第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
市川藤三郎は常吉の長男として1871年(明治4)に生まれた。常吉は五人の男の子を儲けた。次男高次郎は病身で1916年(大正5)に病没してしまうが、三男和市郎は県立二中(熊谷中学校)から札幌農学校(現北海道大)土木科を経て、近衛連隊の工兵将校となり、四男茂平は熊谷中学校から慶応義塾(現慶応大)経済科を経て経理将校となった。五男徳治は日清・日露の戦争の影響もあり、熊谷中卒業後直ちに軍隊に入り軍曹にまで昇進した。明治の中頃において中学への進学者は希少であり、ましてこの寒村にあって大学教育をうけたことは稀有の事と言わざる得ない。いづれにしても軍人優位の社会情勢の中でそれぞれ立派に身を立てていった。
これ程までに子供の教育に熱心だった常吉だが、何故か藤三郎にはそうした学歴も軍歴も見当たらない。わずかに1893年(明治26)、成田村の晩成義塾権田春徳から常吉宛の書状に、教え子からの寄付により墓碑を建設したい旨の便りがあったのを見ると、近隣の私塾において数年学問を習った形跡が窺える程度である。当時の通念として長男は家業を継ぎ、家督を相続してゆくものとされていた。また農業後継者として学問必要はないと考えられていたからではないだろうか。また軍籍になかったのは当時の徴兵制度のなかに嫡男は兵役が免除される特典があったためである。こした状況の中で藤三郎は成長し、父常吉の膝下にあって家業に精励していた。
1909年(明治42)、常吉は他界し、その家督を藤三郎が相続した。時に藤三郎三十八歳であった。偉大な政経家であった常吉の死によって、家業・家政のすべてが藤三郎の双肩にかかってくることになった。この頃、日露戦争後で景気が下降し、明治天皇の崩御を契機に不況は一層ひどくなり、世に諒闇(天子が父の喪に服する期間)不景気といわれる時代にあった。藤三郎はこの状況から脱却し農村生活の安定をはかるべきことを痛感していた。これに先立って、1900年(明治33)、「産業組合法」(信用組合・販売組合・購買組合・生産組合の四種、七人以上で成立)が公布され、組合員の協力によりその産業経済の発展をはかり、資力の少ない中・小生産者を救済することを目的として、農村部を中心に組織されていった。1910年(明治43)には全国で七三〇八組合が結成されていたことが伝えられている。藤三郎はこうした社会情勢の中から「七郷信用組合」の設立をおもいたったのである。
1913年(大正2)3月12日、市川藤三郎を発起人として創立総会を宝薬寺(越畑)において開催、3月28日「産業組合設立許可申請書」を県知事に提出、同年11月22日設立が認可された。
申請書によれば、組合名は「有限責任七郷信用購買販売組合」、設立者は、市川藤三郎・船戸小重郎・新井重太郎・青木五三郎・久保三源次・市川兵蔵・馬場儀平次・田嶋稲吉・船戸平左衛門の九名で、産業組合法に依り設立申請する旨記述されている。なお、同年12月20日には熊谷区裁判所小川出張所へ設立登記申請がなされ、名実共に産業組合が成立した。その後1914年(大正3)5月には埼玉県信用組合連合会へ加入、6月には全国組織の産業組合中央会への勧誘を受け、これに加盟、1917年(大正6)には仮事務所(吉田鶴巻の七郷村役場前方)を定め、ここに確固たる基盤を築くことができた。
早速、同年12月1日、出資申込金第一回払い込み通知が出された。出資金は一口に付き一円で、20日までを納期とした。どの位の申し込みがあったのだろうか。1913年(大正2)12月から1914年(大正3)3月までの会計帳簿を見ると、第一回払い込み二三五口、増資十七口であった。収入としては二五二円あったことになる。支出の面を見ると目立つのが貸付金で、1913年(大正2)には船戸揖夫の一〇〇円を筆頭に九人三〇五円が貸し出され、1914年(大正3)には久保三源次の五〇円を始に、十人一九五円が貸し出され、計五〇〇円となっている。これに対し収入としての払い込み金は二回分で五〇四円で、収支とんとんの状況である。他の販売物品の購入や運営にも資金は必要で、止む無く藤三郎が1月25日に一〇二円、2月14日に一四六円物品肥料の購入代金として出資している。経営状況は所謂自転車操業であり、出資金だけでは運営できず、藤三郎の持ち出し分が多かった。従って、購入先への支払いも滞り勝ちでしばしば支払い督促をうけている状態であった。
ではどんな物品が購買されていたのだろうか。最も多くしかも重要だったものは肥料である。1897年(明治30)頃から人肥にかわって化学肥料が利用されるようになり、当地方にもそうした傾向が伝えられ、需要がたかまったのだろう。硫安(硫酸アンモニア)・過燐酸石灰・生石灰・チリ硝石・大豆粕等が販売されている。次いで多いのは食品で、砂糖・塩・醤油・酒粕・海産物等、また燃料として石油・木炭、 細かい日用雑貨ではローソク・線香・油紙・障子紙・桧笠・カッパ・盆花・盆ゴザ、そして道具類として草刈鎌・桑切り鎌・宮島(杓子)・蚕具等、苗木から蔬菜類の種子まで販売された。今日のスーパーマーケツトの小型判のようであった。
個人の側から購入利用状況を見てみょう。次に示したものは1921年(大正10)の組合員・栗原侃一家の「物品買入覚帳」の一部である。購入者はこの帳面に記載してもらい、現金なしで物を買うことが出来た。購入品は前掲のものとあまり変わらないが、裏地・シャツ・股引・学帽・巻ゲートル・手拭といった衣料が目に付く。十年の間にやや変わってきた。
買入月日 金 額 品名・数量
2月4日 40銭 釘・60匁釘
3月2日 10銭 縫糸
3月2日 1円38銭 裏地・地縞1反
3月29日 30銭 白足袋
〔中略〕
1月26日 20銭 お玉2本
1月26日 25銭 ひしゃく1本
1月26日 10銭 水引
1月26日 1円 小桶
大正11年7月27日 右計19円88銭・利子2円33銭 相済 青木
栗原家の場合は1921年(大正10)2月4日から(途中省略)翌年の1月26日まで記載があり、1922年(大正11)7月27日に「青木」(青木五三郎か)のサインがあって、「相済」となっているので、この時に支払いをしたのであろう。この帳面の表紙裏の諸注意に「掛買金ハ毎月末ニ必ズ支払スルコト」とあるのを見れば、これは明らかに規則に反している。一年以上も支払いがない上に、延滞の利子が一割一分強というのでは、経営状況がおおらかと言おうか、杜撰(ずさん)といわざるをえない。それでも信用購買販売組合の名前の通り信用に守られながら永続していった。
1932年(昭和7)8月、三十年間にわたって組合長を勤めた市川藤三郎が死去し、創立の同志であった青木五三郎にその職を譲った。1936年(昭和11)、安藤寸介が組合長に就任し、翌年創立者の功績を讃えて故市川藤三郎へ感謝状が贈られた。感謝状が贈られるまでもなく信用組合は頼母子講や金融機関の代替でもあったし、生活必需品の低廉販売等によって農村生活の向上に益することが多かったことを思えば先見の明のあった藤三郎の功績は大きかったと言えよう。1942年(昭和17)、組合長は藤三郎の長男武市に引き継がれたが、未曾有の戦争のために、1944年(昭和19)に七郷村農業会に吸収され、やがて終戦とともに七郷農業協同組合へと移行されていった。
参考文献・資料
市川貢家文書(二次整理分)No.1493 感謝状
栗原靖家文書No.84 物品購入覚帳
仮事務所前の写真