハナ、もっとたくさんいます。
 この牛たちも病気をします。はらぐわいの悪い時には、びんに薬をとかしてくれます。かぜをひいた時には、もうふをせなかやはらにまいてやります。なかなか、なおらない時は、むさしらくのうに有線をして、じゅういさんにきてもらいます。家の人が病気をした時のように心配します。
 父には、日よう日がありません。どんなに雨がふっても、どんなに風がふいても、休みません。毎日の時間をきちんときめて、一日に三回えさをくれたり、ちちをしぼります。ちちはミルカーでしぼり、ゆそうかんに入れてひやします。
 私は毎日牛のせわをする父をみて、電気のきえた時や、体のぐわいの悪い時などは、たいへんだなあと思います。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ふろたき 七郷五年 市川留美子

 学校からかえってくると、弟はテレビを見ていた。おもしろそうなので、わたしも見た。
 五時半ごろ、おかあさんが、
「留美子、ふろたきをしてくれる。」
といった。わたしは、いやなので返事をしなかった。もう一度聞いた。わたしは、
「宿題があるんだもん。」
といったら、おかあさんは、
「宿題があるんなら早くしなさい。」
といった。しょうがないので、ひきうけた。
「たき木を、もってきて。」
というと、おかあさんは、
「そのくらい自分で、もってきなさい。」
といった。わたしはすきなテレビを、見ていたのに、ふろたきをさせられるのでくやしかった。だから、
「じゃあ、むさないから。」
といった。おかあさんは、平気な顔で、
「なにも買ってやらないよ。」
といった。わたしはなにも買ってもらえないと、こまるので、自分でたき木をもってきた。
 新聞紙をまるめてつっこんだ。マッチをシューッとこすった。が、すぐきえてしまった。もう一度やった。まただめだった。「こんどこそ」と思いながらやった。やっとついた。木をくべた。どんどんくべた。くやしいので、弟に
「湯かげんを見て。」
というと、弟は、
「まだ、ぬるい、ぬるい。」
といった。また、くべた。たきつけてから、10分ぐらいたって、また聞いた。
こんどは、
「熱い。」
といった。わたしは、やっと、おわったのでほっとした。
 わたしは、やって見ればかんたんだと思い、あんなにおかあさんに、てまをかけたことが、はずかしかった。いそいでテレビをかけたが、もうおわっていた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

兄の手紙 菅谷五年 小沢三千代

 このあいだ、兄から手紙がきました。わたしはだれよりもさきに読みました。読んだら、とてもかわいそうなことが書かれていました。それは、今兄がいっている東京の大学のことなのです。朝の食べ物は、米より麦が多いごはんと、おかずは、こうこだけで、朝と夜そうじをします。ということがかかれていました。わたしは、ぜいたくをいって、麦ごはんをたべませんが、手紙を読んで、わたしより兄の方がかわいそうです。手紙の終わりに、「妹達に手紙を書くように」と書いてありました。それで手紙を書きました。あとわたしがかいた絵もいれておきました。それと、わたしのお金をいれておきました。
 出してからすこしたって、また手紙がきました。それには、わたしたちのことがかいてありませんでした。それから、「北海道や九州からきているこがいるので、自分だけかえるのは、いやなので、とうぶんかえりません。」ということがかいてありました。わたしは、これからも兄と手紙を出しあって、学校でのむしゃくしゃをなくしていきたいと思いました。それから、にいちゃんがいる時、「にいちゃんなんかはやく東京へいってしまった方がいいや。」といっていました。でもやっぱり、にいちゃんがいないと、テレビのとりっこができないのでつまりません。兄や姉や妹の中で、にいちゃんがいちばんすきです。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ちちしぼり 菅谷五年 久留田よう子

父がしぼる。
やぎのちち
ふっくらふくらんでいて
たくさん出そうな大きなちち
力いっぱいおす。
ひきしまった父の顔
力がはいった手にすじが出た。
まっ白で、すきとおるようなちちが
ジュージュー、と一直線に出る。
いつの間にかたくさん出たちち
まっ白なあわがふわふわしている
綿かスポンジのように。
しぼり終わったちち
それは、まるで
大きくぷっくらふくらんだ ふうせんから
空気がぬけたように
ぺっちゃんこになってしまった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

たき火 七郷五年 大沢幸弘

「ぬくといなあ。」
パチパチもえる。
麦わらが、煙を高く上げながらもえている。
空から燃えかすがおちてくる。
またもす。
パチパチパチ
麦わらが、音をたててもえている。
パチパチパチ。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

対校試合 菅谷六年 関口武一

 八月三日は、夏の六年校内球技大会だ。ぼくも、平千遠*1の組にはいって出場した。組は、平千遠のほか大根将*2、川志賀*3、菅谷の四チームだ。どれも、平千遠には強敵ばかりだ。それより不利なのは、平千遠には六年生の人数が九人きりいないので、よい選手がえらべず全部出るようだ。
 しかたなく校庭にいってみるとはじめは、平千遠と大根将ではじめ、おわったら川志賀と菅谷、それがおわったら、決勝戦である。
 先生がきて練習のコーチをしてくれた。いよいよ、プレーボールだ。はじめは、ぼくたちが、打げきの番ではじまった。みんな負ける気ではないようだ。相手も負ける気はないようなちょうしだ。強さも、同じくらいなので、試合もちょうしよくいった。
 相手のピッチャーが、打ちよい玉をなげるのでツーアウトで、八番のぼくにまでまわってきた。
 この試合で、はじめてうつので、手がすこしふるえた。ピッチャーが投げた。ひくめのストライクだ。打てると思ってバットをおもいきりふった。しかしまだ手がふるえていて、うしろのバックネットに、強くあたった。もうすこしで、主しんになっている先生にあたるとこだった。しかしそれがもとでファイトがわきすぎてうち気になり、そのときは三しんでチェンジになった。
 ほくは、ピッチャーとして守備についた。投げているとすぐにちょうしよくいった。試合は、四回のうらでコールドゲームでぼくたちがかった。
 つぎは、川志賀と菅谷だ。これもとちゅうでコールドゲームだ。
 つぎがもんだいの決勝戦である。試合は、自分のほうには、つごうがわるくすぐに二点のさが大きくなった。とうとうコールドゲームで二番の座でまけた。
 でもみんな二番になれたとグローブをもって、はなしながらかえった。雨が降ったりやんだりわるい天気だったが、とてもおもしろかった。

*1:大字平沢、千手堂、遠山
*2:大字大蔵、根岸、将軍沢
*3:大字川島、志賀

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

朝のできごと 七郷六年 大塚敦子

 六月のある朝、私の家は、まゆ出しの用意をしていて、朝飯をたくのが、おそくなりました。そこで、おかあさんが、火をつけると、
「敦子、あずきを持って来るから火をもしておきなさい。」
といいました。そこで、私は、顔をあらうために持って来た洗面器を、かごの中において、かまどのそばへ行って、火をもし始めました。それからいろいろなことを考えながら火をもしていました。考えごとをしているうちに、おかあさんが、あずきを持って来ました。そして、
「敦子、顔を洗って来いよ。」
というと、私はしらばっくれたように、
「あたい顔をさっき洗ったで。」
といいました。するとまた、
「敦子洗いやあしないがね。」
と言われて、ようやくしょうきにもどったように、
「あっそうか。」
といって、かごの中においた。洗面器を持って、顔を洗いに行きました。夢の中にいた気持ちが、外に出たような気持ちに変わりました。私は、また火をもし始めました。すると、五分もたたないうちに、にえたってしまいました。かまからでてくるいきもだんだん強くなって来ました。強くでるにしたがって、あわもだんだん強くなりました。あわがで始めてから三十秒ぐらいたつと、あわは、息苦しそうに、
「プップップー プップップー。」
となんどもくりかえしていました。私も息がつまったような気持ちでした。私の気持ちを音楽の拍子で表わすと、「タッタッター。」というようになります。しかも、二つめの「タッ。」までは、息をすっているのでした。こんなふうにして、二、三分も続いたので、またも、夢の中に気持ちが飛びこんでしまいました。
 しかし、その夢も長くはありませんでした。それから一分ぐらいたって、火をひいてすぐ外へ飛び出しました。すると、こんどは、外は外でも、さっきとずっと差のある外、広い広い外に出たような気持ちでした。それから私は、かみの毛をとかして、台所を、はき始めました。台所がはき終わるか終わらないかという時、まゆ出しから、父と兄が帰って来ました。そこで、私たちは、朝飯を食べ始めました。
 あとでよく朝のできごとを考えなおしてみると、顔を洗ったか洗わなかったかということで、かんちがいをしたのでした。私はもう二度と、あんなかんちがいはすまいと思いました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

子ども大会に参加して 鎌形六年 簾藤伸子

 わたしは、六月十一日、子ども大会に、参加しました。場所は、埼玉会館です。
 埼玉会館は、県庁のすぐそばにあり、地上七階地下二階の大きいたてものなので、びっくりしました。中は、ちょうどよいおん度になっていました。たてものは、大きいし、中は、きれいなので、なお、びっくりしました。大会をするへやは、はいる時、けんをもって自分のせきについてから、すこしたったら、はじまりました。
 第一部は、県のいろいろな人や、先生などの、おはなしをききました。二十分ぐらいしただけでした。
 第二部は、おとうさんとおかあさんへの、感謝の花たばを、おとうさん代表に、知事さんが、おかあさん代表に、黒木先生が、それぞれ、受取りました。それが、おわると、子ども会の発表にうつりました。わたしは、いつも、子ども会とは、どんなことをするのかなあと、思いながら、きいていました。
 どこの学校でも、おかあさんや、子どもたちでしていました。時には、お金も、つかうグループもいました。わたしは、あまりお金をつかうのは、きがすすまないけれどおかあさんたちとやるのは、おもしろいと思いました。
 まい年、四月になると、ことしは、なにをするか、計画をたてるそうです。たいへんよかったと、思いました。わたしたちも、これからは、どこかちかくへ、お金をかけないで、旅行したいなあと思いました。子ども会の発表がおわると、埼玉県、子どものちかいを、女の子が、しました。
 第三部は、大宮のおにいさんたちが、ブラスバンドの、えんそうで、「こんにちは、あかちゃん」や、「高校三年生」「ドレミのうた」自分たちで、かえうたも、えんそうしてくれました。うらわのおねえさんたちは、「むこうお山で」「さい玉県子どものうた」「ふるさと」のうたや、たまをもっておどるうんどうや、たいそうもみせてくれました。どれもこれも、みんなじょうずでした。
 そのつぎは、中川順子さんがきてくれて、いっしょにドレミのうたや、かっこう、手をたたきましょうや、ほかにも、いろいろな、うたをうたってくれました。
 とってもこえのいい人で、すこしふとっています。一時間くらいうたっていると、おねえさんが、かえって、いきました。
 さいごに、キャンドルサービスをしました。会場を、まっくらにして、うたを、小学校の人が、うたってくれました。なんだか、きゅうに、さみしくなったような、かんじがしました。
 しかいの人が、じゅんばんに、でる学校じゅんにいってくれたので、埼玉会館をあとにし、かえってきました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

嵐山キャンプの夜 菅谷六年 根岸久代

 外から帰ってくると、電球のまわりに、小さな虫が、いっぱいかたまっていた。私たちのバンガローは、川の近くなので、虫がたくさん集まってくるのだと思った。私たちは、電球のまわりに新聞紙をおいて、下に、かとりせんこうをおいたら、すこし虫がいなくなった。でも、新聞紙のかげで、すこしくらくなった。
 私たちはトランプをした。でも五人では、二人組になると、人数が半ぱだった。いろいろな、トランプゲームを、二、三回した。そのうち、早苗ちゃんたちが、来た。こんどは二人組になっても、ぴったりだったので、二人組でゲームを、五、六回やった。そのうち、ひとり、ふたりとだんだん帰った。そうすると、もとの五人になってしまった。
 もう、トランプは、あきてしまった。でもトランプのほかには、五人でする、あそぶゲームは、なかなか、みつからなかった。みんなは、すこし、考えてから、しりとりをすることにした。いろいろした。人の番の時は、よくわかるが、自分の番になると、なかなか、わからない、でも、このしりとりも、あきてしまった。
 私たちは、ねることにした。でも、ほかの、バンガローの子は、まだ、さわいでいたので、私たちも、おきて、すこし、外へ出た。でも、なんだかこわくなったので、すぐに、中にはいってしまった。こんどは、ねながらしりとり歌をやった。すこしやっていたら、ほかのバンガローは、電気がきえ、しずかになった。私たちだけが、さわいでいるようなので、ねむることにした。でも、暑くて、なかなかねむれなかった。そのうち、先生がたが、見まわりに来た。ガラスのわれめからかい中電とうで、てらした。かい中でんとうを、もっている、先生は、だれだかわからなかった。先生がいってしまうと、「もう、おそいなあ」と、思ってねてしまった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

バラの花びら 菅谷六年 武井明弘

もも色のバラの花びらがちっている。
くもの糸が一本たれさがっている
花びらがその糸にもくっついた

風にふかれてひらひらとまわっている。
もも色の着物を着たおどりてのようだ。
おもしろくなって
くもの糸に花びらをつけた
一つ。二つ。……六つ
もう一つ
七つになったと思うと
プツンとくもの糸がきれた
ひらひらと
地面におち、
たおれたおどりてのようだ

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

転校 菅谷六年 和田治子

わたしは
五月五日に
菅谷小へ
転校してきた

みんなじろじろ見る
ろうかなどで
すれちがうとき
近くを歩いている子をよんで
こそこそ小さな声で
話をする子もいる
なかには
ふりかえってじろじろ見る子もいる

とてもいやな感じ
でもなかには
とても親切な子もいて
力づけられた

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月

ありの国 菅谷六年 反町典子

ごみすて場にあるかれ葉を
ひっくりかえしたら
ありでうずまっている。
ごはんつぶみたいなよう虫
それをいっしょうけんめい
世話をしているあり。
かれ葉をひっくりかえされて
びっくりしている
あっちにチョロチョロ
こっちにチョロチョロ
ぶつかったり、ころんだり
あわてて、わたしはまた
かれ葉をかぶせた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』19号 1966年(昭和41)11月
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