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第6巻【近世・近代・現代編】- 第4章:教育・学校

第2節:幼稚園・保育園・小学校

『むぎぶえ』

『むぎぶえ』18号に掲載されている嵐山町(当時・菅谷村)内の菅谷小学校、鎌形小学校、七郷小学校の児童・生徒の作品です。

いぬ すがや一ねん おはらまちこ

 わたしは、まりが、いちばん、すきです。
 きょうは、すごく、あついので、まりと、さんぽにいきました。そしたら、まりが、にげて、しまいました。わたしは、まりを、おいかけましたが、つかまえられませんでした。わたしは、うちへ、かえって、きてしまいました。わたしは、こんどは、まりが、かわいそうになってきました。そとへいって、みましたが、いませんでした。しかたがないから、また、うちへ、はいりました。わたしは、かなしくなりました。しばらく、たって、そとへ、でると、まりが、むこうから、はしってきます。まりは、わたしのそばへ、とんできました。
 「まりどこへいったの、しんぱいしたんだよ。」というと、まりは、うれしそうに、おを、ふっていました。わたしは、このとき、ほんとうに、うれしくなりました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

がっしゃとり ななさと一ねん かねこしげる

 ゆうがたに、あんちゃんと、あきらちゃんと、ぼくで、がっしゃ*1とりにいきました。はじめ、ぼくのうちの、いどばたで、がっしゃが、ないていました。ぼくは、そうっといきました。そして、くさのうえから、てを、かぶせました。「とれたかな」とおもって、てを、あげてみたら、いませんでした。
あんちゃんは、5ひきもとりました、あきらちゃんは、2ひきです。ぼくは、とうとう、一ぴきもとれませんでした。
 かえりに、ぼうでんき*2の、でんちが、きれてしまいました。ぼくは、あんちゃんの、あとを、ついてきました。

*1:くつわむし。
*2:懐中電灯。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

みつみねさんにいったこと かまがた一ねん ながしまてつお

 おとうさんが、くるまを、うんてんして、うちじゅうで、みつみねさんにいきました。
 ばんがろうが、たくさんありました。ぼくたちは三ばんのうちでした。おゆをわかして、らあめんをたべました。
 よるに、なったので、ねました。ねえちゃんと、もうふをかぶって、つっつきっこをして、ふざけました。おとうさんは、おみせに、ぷろれすを、みにいきました。にほんがまけたといって、かえってきました。
 あさ、そとへでてみたら、とてもさむかった。はしが、あかくみえました。きょうは、やまへのぼるので、おかあさんが、おむすびをつくりました。はじめ、けえぶるかあにのりました。したをみるとやまが、きれいでした。でも、ゆれて、おっかなかった。
 やまの、とちゅうで、おとうさんが、「もうおひるだよ。」と、いいました。それで、おひるをたべました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

はいしゃはおやすみ すがや一ねん のむらじゅんこ

 きのう、わたしは、おねえさんのじてんしゃに、のせてもらって、はいしゃに、いきました。
 はしっているとき、はじめに、あった、ひとは、わたしの、くみの、とみおかさちこちゃんでした。そのつぎに、あった、ひとは、おねえさんの、ともだちの、きみえちゃんでした。それから、すぐに、つきましたが、はいしゃは、おやすみなので、がっかりして、しまいました。しかたがないから、そばの、のうきょうで、しばらく、あそんでから、おうちに、かえりました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ブルトーザー ななさと一ねん いしだみつひろ

ぼくは、みんなとだんちへいった。
ブルトーザーを、みにいった。
ブルトーザーが、三だいあった。
きいろい、ブルトーザーが、たかいやまを
どんどん、くずしていた。
やまは、すっかりたいらになっちゃった。
すごいなあーとおもった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

えにっき すがや一ねん うちだまさよ

 八がつ十四か  どようび くもり
 おとうさんと、おかあさんと、おねえちゃんと、おにいさんと、うみへいきました。
 かわなんかより、ひろいので、とても、きもちがいいです。わたしはおもしろくて、うみを、かけあししました。そのうち、なみが、「どぶ、どぶ」とおしよせてきました。わたしは、こわいのでにげようとしたら、すぐ、おとうさんがだっこしてくれました。とてもうれしかったです。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

おるすばん すがや二ねん 浅見京子

 となりのおばさんは、ねこが大すきです。わたしたちも、かわいがってくれるので、いつもあそびにいきます。
 きのうも学校からかえって、あそびに行くと、おばさんは、おつかいに出かけるところで、おるすばんをたのまれました。わたしは、ひとりでいやだなと思ったけど、<はい>といって、ねこをじゃらしながら、あそんでいました。
 おばさんは、どこまでいったのか、なかなかかえってきません。わたしは、つまらなくなって、うちへかえりたくなってしまいました。でも、たのまれたのだから、おばさんが、かえるまで、ちゃんと、おるすばんをしようと思い、にわへ字を書いたり、えを書いたりして、あそんでいると、
「おそくなって、ごめんね。」
といって、おばさんがかえってきました。おばさんが、また、
「ありがとうね。」
といいました。わたしは、おばさんとすこしあそんで、かえりました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

自てん車のり すがや二ねん 田辺宏

 ぼくと、ともだちのつとむくんと、きよしくんの三人で、学校のにわで、自てん車のりをしました。
 ぼくが、きよしくんに
「のってみるよ。」
といいました。きよしくんは、
「うん。」
といいました。ぼくは、のれることはのれるけどおりる時とびおりるのです。だから、おりる時は、むねが、どきどきします。
 つとむくんが、
「きょうそうしよう。」
といいました。ぼくは、ちょっといやだったけれどゆうきを出して、ならびました。そうしたらきょうそうの時ちゃんとおりられました。
 しばらくしておとうさんがきました。おとうさんは、
「のってみな。」
といいました。ぼくは、とおくのてつぼうのところまで、のりました。おとうさんは、むこうのほうで手を、たたいていました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

しゃぼん玉つくり すがや二ねん みやじまひでお

 ぼくが、こうちゃんと、にわであそんでいると、おかあさんが学校からかえってきました。
 二年のかがくをかってきてくれました。ぼくは、さっそくピラピラひらいて見ました。ふろくもあけて見ました。しゃぼん玉のセットでした。本のページから、つくり方が出ていました。ぼくは、じゅんによんでつくりました。
 はじめに、セッケンをこまかくけずりました。おかあさんに、ポットのおゆをコップに入れてもらいました。すこしあつかったので水をうめました。その中に、けずったセッケンを入れてぼうでかきまぜました。そして、ストローにつけて、ふいてみるとパットきえてしまいました。ぼくは、がっかりしました。おかあさんが
「リスリンを入れたら。」
と、いったので入れてみました。こんどは、だいじょうぶかな、と思って、そっとふいてみると、こんどは、大きくふくらんで、くるくるまわってとてもきれいでした。ぼくは、うれしくなって、何かいも何かいもふいてとばしました。ふくたびに、大きいのや、小さいのや、赤や青、いろいろな色が見えては、ぱっときえてしまいました。おかあさんが、
「まあ、きれいね。」
といいました。ぼくは、こうちゃんと、何かいもふいて、あそびました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

もらった子犬 ななさと二ねん こわせみつひろ

 七月二十八日の夕がた、よしだのおじさんが子犬をもらってきてくれました。
 からだ、ぜんたいが、ちゃ色で、耳はたれています。とてもかわいらしい犬です。ぼくは、とてもうれしくてたまりませんでした。ぼくが手をだすと、ぼくの方へよってきます。ぼくが、にわの方へ歩いて行くと、あとをついてきます。ぼくがおかしをやると、よろこんでたべました。
 しばらくするとおじさんが、
「もうかえるよ。」
といって家からでてきました。子犬はおじさんの方を見ていました。おじさんが歩きだすと、子犬は、こわそうなかおをしてふるえています。ぼくはかわいそうに思って、だいてやりました。
 でも今は、すっかりなれて、まい日ぼくとあそびます。なまえは、〈シェリ〉とつけました。
 ぼくが、学校からかえるとき、とおくの方で「シェリ」とよぶと、まるくなってかけてきます。そして、とびつきます。とてもかわいらしい犬です。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

日記 かまがた二ねん 長島君江

 八月七日(土)はれ
 かいこが、やすんでいたので、みんなで、小川町のたなばたまつりにいきました。
 大きなくすだまの中に、まめでんきがついたりきえたりして、とてもきれいでした。

 八月二十三日(月)くもり
 はれぎをきて、おじいさんとにいさんといもうととわたしで、ほとけさまをむかえにいきました。
 おはかにゆき、むかしのおじいさん、おばあさんたちをむかえてきました。

 八月二十八日(土)はれ
 くまがいのはなびを、みんなで見にいきました。しかけはなびを、三だいみました。
 うちあげは、とてもきれいでした。まるで、ゆめのようでした。まだ、どんどんあげていましたが、かえりました。
 わたしと、いもうとは、くるなの中で、ねむってしまいました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ハーモニカ すがや二ねん 山口久子

どこかで、ハーモニカをふいている。
一年生のときならった
「ひのまる」をふいている。
わたしは、そうっときいていた。
ふいているところへ近づいていったら
おかあさんだった。
とても、じょずに
ふいていた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

すいかわり 菅谷三年 岡本恵子

 きのう、はるえちゃんが、
「おい、きょうこちゃん、すいかわりすべえ。」
といった。わたしが、
「一ばん。」
といったら、はるえちゃんが、
「おれが一ばんだよ。何いってん。」
といった。はるえちゃんが、
「目かくし、しなくっちゃあ。」
わたしが、
「たたくぼうはどれ。」
といったら、きょう子ちゃんが、
「このくいでいいや。」
といって、目かくしをした。わたしが、
「三回まわるんだよ。」
といった。はるえちゃんが、畑の方へ、つっとたって行った。きょう子ちゃんが、うそをいって、
「そこでわってみ。」
といった。きょう子ちゃんが
「おれがうそこいたら、そっちの方へ行ってんだかんな。」
といったら、いずみちゃんやえみちゃんが、
「あははは。」
ってわらった。わたしも、
「あはははは。」
ってわらった。わたしなんかがわらったら、またこっちへ来て、少し、びびびびってわった。はるえちゃんが目かくしをとってわらった。
「今度は、わたしだで。」
わたしがいったら、はるえちゃんが、
「そっちはガラスの方だよ、まっと左、左。」
といった。わたしは左へ行った。はるえちゃんが、
「そこでわってみ。」
といった。わったら。ビビビッといった。わたしは、むねがどきんとした。つばをのんで目かくしをとった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

おにいちゃんのけが 菅谷三年 小沢利江

 夜、わたしが、大きいおにいちゃんに、オートバイにのせてもらってかえって来ると、しずえが、あわてて走ってきました。
「おにいちゃんが、ほねをうっかいちゃったん。」
と、早くいいました。わたしは、たまげて、走って行きました。そしたら、また、しずえが来て、
「今、かあちゃんがとうちゃんをむかえに行って来るん。」
といいました。おにいちゃんは、左手で、うっかいたほうをにぎって、下をむいていました。とてもいたそうでした。そしたら、大きいおにいちゃんが、
「ばっかだなあ、ほねをなおすには、いてえど。」
と、いたそうにいいました。
 すると、赤い電気の光と、走る音がしました。わたしは、すぐ、おかあさんとおとうさんとわかりました。おかあさんが、
「いたがっているか。」
と聞きました。わたしは、あたまの中で、早く、早く、といいながら、
「うん。」といいました。うちの中に来た時、おかあさんが、
「つくえの上にあるタオルをもって来て。」
といいました。わたしは、あわててみつけました。でも、ありません。
「ないよ。」
と、わたしがいうと、少しきれいなてぬぐいでやりました。
おとうちゃんが、いいようふくにきがえて、
「石川先生のうちに行って、ほねにいいい者を教えてもらって来る。」
といいました。おにいちゃんも、いいようふくをきます。おにいちゃんは、
「いいよ。こっちの手はいいよ。」
といいました。おかあちゃんが、
「うっかいた方を先にきるんだよ。」
と、いいました。きる時、とてもいたそうでした。おとうちゃんが、行ってかえってくると、
「石川先生が、いわたい者がいいといった。」
といいました。おとうちゃんが、かんこうタクシーをよびました。早くかんこうタクシーがくればいいのに、早くつれていけばいいのにと思いました。ほけんしょうをおとうちゃんが会社にわすれて来てしまったので、おかあちゃんが、紙にばん号だか書きました。書きおわってから、わたしが、
「持って行く。」
といいました。わたしは走りだしました。
「はい、おとうちゃん。」
といって紙をわたしました。おとうちゃんとおにいちゃんでかんこうタクシーが来るのをまっていました。わたしは暗いから、ひとりで走ってかえって来ました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

先生への手紙 鎌形三年 加藤陽子

 先生、夏休み中に、どこかあそびに行きましたか、わたしは、一家で、黒山三たきへ行きました。行くのに、うちの自動車にのって行きました。と中で、コカコーラを二本とアイスクリームを六本かって、まもなく黒山へつきました。それから少し歩くと、たきのあるところへすぐつきました。
 たきには、「男だき。」と「女だき。」というふだがつけてありました。男だきが上に、女だきが下にありました。男だきの水のおちている下に人がすわっていました。
 「あの人は、たきにかたをもんでもらっているのかな。」とわたしは、思いました。
 それからコカコーラをのみましたが、わたしと、かあちゃんと、たみ子は、ぜんぜんのみませんでした。とうちゃんとあんちゃんと、とみゆきで、二本ものんでしまいました。
 それから、だんごをかって食べてから、もう一つたきを見に行きました。こんどのたきは、きりみたいでした。あたりは、とてもすずしいでした。そこを少し見て家にかえるしたくをしました。
 来る時かったコカコーラのびんをなすので、じ動車をとめただけで、それから、ずうっと走りつづけて玉川まで来ました。
 玉川では、おくとみという電気屋へよりました。それは、れうぞう庫をかうので見によったのです。そして、とうちゃんと、かあちゃんは、そこでれいぞう庫をかうことにきめました。お店のおじさんは、
「きょう、もって行きますよ。」
といいました。
 それからすぐ家へ向かいました。家では、おばあちゃんがひとりでるすばんしていたのでいろいろ見て来た話しをしてやりました。
 先生これで、わたしの話をおしまいにします。先生、からだに気をつけてください。
  八月二日月曜日
                   加藤陽子
  先生へ

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

発表をする 七郷 三年一組

 ぼくたちは今、国語の時間に「発表をする」という学習をしています。きょうはその発表会をやりましたので、プログラムによって、そのうちの何人かのようすを記録しました。

夏休みのこと

一、がっしゃ 金子栄

 ぼくは、「がっしゃとり」のことについて、発表します。
 はじめに、とるときのようすについて話します。ぼくは、しげるといっしょにうら山へがっしゃをとりに行きました。
 がっしゃはとおくでかいちゅう電とうをてらしていてもないていますが、だいたい十メートルぐらい近づくと、なかなくなります。なかなくなったのでどこにいるのかわからなかったけど、かい中電とうをてらしてそおっと近づいて、ようやく、とることができました。
 つぎに、がっしゃをかってみてわかったことを話します。がっしゃはあまり明るいとなきません。うすぐらい所ではなきます。きゅうりを一日に四分の一ぐらいたべます。なれると、近づいてもよくなきます。
 つぎに、にがしてやったときのことを話します。いく日かようすをしらべたので夕方にがしてやりました。ぼくがはなしてやるとすぐ、草むらの中へはいってなき出しました。
 ぼくは、ほんとうにがっしゃは、さみしかったのだなあと思いました。
 これで、ぼくの発表をおわります。

二、百日そうについて 阿部守

 これから、百日そうについて話します。
 はじめに、百日そうの色について。百日そうにはいろいろな色があります。
 つぎに、葉について話します。百日そうの葉は、多いのは三十六まいぐらいです。少ないのは十六まいぐらいありました。
 こんどは、花びらのことについて話します。
 花びらは、多いのもあるし、少ないのもありました。めしべやおしべの少ないのは、みんな花びらの多いのです。
 百日そうは、花が長くさいているから、百日そうと名をつけたのだそうです。
 これで、ぼくの発表はおわりです。

三、玉よど 田島京子

 これから、わたしが夏休みに、玉よどに行った時のことを話します。
 まずはじめに、時間のことを話します。小川駅から、よりい駅まで二十五分間ぐらいかかります。よりい駅前から、玉よどまでは、歩いて十分ぐらいで行けます。
 つぎに、たくさんのものが見えたことについて話します。
 まず一番さきに、すてきな「しょうきばし」が見えてきました。川のりょうがわは、きゅうながけばかりです。川でおよいでいる子が五、六人見えました。川のへりや、まん中に小さないわや、大きないわがたくさんありました。そこで、さかなをつっているおとなの人がいました。とおくの方に鉄きょうが見えました。雨がふりつづいたあとでしたので、川のへりの草は、みんなよこにたおれていました。水はきれいによくすんでいて、そこの小石がよく見えました。かえりの電車から下を見ましたが、やはり川の水はきれいに光って、そこの方までよく見えました。
 わたしは、玉よどってきれいなところだなあと思いました。
 これで、わたしの発表は、おわりです。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

雨 鎌形三年 小実文子

あめがふっていた。
水たまりがいっぱいできていた。
水たまりに雨がおちると、
「ポチャポチャ」と音がする。
そして、
水たまりに、まるいわが
つぎつぎできておもしろい。
わたしが手をだしたら、
手のひらに水たまりができた。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

なし 菅谷三年 三枝千賀子

となりのなしは
ことしもなった。
いつもとくいそうに
はっぱを動かしている。
でもことしは
道ろができる。
なしの木も
ひっこしをするのかな。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

東京のお友だちへ 鎌形四年 山下敏子

 だんだんすずしくなってきました。もうすぐ秋になりますね。
 私は、あなたと同じ四年生です。私は一年生の時、家の人につれられて、上野動物園に行ったことがあります。さいごうさんのどうぞうや大きなネオン、いなかにいる私たちにはみんなびっくりするものばかりでした。そのほか、都会のことを、いろいろ知りたいと思っていますので、手紙を書きました。
 まず、私たちの村や、学校のようすをお知らせします。
 私たちの学校は、七十二年も前にできたふるい学校です。全校生とで百二十六人しかいません。先生は八人です。
 わたしたちのにわは、ほそうしてないので、雨がふると水がたまって、ころんだらどろだらけになってしまいます。
 校ていには、大きなさくらの木があります。毎年、四月にはきれいなさくらがさきます。校ていのいちばんはじに、温室があります。まわりには、ビニールがはってあって、中にかわったさぼてんがあります。
 学校のまわりには、竹やぶやくわばたけがあって、とても静かな所です。
 私の家のそばに川があります。とてもきれいで、よくさかなつりをします。ことしは、橋をコンクリートにしました。
 わたしたちには、「子ども会」ということがあります。子ども会は、きめられているはんでいっしょに遊んだり、おべんきょうをしたりするものです。みなさんも、こんなことをしますか。
 私は、あなたがたの町のようすや生活が知りたいのです。ぜひ、そちらのようすをお知らせください。
 ではお元気で。さようなら。
  九月六日
               山下敏子
 四年生のみなさまへ

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ちろ 菅谷四年 奥野由利子

 ちろは、うちで、一番かわいがっている犬です。少しつないでおくと、遊びに行きたがるので、つい、はなしてしまいます。はなしてやると、しっぽをおもいきりふって、二、三度めぐりまわってから、とび出して行きます。
 そのちろが、おもてへとび出して間もなく、ちろの二倍もあるような、大きな犬とけんかして、たちまち下にされてしまいました。「キャン、キャン」なくので、行って見ると、びっこをひいています。急いで、だいて連れて来ました。
 それから、どうしたのか、すっかり元気がなくなって、何をやっても食べません。牛にゅうだけはのむので、おかあさんの牛にゅうをやっていました。初めのうちは、あまったれているのかと思いましたが、あまりぐったりしているので、よく足を見たら、足のつけねの所に、かみそりで切ったような、大きなきずがありました。
 うち中、びっくりしてしまいました。
「これでは、いたいわけだ。人間だったら大変だったろう。」
と、おかあさんがいいました。わたしの牛にゅうも、なおるまでやることにしました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

おばあちゃん 菅谷四年 山崎里美

 おばあちゃんのからだのぐあいが悪いのでくまがやの、とうま病院へ入院しました。十日ほどして、手術をしました。スイゾウガンでした。
 手術をした時に先生が「病気がすすみすぎているのでなおるみこみはない。」と、言ったそうです。おかあさんや、おばさんたちで、まい日くまがやの病院へかん病にかよいました。わたしも二度いきました。後でおかあさんといっしょに行った時に手をとって、「もうなおりそうもない。どうなっても……。」と、なみだをながして言ったときのほそくなった手が目にうかびます。
 おばあちゃんは、一日七本ぐらいいたみどめのちゅうしゃをしないといたくてしかたがなかったのです。夜中でも二回ちゅうしゃします。目がさめると、“胸が悪い”“こしがいたい”と、いいました。足につめたいたおるをあててやると“いい気持ちだ”と、とてもよろこびました。おばあちゃんは、少しでもベットにぶつかると「えらあ、ぶつかるないな。」といいました。
 そして、何日かしてへやをとりかえました。そのへやは二じょぐらいでした。その日一ばんとまるよていでしたが、せまいので、とまれませんでした。おひるすぎに、いいだのおばあちゃと、ますおちゃんがきました。
 けれど、ますおちゃんとわたしとおかあさんは家にかえりました。それから五日ぐらいしておばあちゃんは死にました。まだ六五才でした。おかあさんは、そのばん帰ってきませんでした。
 そうしきの日は、おとうさんもおにいさんも、こうじも、わたしも、いいだの家へいきました。病院で足をひやしてあげたら、あんなによろこんでいたおばあちゃんは、もう箱の中に入れられていました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ウォーターバレー 菅谷四年 杉田典子

赤 黄 青のライトにてらされて
水が
おどるように高く上がったり
たきのようにみえたり
音楽にあわせて 動いている
まるで
ふん水が いきているようだ。
いきているふん水が
赤いふくをきたり
黄色のふくをきたりして
おしゃれをしているようだ

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

かぼちゃ 菅谷四年 山下幸弘

かぼちゃの花が咲いた。
のぞくと
中にみつばちがいた。
ぼくは
その花をまるめてしまった。
すると中のみつばちがないた。
ぶうーんと
そして花にあなをあけて、
にげてしまった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ヘリコプターで空中さんぷ 七郷四年 中村美佐江

 きょうは、空中さんぷの日です。朝からきりがまいていました。
 田んぼには、朝早くから、役いんの人がいそがしそうに、白いはたをたてていました。
 わたしの家のわきの村道には、めじるしの赤いはたが一本、空高くたって、田んぼはもうすっかりしょうどくのじゅんびができて、ヘリコプターのくるのを、まつばかりのようにみえました。
 ゆうせんで、「少しきりのためおくれます。」と、いうほう送がありました。十一時ごろだといっていましたが、十一時ごろには、きませんでした。
 わたしは、おひるを食べてから妹と、お寺の山へ見にいきました。いくにんかもうきていました。みんなが「おそい、おそい。」といっていました。
 しばらくして、学校の方を見るとかすかにヘリコプターの音が聞こえてきました。すがたも見えてきました。「ヘリコプターが、くるよー。」とおもわず大ごえをあげてしまいました。ヘリコプターの音は、だんだん近くなって、そのすがたが目の前にとんできました。とてもひくくとんできたので乗っている人もよく見えました。そうじゅうしは一人で、しんけんのようでした。電線のところへくると、きゅうに上がったり下がったり、大きい赤とんぼのようでした。
 田んぼに薬をまきはじめました。すごいなあとおもっているいうちにたちまちあたりは一面に、赤白いけむりでいっぱいになってしまいました。やがて、ヘリコプターは赤白いけむりをあとにのこしてつぎの部落へとんで行きました。
 おとうさんやおかあさんも、近所の人たちと、「そうぞう以上しょうどくがよくできた。」と話しあっていました。道を通る人も、いねのそばにきて、薬のついたのをじっと見て「よくできた。これからは空からのしょうどくが、いちばんだ。」といっていました。「ほんとうだよ。これからは、そういう時代だから、それにかぎる。」と、おとうさんもいっていました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

へんとうせん 菅谷五年 佐野威

 「いたい。」目がさめた。あたりは、まっくらだ。―ああ夢でよかった。でも、明日は夢ではなくほんとうに、手術をするんだ。ぼくはさむくもないのにブルブルとふるえてしまった。―そしていつの間にか、うとうととねむりにおちいった。
 「威、起きなさい。」きょうは、いよいよ、へんとうせんを手術する日なんだ。と思うと起きるのがいやになってしまった。
  午後一時、父につれられて、小川の医者へ行った。行く間がとても短かく感じられた。
 手術台にあがった。ぼくは、むねがドキドキしてきた。先生が何かを一つ一つ持つたびに、ぼくは目を光らせキョロキョロした。そのうちに、のどの内側にちゅうしゃをした。もうだめだとあきらめて目をつむった。
  手術はおわった。別のへやへぼくは、はこばれた。父は心配そうに、ぼくを見ている。しばらくすると、のどがしめつけられるようにいたくなってきた。いたみどめの薬をもらったが、いたみはちっともとまらない。ぼくはなみだが出そうになったけどじっとこらえた。こんなにいたいのなら手術をするんじゃあなかったと思うほどいたかった。
  五時に母がむかえにきた。車で家へ向った。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

きりぎりす 七郷五年 市川茂

 朝、きゅうりを取りに行くとちゅう、虫の鳴く声が聞えて来た。ぼくは、急いできゅうり畑に行き、きゅうりを取って家へ持って帰った。そして、さっき虫が鳴いていた所へ行った。
「ギーチョン、ギーチョン……」
と元気よく鳴いていた。少し近寄ったら、鳴くのをやめてしまった。ぼくは、鳴くまで待つことにした。そのうちに、また鳴き出した。あっ、あの鳴き声だ。静かに手をのばした時ピョンと飛んで、どこかへ行ってしまった。
 向こうの中で、また鳴き出した。今朝は、つかまえてやるぞ。と思って虫の鳴く方へ、足音がしないようにゆっくりゆっくり行った。見つけたぞ、あの虫だ、その時、はねをすり合わせて、ギーチョン、ギーチョンと二回鳴いた。ようし、と言って、手を近寄らせてサット両手を合わせた。すると手の中に虫がはいっていた。ぼくは、大急ぎで家へ持って来ておとうさんに
「何んて言う虫だろう。」
と聞きました。おとうさんは、
「それは、きりぎりすだよ。」
と教えてくださった。
 ぼくは、この虫をかっておこうと思ったので、
「えさは、何をやればいいんだろう。」
とまた、たずねた。すると、おとうさんは、
「なすや、きゅうりだな。」
と首をかしげて言った。
 ぼくは、おとうさんも、もうきっと忘れかけているんだなと思ったので
「おとうさんも、きりぎりすを取ったことある。」
と聞いたら、
「あるよ、小さい時にね。おとうさんが取った時も、茂君みたいに朝だったよ。だが、もっとたくさんとれたよ。」
と言った。ぼくだって、もっととれるかも知れないよ、と言った。それから、きりぎりすは、毎日虫かごの中で、元気よく鳴いている。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

小田原の花火 菅谷五年 内田静江

 わたしたち家族は、湯河原からの帰りに小田原の親せきの家によった。その日はちょうど花火大会だった。
 わたしはうれしくて、まちどうしかった。夕方になると、なんかいも「まだ花火にいかないの。」ときいた。
 そのうち、暗くなってごはんを食べていると、ドカーンという音がしたので、二階の窓から海の方を見ると、きれいな花火があがっている。わたしは、急いでごはんを食べてまた、二階の窓から花火を見ていると、下の道路では、人がぞろぞろ花火を見に行きはじめていた。
 おとなの人たちをいそがせて、やっとみんながごはんを食べきると、下へおりていった。それからまた「行こう、行こう。」と言うと小田原のおじいさんが「この花火は日本一というからね。ゆっくり見ておいで。」と言った。すると、そばでおばさんが「まいごになるといけないから、番地をよくおぼえておきな。」と言ってわらいながら人ごみの中へはいっていった。
 五分ほどで海岸につくと、人がたくさんいた。わたしたちは、くらやみの中でよい場所を見つけるとそこにすわった。
 花火は、まず『きくの花』ではじまった。とてもきれいだ。同じような花火をして、少したつと、海で船から花火をあげた。その花火をよく見ると、船が花火をおとしていくのだ。そのつぎは、空に花火が上がって落ちてくるとちゅう、たきみたいになって、二分間ぐらい消えない花火だ。それがたくさん上げられた。こんどは、富士山みたいになる花火だった。最後のほうになると、いろいろな色の花火が上げられた。
 花火を一時間半ぐらい見て帰った。まだ目の前で、花火が上げられているみたいだった。おじいさんが言ったように、ほんとうに日本一の花火だった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

発電所の見学 鎌形五年 中島省吾

 臨海学校二日目七月二十七日ぼくたちは、東京電力久里浜発電所を見学しました。
 学校からバスで二十分ぐらいかかりました。発電所につくと、事務員さんたちがこころよくむかえてくれました。建物の中にはいると、事務員さんが説明図をみせてくれました。発電所の面積は、一万平方メートルだそうです。ずいぶんひろいなあと思いました。貨物船が運んで来た、石炭をもやして蒸気を作り、タービンをまわして電気をおこすそうです。
 次に映画で発電所ができあがるまでの工事をみました。「初め、ダイナマイトで山をくずしてダンプカーやブルトーザーで海をうめました。工事は四年間で完成しました。けれどもその次に来た、たい風で土をけずってしまったのでコンクリートブロックをいくつもかさねて、ていぼうをつくったそうです。
 映画が終わるとこんどはおじさんが発電所を、案内してくれました。えんとつ一本つくるのに一億円かかるそうです。一本のえんとつの長さが、百メートルぐらいだそうです。かんばんの字は三平方メートルの、ましかくにはいっているそうです。石炭をもすとけむりにまじって灰をだすので、町の人々にめいわくがかからないように灰をとるそうちが四つありました。貯炭場の石炭の量も一五万トン、家でふろだけにつかったら、一五万年もせるときいておどろきました。
 こんどはおじさんが発電所の中を案内してくれました。はいってみるとこの大きな発電所の中に人は何人もいないのにおどろきました。おじさんの説明によるとほとんど計器でそうさするので、人手はそんなにいらないのだそうです。
 かいだんをのぼって次から次へと見学しましたがめずらしいのと、大きいのにおどろきました。
 発電所から出て映画をみた建物の中にはいり、すこしやすんで学校へかえりました。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

木 菅谷五年 武井明弘

ほそい木、ふとい木。
木って。がんばりだ。
風にふきつけられ
きずつけられても
生きている木
年中、同じ場所で生きていく木。
これからも
がんばって、でかくなれよ。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

日記 菅谷五年 出野恵美子

  六月五日 土曜日 晴
 前はうどんをこねてもらって作ったが、今日は自分でこねて作った。こなに水を入れすぎたので、ねばねば手についてしまった。おかあさんが「いつもうどんつくりをしてくれると、てまがはぶけるよ。」とよろこんでいた。わたしも、おもしろいから毎日しようと思った。

  六月六日 日曜日 晴
 午後から川へみんなで行った。川の中に足を入れたら冷たかった。同時に、えびがにが上をむいて、はさみを立てていたのでドキッとした。だがよく見たらはさみはかた手しかなかったので、ちょっと安心した。
 わたしはえびがには、どうしてうまれつき、はさみを持っているのだろうと考えた。でも、人間は、はさみをもっていないで手を持っているから、同じじゃないかなあと思いかえした。

  六月二十八日 月曜日 小さめのちはれ
 歯医者に初めて行った。中にはいるとたくさんの人が番をまっている。わたしは初めてなので胸がドキドキしておちつかなかった。
 でも小さい子が、しんさつしてもらってなかないのだから、あんまりいたくないと思った。番がきてしんさつ室にはいるとプーンと薬のにおいがした。なにかまざっているようなにおいだった。思っていたよりもいたくなかった。早く歯がなおりますように、といのる気持ちでしんさつ室を出た。

  七月三日 土曜日 雨のちくもり
 きょうはゆみちゃんのたん生日だ。学校から帰り、ノート二さつと、えんぴつ一本をもってゆみちゃんの家へ行った。わたしのほかにも三人きていた。わたしたちは歌を歌ったり、なぞなぞをしたりしりとり、クイズなどをし、またごちそうをもらってたべたので、おなかがいっぱいになった。みんないい気分で、歌っていた。わたしもきょう半日はとてもうれしかった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

水たまり 菅谷六年 富岡宏江

大雨がふった
そのつぎの日には、
まだ、水たまりが出来ている。
家のうらの水たまりに出て
そのそばにいったら
わたしの顔が
水たまりにうつった。
風がふくと、
水たまりが、なみのようだ。
わたしの顔が、くにゃくにゃになった。
わたしは、おもしろくなって
わらいだした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

江の島鎌倉 菅谷六年 吉原容子

 第一日目。四月二十八日、午前六時出発、四時間ばかりバスの中で歌をうたったり、なぞなぞをしたりして過ごした。
 そのうち、海が見えてきた。みんなは立ちあがって海を見ながら「わあ。」という声をたてた。いちめんに青、遠くに見える地平線うちよせる波、くっきりうかんだ島、あらためて海の美しさに心うたれた。
 海を見ながら、しばらく行くと長谷観音につきました。中にはいると、係りの人が長谷観音についていろいろと説明してくれました。
 それから大仏へむかいました。大仏には、たくさんの観光客がきていました。十一、三六メートルの大仏は想像以上に大きいものでした。ここで記念写真をとりました。
 それから、八幡宮や五十三才でなくなったという頼朝の墓や、護良親王が九ヶ月あまりとじこめられていた土ろうを見学した。
 次に「鎌倉五山」の一つにあげられている、建長寺を見学しました。大きな山門をくぐると鎌倉時代のようすがわかるような気がした。
 また、バスで江の島に向かった。江の島大橋をわたって、旅館ににもつを置き岩屋へ行った。岩屋の中はまっくらで、ところどころにあかりがあった。男の子の中には、ふざけておどかす子もいた。
 岩屋を出て、海岸で少し遊んで植物園へ行った。ここには、まだ私の一度も見たことのない熱帯植物がいっぱいあった。
 それから平和塔へのぼりました。上から下を見おろすと人間が虫のように小さくみえた。
 えびすやに帰るころにはみんなくたくたでした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

旅行記 鎌形六年 長島満男

1 水ぞく館
 バスの時計は、午前九時四十分をさしていた。ぼくたちののった観光バスは鎌倉へ着いた。ぼくたちは道のむこうにある水ぞく館へはいった。中にはたくさんの人がいた。みんなは順々に見ていった。しまもようの熱帯魚小さなからだのすきとおる魚大きな海がめ大うなぎ、かになどたくさん見られた。二階へ行くと海へび、電気うなぎといろいろいる。ほげい船のもけいもあった。どれもみなめずらしいものばかりだった。この中にはいっていると、海底にはいっているようだ。外に出るととても明るかった。

2 鎌倉の大仏
 鎌倉の大仏を見学した。外人客がたくさんいた。きんぱつの外人客が、英語で話していた。大仏は銅でできていて、だんだんにつみ上げてつくっていったものだそうだ。わきに大仏のはくような大きなわらじがあった。高さが約十一メートルでとても大きいが、奈良の大仏はもっと大きいそうだ。

3 鶴ヶ丘八幡宮
 鶴ヶ丘八幡宮は応仁天皇をまつってある所だ。前の石だんのわきに大きないちょうの木がある。この木のうしろへ公暁が、かくれて源実朝をころしたのだそうだ。この石段で写真をとった。石段をあがると大きなたてものがあった。これが八幡宮だった。はとがいてとてもきれいなたてものだと思った。

4 観音崎灯台
  観音崎灯台は高い所にあった。石段をいくつもいくつものぼってやっとついた。白い灯台だ。「灯台の色はぜんぶちがう、レンズは一等から六等まであるがここは四等だ。」とうけつけの人が説明してくれた。かいだんをのぼって灯台の上へ上った。下を見ると目がまわるようだ。海や山が見えた。中へはいると先生が説明をきいていた。この光が東京湾をてらすのだからよほど強い光だろう。

5 博物館
 博物館を見学した。ここでは大むかしのようすがわかった。人類がはっせいするまでの植物や動物が小さくわかりやすくつくってあった。「地球ははじめ火山がばくはつしていた。やがて水の中に三葉虫がいた。つぎに陸に植物がはえた。沼地が多くなってりょうせい類がでてきた。やがて沼地がなくなってりく地にきょうりゅうがあらわれた。つぎにマンモスの時代になり、人類があらわれた。」と博物館の人が説明してくれた。ほかにむかしの船がたくさんあった。大むかしの人も、いろいろくふうしたことがよくわかった。

6 植物園
 植物園の中はとてもあつい。大きなバナナの木に緑色のバナナがなっていた。パイナップル、ゴム、シャボテンなどいろいろの熱帯植物があった。メキシコにはえているような大きなシャボテンにはびっくりした。バナナの木もとてもおおきかった。シャボテンをみんなが買った。ぼくはなんどもみてまわった。あついのでむれてしまいそうだ。先生はいろいろ買った。そとへ出たら夏の日の下でもすずしく感じた。

7 横須賀火力発電所
 東洋一の横須賀火力発電所は大きくてたくさんのお金がかかっている。火の力で電気をおこすのだ。高さ百メートルのえんとつが四本たっている。一本一億円以上もするそうだ。中へはいるととてもあつい。せんもんに説明しているおじさんが説明してくれた。このおじさんの説明でいくらか火力発電所がわかった。あとで発電所のできるまでのえいがを見せてくれた。まわりの山をくずしてその山を海に入れてうめたて、そこに工場をたてたのだそうだ。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

ナイター見物 七郷六年 藤野嘉彦

 八月七日、たなばたの日、ぼくはナイターを見にいった。野球は巨人対中日戦でした。いつもテレビで野球ばかりむ中になってみていたぼくは、その朝は早くから目がさめ、いよいよ後楽園へ行ける日が来たかとうれしくてたまりませんでした。
 十一時に役場のおとうさんのところへ行き、三時出発のバスに乗った。
 松山を出て二時間ぐらい乗ると、後楽園についた。中へはいって見るとグランドのみどりのしばふは、ぼくが想像していた以上の美しさで、びっくりした。いよいよし合かいしの時がきた。初めのうちはあちこちに見えていた見物人も、はじまるころには、もうまんいんで、どの席もいっぱいでした。ぼくたちの席は三るいがわの指定席で、父とならんですわりました。
 せんこうは中日です。一回の表、中日は0点、こんどは巨人の打つ番です。一番バッターは「しばた」です。けれどもしばたは内野フライでした。こんどは、ぼくのファン王です。王は三しんでした。二回も0点三回も0点、四回の表、中日は中がホワボール、江藤がセンター前のヒット、こんどは五番のアスプロがホームランを打ちました。ホームランを打った時はふんすいが出てとてもきれいです。
 あたりは、まっくらになりました。父が「江藤選手はしゅびにつくのが一番早くて、まじめな人のようだね。」と何度も感心して、ぼくに言いました。そんな話をしているうちに九回のうらになりました。
 先とうバッターしばたからです。しばたは三ゆう間のヒットをうちました。国松がバントで、しばたが二るいへいきました。王はセンター前のヒットで一るい三るいとなった。長島は三しんでツウアウトとなった。こんどは森にかわって塩原です。塩原はライトの後ろをかえたスリーベースで2点はいりました。けれども六番の吉田が三るいゴロで、しあいが終わりました。ぼくは巨人がまけてがっかりしました。でも父と一しょのナイター見物、とてもたのしかった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

「ああ無情」を読んで 菅谷六年 高橋京子

 一切れのパンをぬすんだため、警察につかまったジャンバルジャンは、ながいかんごく生活をすまして、心をかえて旅にでた。
 しかし、世間の人は、心をかえて出て来たジャンを、暖かい気持ちでむかえるどころか、悪口や、いやがらせを平気でやった。それをがまんしたジャンバルジャンは、どんなにくやしかっただろうか。銀のしょく台をとってしまったのも、くやしい気持ちがあったからだろう。でも、やさしい神父さんの心持ちによってジャンバルジャンは真実の人間になろうと決心した。
 道であった少年が落とした銀貨が、自分のくつ下からみつかった時、一生けん命さがし歩いた真心には感心した。でも、わずかなお金のことなのに、ずいぶん弱虫になってしまったものだ。私は<ジャンバルジャン、もっと元気を出して>と、いってやりたかった。でもこの正直な心が、のちに、市長にまでしたのかもしれない。
 世の中には、人がえらくなるとくやしがり、なにかにつけて、すぎ去った悪いことまで取り出して、人をきずつけてしまう人がいる。シャベル刑事がその人だ。私は、この刑事がにくらしくてたまらなかった。やっと苦労して市長にまでなったのに……。
 でも、ジャンバルジャンは、名よも地位も投げ出して、苦しんでいる老人を助け、後にみなし子のコゼットまですくった。自分の親兄弟でも、あれだけ苦心してすくいだすのは大変なことなのに、私は読みながら、<どうか早く助かるように>と、祈らずにはいられなかった。
 神父と約束したことを、りっぱに守りとおし、自分の犯した罪をつぐなうためあわれな人々を救ったのも、ジャンバルジャンの勇気と忍耐力と、やさしい真心があったからだと思う。それにしても、あの心のやさしい神父さんがいなかったら、ジャンバルジャンはどんな人間になっていただろうか。おそらく一生悪いことをして終わったかも知れない。
 今の世でも、かんごくから出てきたなどというと、冷たい目で見て、かげ口などいう人がいるけれども、自分が悪いとさとって、りっぱになろうとして出てきたのだから、暖かい気持ちでむかえてやらなければいけないと思う。
 社会の人が、つめたければまた、悪いことをして日本に悪い人がたえなくなってしまう。
 ジャンバルジャンのような気持ちの人ばかりだったら、ひとりの悪い人も出ない平和な国ができるのではないかと思う。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

注射 菅谷六年 栗島澄子

注射だ
みんな、いたそうな顔をしている
「あーあ。」
もうじき、わたしのばんだ。
前の子が終わった。
とうとう、わたしのばんだ。
「あ。」
注射きのはりが、わたしのうでの中に
はいった。
わたしのばんが終わった。
さっきまで、どきどきしていたむねが
すうっとした。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月

町の通り 菅谷六年 中島みよし

あぶない!
ブーブーブー
自動車があっちっこちっちいっぱいだ。
ブーブーブー……
あ、あの子、車がくるのに
わたろうとしている
あ、あぶない
「キューッ」
そっと目をあける、
まったく、よかった。

比企郡国語研究部『むぎぶえ』18号 1965年(昭和40)11月
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