第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
農村経済更生運動
各地に於ける常会の展望
更生村七郷村を訪ねて 前栗原村長語る
更生途上にある本村【七郷村(ななさとむら)、現・嵐山町】が農林大臣を始め各方面から表彰を受けたことに対しては心から恐縮して居る。只従来努力し来つた二三の点を卒直に申上げて御批判を仰ぎたいと思ふ。
先づ第一に産業組合を中心として各種団体の極めて緊密なる聯絡協調と購販売の思ひ切つた統制を更生計画の基調として実行し来たつて相当成績を挙げることが出来た。例へば米麦の販売、小作の納付等については先づ第一に農事実行組合毎に共同集荷所に於て共同検査を受け入庫伝票を発行して倉庫に入れる。伝票は生産者、寄託者の名義で発行し小作も現物で納めることなく悉く伝票で納める。販売も特別條件付のものは別として一般のものは適宜組合に於て適当な時期を見計らつて売る。各種の供出などにも極めて便利である。これまでに徹底的に統制されてゐるのは県下でも例が少いと思ふ。
一体本村の過去の事情を顧みると、村のぼろをそつくりぶちまけることは心苦しいが又他の一面より考へれば卒直に村の実情をお話してこそ真剣に村の更生を、村の振興を考へる御参考になるのではないかと思れるので敢へて申上げやうと思ふ。
もと本村には学校が二つあつて北部、南部とに別れて居つた。政党的には大した対立もなかつたが、南北に対立して相当摩擦もあり自治の振はざること夥しかつた。従つて村長なども永続きがせずその在任平均二年半に満たざる状況であつた。一方各農家の経済を見れば大小の差の少い比較的中産者の多い本村にあつては大正五年(1916)あたり出所有地が多く差引一五〇町位の持越しで各家庭の経済も比較的豊かであつたと云へる。所が前欧州大戦の好景気が本村民の経済には大きな災であつた。好況に気をよくして生活程度はグングン高まる。ひいては投機的な気持も現れる遊惰に耽けるものも出来て来る。馬鈴薯と十円札のない家はないと言つたすばらしい鼻景気であつた。当時は信用借してもすぐなせたのが却つて借金の悪習を残すことになつた。昭和五年(1930)世界的の大不況のため生産物価の大暴落を来し借金だけが残つて身動きも出来なくなつた。裁判所からはひつきりなしに競売公告が来る。役場の掲示板に貼り切れない程来る。恥しいことに熊谷区裁判所管内随一であつたといふことである。破産者は続出するし昭和五、六、七年の三年間(1930〜2932)は本村にとつては文字通りの受難時代であつた。昭和五年(1930)七月二日村民大会の決議などを見ると経済的に本村が如何に窮乏のどん底にあつたか。思想的にも可成り悪化したことが如実に示されてゐる。当時村長は辞職して私は助役に就任した。その年本村に二つの小作組合が出来た。一つは単なる小作組合であつたが他の一つはある思想団体がバックになつてゐたやうで此の二つの組合がよく聯絡して争議は相当猛烈を極めた。全農の闘士が役員六、七名をつれ赤旗をたてゝ役場に押しかけたこともあつた。最初の年など小作の四割減を要求して来た。翌年は三割減、翌々年は二割減、第一年、二年は或條件で解決はしたものゝ他に相当悪影響を及ぼした。第三年目には、こちらから小作組合の幹部に参集を求め夜の十二時過まで懇談し懇ろに組合の解散を促した。理事者としても組合幹部の立場も考へ地主に協定の上一割減で妥協も出来、組合も解散された。とにかく、かほどまでに経済的にも思想的にも悪くなつたので向ふ三軒両隣り、五人組、十人組と言つた隣保相助の精神はひどく傷つけられ信用借は勿論地主からの米も借りられなくなり金融は全く杜絶したと言つても過言ではなかつた。産業組合は肥料代が固定して回収出来ず貯金の払戻しも理事者が出し合つてやつと応ずる始末。購買も名ばかりで老事務員が下駄の鼻緒と学用品の一部をやつとまかなふ程度で言はゞ有名無実と云つたわけ。従つて村税の滞納なども相当なもので役場吏員や小学校の職員の給料も分給の止む無き事情であつた。真に村政は行詰つた。如何にせば更生するか、若し此の儘推移するならば本村はどうなるか、心ある者の等しく心配した所であつた。当時農学校【熊谷農学校】卒業生の懇談親睦のために農事研究会と云ふのがあつた。この農事研究会の度毎に本村の更生を如何にすべきかゞ話題の中心となつた。自分達が生涯住まねばならぬ産土神の地、子孫まで住まねばならぬこの郷土、何としてゞも更生させなければならぬ。その更生の途はあるまいか誰の力で挽回出来るのか幾度か夜を徹して協議は続けられた。明治維新は三十前後の青壮年の力に依つて行はれた。吾が村も若人の力で更生するのが一番近道ではあるまいか。と言ふことになつて昭和六年(1931)農事研究会、青年団役員発議で農事経営改善委員会を組織し経営の改善、副業問題、悪化した思想の善導等について研究凝議した。一時学校教育まで否認し兼ねない状況であつたが村の更生は先づ教育からと思つて石川校長とも相談の上、先づ学校で勤労教育、そしてそれを家庭へと考へ尋四以上の子供に毎週土曜日の放課後一、二時間縄なひを課しその売上代金は全部貯蓄させることにして勤倹貯蓄の精神涵養に努力した。初めの中は多少厄介がつた様子も見えないわけではなかつたが、この縄なひを通して父兄の反省自覚を促したことは相当大きなものであつた。他面村民融和の必要を痛感した。何とかして村民が一つ気持になつて努力精進するのでなければ目的の貫徹は断じて出来ないと思つて昭和七年(1932)部落座談会を開き始めた。最初青年団支部毎に青年層の奮起を促した所が何れも共鳴一円融合の精神が日に日に培れて行く。続いて婦人の座談会、次に主人の座談会、役場からも、学校からも、農会からも部落に出て行つて次から次へと懇談して行つた。一月、三月などは一日も休まなかつた。部落座談会で痛切に感じたのは、一字の融和といふことが如何に大切であるかと云ふことである。その内幕に秘密があつたら定つて家族が真に明るい生活をして居ないといふ事実を握つた父曰く家内に金は持たせられない、すぐに費つてしまふ。母曰く主人は私等の困るのには一切おかまひなし、下帯一つ買つて呉れないで自分では毎晩飲んであるくとか、或は家では金もないのに米でも売るとすぐ盆栽、書画など買つてしまふ。うつかり言へばゲンコツがとぶのでだまつてゐるがと。これではならぬ。村当局がこゝに着眼して一家に秘密のないやう、借金は全家族に知らせ、互に一つ気持になつて気をつけるやうに今後の本村更生はこの点を十分に考へなければならぬことを痛感した。幸に部落座談会が全村民の心持ちを一つにした。昭和七年(1932)政府が農村救済の事業を起すと共に自力更生指定を郡農会に申出たが評判の難村ではあり農会の技術員なども廃したために指定されなかつた。昭和八年技術員も設置、県に指定を申出た。難色もあつたが悪い七郷がどの位よくなるかゞ真の指定の意味もあらうといふので経済更生指定村となつた。昭和八年基本調査を初めたが部落に重点を置き各部落に中心者―実行委員を置いて調査した。一〇〇名以上の実行委員は各々自分の部落の指導督励に専心努力した。それが今日の成果の源泉である。計画上最も重点を置いたのは各団体の統制である。自分独自の立場を持ちながら一つになることである。大体組織は村長が中心で教育方面は小学校長、農業経営改善は農会長、経済は産業組合長、生活改善は村会議員と云つたやうに五部に分れてゐるものゝ農会と組合などは離れるものではない一心同体でなければならぬ。結局産業組合を中心として各団体が一体化してゐる。農会の技術員が産業組合の方へ行つて活動するのも小学校で学用品の購買をするのも青年団で産青聯明の組織、盆暮の奉仕的配給女子青年団の繭の処理、産業組合と共同で代金の仮渡し精算等皆その一例である。
かくの如く村の中央機関が聯絡を密にして一心同体となり、部落に対してはにはかに産業組合への全村加入は困難だから、せめて全村利用出来るやうに農家組合を農事実行組合に改組した。更にこの組合を小単位にする必要から五人組制度を復活させた、かくて実行組織の体系は出来上つた。従来部落座談会は大字毎であつたが小さい集りの方がより徹底するので農事実行組合単位に改正した。昭和十一年(1936)特別助成村となり経済更生の計画を遂行すべき諸施設部落倉庫、集荷処理場等を完全に利用することが出来るやうになり購販売もよく統制されるやうになつた。肥料のやうなものも産業組合が原肥を購入し農事実行組合に於て配合の上各組合員に配給する。肥料代販売代金の精算は実行組合長が代表して産業組合で行ふ。此の組織の運用が事変後は特によく行はれて居る。色々の供出なども割当はするが倉庫に入つて居るのをそのまゝ出せるので誠に便利である。米、麦、サツマ、梅干等悉く割当以上の供出がされてゐる。
村常会は十日、二十五日が定例日で全村民会といふのを五月と十二月と年二回開催する。部落の常会は二十二班あるが夫々自分の班の名前と同じ日に開くことになつてゐるので別に通知等はしない。特別なものとしては婦人常会といふのを三月若くは四月に開いて経済更生や台所改善等について特に研究することにしてゐる。今後の農村問題を考へると労力はだんだん減って行くのに反して増産をせねばならず勢ひ共同経営と云つた方面に努力されなければなるまい。この場合部落単位といふことになると思はれるが、本村で一昨年来各実行組合毎に共同作業をやつてゐるが労力の節減並に利用と言つた方面はもつともつとしつかりやつていかねばなるまい。それに附随して土地の交換分合なども考へなければならぬ。それには何より共同心、一円融合の精神を必要とするので常会に依て充分此の精神を培ふことが根本問題であり先決問題であると思ふ。今後の農村経営の基調がこゝにあることを思つて今後とも十分努力するつもりである。
埼玉県国民精神総動員資料第五輯『埼玉の常会』8頁〜14頁 1940年(昭和15)3月
(文責記者にあり)