第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
武蔵酪農創立四十周年の歩み
その後の経過
○昭和25年(1950)度
昭和25年7月東京乳業株式会社比企集乳所が新設され、伊東勝太郎氏が初代集乳所長に就任した。小松氏(現関東製酪KK社長)大貫、木下氏等受乳を担当し、小松氏は後に秩父(現全秩酪農)へ赴任した。
武蔵北部酪農農業協同組合は、集乳所の一隅を借り発足した。
組合事業については販売、購買、指導の諸事業が開始され、集送乳については横塚、長谷部、木村、志村の各氏が担当した。
その頃の酪農家の乳牛の飼育頭数は一戸当り1〜2頭で搾乳は1日3回搾った原乳は一斗缶又は冷し缶で井戸に吊して冷却保冷した。
組合は各地域に集乳所の設置を計画していたが、菅谷村菅谷、平沢、千手堂、遠山、鎌形、宮前村月輪、伊古等、集乳所の近辺の組合員は自転車の荷台に一斗缶をつけ持ち込み、二本の持ち込みは稀であった。
元老の山田眞平氏関根茂良氏達は和服姿で姿勢よく自転車に乗り、原乳を運んだ姿も牛乳の争奪戦とは裏腹に一時代を憶わせる和やかな光景でもあった。
東京の送乳については横塚氏(後の旭運輸社長)は木炭車のトラックの面倒をみながら二斗缶を荷台に積み二斗缶の間に氷を乗せシートを覆い乳質を気にしながら苦労して板橋工場へと送乳した。
酪農の戦国時代の幕開けとでもいうべきか、各地域では隣の家はA組合、或いはB組合と複雑な環境のなかで引続き組合の支部長、役職員はメーカーと共に夜も休まず組合の理想をかかげながら、攻防戦を展開する長い道のりとなる訳である。
牛乳の生産量も着々増量し夏期に於て日産10石を記録するに至った。
9月上旬〜10月中旬にかけて突如、牛の流行性感冒が発生し猛威を振い殆んど全頭が罹患し、伊東所長、田村獣医師は昼夜にわたる診療活動に大変てあった。
10月東京乳業KKは明治乳業KKと合併したので、原乳はそのまま明治乳業株式会社と取引きは継続された。生産態勢も着々軌道に乗り日産乳量も拾数石に達した。
○昭和25年(1950)12月17日
拾石祝(日産)が菅谷中学校に於て盛大に行なわれた。
○昭和26年(1951)度
昭和26年5月3日 第一回通常総会 於菅谷小学校
総組合員数 353名
出席者数 299名(内委任状39名)
役員改選 理事 16名 監事 3名
5月8日 二代組合長 濱中東重郎(非常勤) 選任
専務 山下武二(常勤) 〃
7月4日 獣医師 玉置源吉 採用
7月27日 理事会に於て事務所(会議室、宿直室を含む)
建設が決定
場所 集乳所の近辺 資金25万円以内
建設委員 山田眞平 高坂清一 江野子吉
(理事会で総て一任)
8月1日 土地取得(中島照三氏より)
菅谷村大字菅谷234番地の4
面積30坪 取得価格1万円
9月21日 事務所 木造平家 建坪15坪 建築価格23万円
(宿直は獣医師に依頼)
○牛の流行性感冒について全頭予防施策を講じ、前任に比し発生は減少した。
○人工授精用二輪車購入(寄附金)
○乳質改善対策として落等乳防止等指導懇談会開催。
○興農資金貸付に依る乳牛導入。
○理事会内部に於て乳質問題に関連し集送乳事業の問題で討議がなされた。○昭和27年(1952)度
昭和27年4月29日 第二回通常総会 於菅谷中学校
総組合員数 383名
出席者数 288名(内委任状65名)
第二回通常総会に於て定款変更を上程し前定款を廃棄し、新定款に変更した。
信用事業をとり入れられ貯金業務も開始された。
5月12日 専務 山下武二(常勤) 辞任
5月18日 専務 大塚眞一(常勤) 選任
12月 1日 獣医師 玉置源吉退職
(後に明治乳業入社現和光畜産KK社長)
組合の運営も着々軌道に乗りつつあるも酪農戦国の世は厳しく近隣の小川に小川ミルプラントの設立計画(10円牛乳)が進み目先現乳の高買いが始まり、組合内部に於ても八和田、野本等の地域で蠢動的な様相が見えはじめ、数拾名の脱落者を出すに至った。(数年を待たずに乳代の遅延等が生じ崩壊し、出荷者は元の組合に戻るもの他の組合に出荷するもの等に別れた)
かかるなかで、組合は着々事業を進め、当時は田畑は米麦主体の大切な財産であり飼料作物等普及については大変な苦労を費した。
飼料作物指導圃設置について1支部5畝として種子を無償で交付し、推進に努めた。例1.2.3.の圃場設計を出し、各支部より希望を求め、次の通り野本例3、松山例1、大岡例1、西吉見例1、宮前例1、菅谷例3、八和田例1、福田例1、唐子例3、小見野例1、八ツ保例1、竹沢例1の圃場作付が実施され、これにより自給飼料普及推進が始まり、後に山林牧野等にイタリヤン等の牧草が播種されその推進が図られた。○烏山工場(のちの東京工場)へ送乳
大都市に於ける乳製品及び飲用牛乳の需要は年々増加の傾向にあり、この年の7月明治乳業は烏山工場(後の東京工場)を開設操業した。新烏山工場は、わが国で初めての高温短時間殺菌方式による市乳処理設備をもち、乳業界に大きな革新をもたらした工場で、当組合の原乳も新烏山工場へ送乳することになった。
早速役員支部長会は全員新設操業した新烏山工場を見学した。
玉置獣医師の退職により、獣医師の補充については伊東所長田村獣医師に一任し、当面手不足となった診療について自動二輪車の購入が検討された。
後に購入委員会に依り、メグロ500CCが獣医専用車として購入された。
購入金額24万8000円資金は組合員の負担金によるものであった。
この年度は小川プラント問題等もあり乳価問題について会社側貫当96円、組合側は100円で伊東所長と理事会に於て厳しい折衝が行なわれた。○昭和28年(1953)度
昭和28年5月10日 第三回通常総会開催 於菅谷村小学校
総組合員数 398名
出席者数 289名
役員改選 理事 16名 監事 3名
5月15日 組合長 濱中東重郎(非常勤)選任
専務 大塚眞一(常勤) 選任
6月1日 獣医師 若林進 採用○6月第1回乳牛導入実施 導入頭数13頭 購買地 山形県 購買委員 山田、荒井、伊東他
○夏乳増産共励回実施
○第2回乳牛導入 導入頭数20頭 購買地 山形県 購買委員 吉田、山下、荒井、山田、田村
○獣医用自動二輪車購入
○育成牛共励会実施 菅谷会場50頭 小見野会場 50頭
27年(1952)〜28年(1953)にかけて生産量も上昇し、全国的に牛乳の争奪戦が展開され、乳業界は戦国時代となり、この近辺に於ての業界も農家に支払われる原料乳価は経済乳価から競争による乳価の上積みが行われるようになり、採算をこえての追従があった。所謂酪農ブームとなり有畜農家創設特別措置法制定と平行し農家は酪農へと転じ、自転車で手綱を持ち牛買いに歩く様があちこちに見られた。
高坂村、三保谷村でも酪農の機運が高まり高坂では高坂農協が酪農部を作り、明治乳業と交渉が進み導入希望者は20数名に達し資金は農協が対応し、武蔵酪農に加入が決定し29年(1954)春山形導入を実施し田村獣医師が出張した。初妊牛価格15〜18万。時を同じくして三保谷村に於ても12名酪農希望者が集まり岡野、石黒、関氏或いは三保谷村農務課の長沢氏等当組合の福島敬三理事の指導に依り武蔵酪農に加入が決定した。29年(1954)3月早速山形導入を実施し購買者4名、当局より1名、武蔵酪農から福島理事と田村獣医師が参加し11頭の初妊牛を導入した。○昭和29年(1954)度
昭和29年(1954)5月5日 第四回通常総会開催 於菅谷村小学校
総組合員数 438名
出席者数 330名(内委任状14名)
7月1日 獣医師 西川奨 採用
11月8日 内田千鶴子 採用
乳質指導も段々と強化され、牛乳検査は県衛生部松山保健所の管轄で器具の取扱い、その他搾乳衛生等について秋池春雄技師が指導されると共に酪農家に対し食品衛生の理念についての教育もなされた。
○三保谷、高坂支部加入
○夏乳増産共励会実施
○酪農振興法の施行により生乳取引き契約締結
○獣医専用オートバイ購入。
前年の酪農ブームの喜びも、今年度は一転して乳価値下げ(1升7円)となり、酪農経営に多大の不安を与え、酪農ブームに乗って始めた酪農家、三保谷、高坂の生産者は乳牛価格の最高時に購入し、これから酪農の第一歩を踏み出す出ばなを挫かれ、苦境に追い込まれた。当組合獣医陣は飼育管理上の失敗なきよう、連日その指導に当り経営の安定に努めた。○昭和30年(1955)度
昭和30年(1955)5月7日 第五回通常総会開催 於菅谷村小学校
総組合員数 533名
出席者数 330名(内委任状39名)
役員改選 理事16名 監事3名
5月13日 組合長 濱中東重郎(非常勤)選任
5月27日 専務 藤野喜十(常勤) 選任
7月20日 根立トシ子 採用
7月31日 吉田愛子 退職
○夏乳増産共励会実施
○家畜共済制度の改正
○役員会生産、販売、購買の各部門制発足
○サイロ形枠購入。サイロ設置推進
○12月 倉庫建設 土地56坪購入 購入価格69850円
倉庫木造平 30坪 価格117228円
(この倉庫は横塚氏より車庫を贈与され倉庫に改築建造した。これに対し組合は感謝状と金一封を贈った。)
31年(1956)春、発足して間もない高坂農協酪農部(高坂支部)は、高坂農協の役員改選により酪農部の指導者も変った。そこで雪印乳業の問題が発生し、酪農事情に浅い指導者達は酪農の現況を把握できないまま、目先きの問題に翻弄され、生産者戸惑いのなかで、新方向に傾倒の傾向が現れ、高坂内部に於て明治武蔵酪農系と雪印農協系との間に於て激烈な攻防戦となり、明治乳業及び当組合の役職員指導陣の昼夜に亘る活動は激烈なものであった。結果的には25名が半々に分裂し、農協酪農部は雪印乳業と契約した。当組合に残った13名は農協酪農部を離脱し、高坂支部として安定的な発展を成した。高坂農協酪農部は指導部の弱体から数年後生産者共々崩壊した。この時大岡支部に於ても数名のものが雪印に出荷し支部が分裂した。○昭和31年(1956)度
高坂地区で攻防戦を展開している最中、七郷村に於ては埼玉酪農七郷支部の出荷者の中に於て、武蔵酪農加入の機運は高まり明治乳業伊東所長現地に出向し、内容説明すると共に、菅谷支部の若手リーダーの山田巌氏、奥平武治氏、鯨井正作氏、支部長の中島源造氏等地区内に潜行し加入説得に当たる。七郷地区に於ては、これ又若手の明治派田畑郷治氏、杉田善作氏、中村昇氏等が決起し、武蔵酪農加入推進に邁進し、時の元老達を困らせ乍らも40数名全員一体となって武蔵酪農の加入に漕ぎ着けた。
『武蔵酪農創立四十周年の歩み』16頁〜21頁 武蔵酪農農業協同組合, 1990年1月
6月4日の理事会に於て奥平武二氏理事より経過と全員加入の説明がなされた。この厳しい争奪攻防戦も昼夜に亘り熾烈を極め、菅谷第2支部が発足した。
その後数名の巻き返し離脱者が生じた。
昭和31年4月 理事 高橋永治 退任